第二話 櫻井翼 前編
その日は六月のくせに暑かった。
滲んだ汗を拭いながら、放課後の空き教室で俺は無意味に文句ばかりを吐き続ける。二ヶ月前に入学して一ヶ月前に生徒会役員になった俺は、先輩たちから雑用を押しつけられていた。それもたった一人の一年に任せるような量ではなくて、投げやりになりつつあった。
高校生になり人生初の上下関係の厳しさを思い知った俺は、紙を折り畳んでは重ねるというなんとも地味な作業を繰り返していた。そもそもこれは生徒会の仕事ではない気がするのだが、言ったところで何も変わらないのは明白だった。
「くそっ! 何を言われても知らねぇからな……!」
文句もこれで終わりにしようとした時、一人の女子生徒が空き教室を覗いていることに気がついた。
肩まである黒髪は、開け放っていた窓から吹く薫風に揺れる。この暑さにも関わらずブレザーを着ている女子生徒は、俺と目が合った瞬間に慌てて走り去ってしまった。
(……なんだったんだ?)
無駄な時間を使った。少しだけ焦りながら作業を再開させる。重ねた紙はまた吹く風に飛ばされそうになり、近くに置いてあった筆箱で錘にした。
一枚一枚丁寧に折っていると、当然一人では終わらないわけで。ため息を吐いて生徒会に入るんじゃなかったと後悔して自嘲する。
「ッ?!」
指先に走った痛みに顔を歪めた。例え小さな傷であっても、たった今酷使している指先にあると永遠に痛む。すぐさま指を咥えて手を止めるが、この時間さえも無駄な気がした。
そして、こんなことをしている自分があまりにも惨めで。泣きたくなった。
「……あの、大丈夫ですか?」
声がして反射的に入り口へと視線を移す。そこには、先ほど走り去った女子生徒が眉を下げて立っていた。
今度は俺と目が合っても逃げなくて。状況を察したのか鞄の中をまさぐっている。出てきたのは、どこにでも売っていそうな絆創膏だった。
「これ、使ってください」
シンプルなそれを一枚切りとって、女子生徒は咥えられた俺の指を無理矢理引き抜く。そして、怪我をした人差し指に巻いてくれたのだ。その絆創膏を。
「……サンキュー」
「いえ」
素っ気なく返されたが、俯いている女子生徒は嬉しそうだった。女子生徒の視線は俺の血がついたプリントへと移り、さらに残っているプリントへと移り。
「あ」
今年の生徒会は仕事が遅いとでも思ったのだろうか。それとも、俺を情けない男だと思うのだろうか。だが、女子生徒から出てきた台詞はそのどれでもなかった。
「手伝いましょうか?」
「へっ?」
手伝う? 夢を見ているのかと思うくらいに心か救われる言葉だった。
「だって、効率が悪いでしょう? ……それに、さっき見て思ったのですがこの量を一人でやるのは無理です」
「だ、だよな!」
ようやく自分と同じ意見を持った人に巡り逢えた。それだけでも感動を覚える。そう思って戻ってきてくれたのなら、涙が溢れる。
女子生徒は無言で俺を見上げており、俺の答えを待っていた。
「……じゃあ、お願いしてもいい?」
「もちろん」
女子生徒は、無表情のまま残ったプリントに手を伸ばす。一枚、一枚、そしてまた一枚と折っていく。丁寧に折れているのだろうか。それは杞憂だった。
あっという間に五枚折り終わった彼女の、前髪の隙間からたまに見えるその目は輝いていて。
「あ、あの!」
作業を邪魔されて、少しだけむっとする彼女の目は俺を恨んでいて。申し訳ないと思いつつも、俺は自分の欲望を優先させた。
「名前聞いてもいいかな? ほら、じゃないと呼びにくいから……」
それもあるが、純粋に、本当に純粋に、気になったのだ。彼女の名前とクラス、それだけでもいいからどうしても聞きたかった。
「春日美月」
「……かすが、みつき」
ゆっくりと、噛み砕くようにその名前を口に出した。漢字は容易に想像できて、素敵な名前だと素直に思う。
春日はフルネームを呼ばれたことに照れた──ように見えた。
「俺は櫻井翼だ」
けど、春日はもう俺の方を見ていなかった。また例の作業に戻っており、黙々と手を動かしている。この仕事を押しつけられた本人がやらなくてどうするんだ、俺もプリントに手を伸ばして折り続けた。
絶望的だった作業は春日のおかげで終わりそうだったが、終わってほしくないと心がずっと叫んでいた。
「じゃ、私帰るね」
すべての作業を終えた瞬間、春日はそう言って空き教室から出ていった。いや、そうかる前に俺は春日を呼び止めていた。春日は振り返らなかったが、足を止めて俺のことを待っていた。
「ありがとう!」
訪れたのは静寂だった。六時を回った時計の針が、心臓の音のように聞こえるだけだった。
「当然のことをしただけだから」
確かに聞こえたその言葉は俺の宝物だ。そんな人間になりたいと思えたから。
今度こそ本当に、春日は教室から出ていく。
「あ!」
咄嗟に伸ばした手を呆然と眺めていた。そして、生まれてしまったこの感情に気づいてしまった。
*
春日美月のクラスは遠かった。だから話しかけられなかったんだと言い訳をする。俺は、今日あった出来事を鮮明に覚えていた。
何気なく寄ったクラス表の前で、背伸びをしてそれを見ようとする春日。そんなところもあの時と同じように可愛く思えた。そして見たクラス表は、その喜びを上回るものだった。
「……なんで口に出したんだよ、俺」
顔を両方の手を使って覆う。喜びを抑え、それでも言いたくて堪らなくて同じクラスだと言ったのが間違いだった。それで天月が明日も明後日も揶揄ってきたら不登校になろう。そうしよう。
「はぁ……」
制服姿のまま自室のベットに向かって倒れら。掌を翳してそのまま目を閉じると、瞼の裏に春日が現れた。そこにいた春日は、滅多に見ることができない笑みを浮かべていた。
これは妄想だ。妄想の彼女に恋をするな。馬鹿野郎。
……最低野郎。