最終話 Triangle Love
同じクラスの《Vivace》のメンバー、一ノ瀬から告白されて一時間ほど。夜の十時頃に家に着いた私は、大きく息を吸い込んだ。
「……ただいま」
ご飯のいい匂いがする。早く食べたい。けれど、その前にしたいことがある。
「おかえり、どうだった? 楽しかった?」
「楽しかったよ」
リビングから顔だけ出したお母さんに返事をし、「お風呂先入っていい?」と尋ねる。
「もちろんよ。早く入りなさい」
お母さんの返事が聞こえた瞬間、自分の部屋に行ってパジャマを引っ張り、私はすぐにお風呂に入った。
シャワーから出てくるお湯でゆっくりと体を濡らしていく。冷たくなっていた体がじんわりと温かくなり、なんとも言えない感情を和らげていった。
「……はぁ」
溜め息を吐きながら張ってあった湯船に足を入れる。とぽんと音がしてお湯が跳ねた。湯気が外に出ている体を包み込む。ここで顔を洗いたい衝動をぐっと堪えて、私はぐったりと頭を垂れた。
(疲れたなぁ)
ぐりぐりと首を回して瞳を閉じる。大丈夫。落ち着いてきた。さっきの出来事も思い返せる。
『……サンキュー』
一ノ瀬は、今にも泣きそうな表情をしてそう言った。一ノ瀬がそんな表情をするのは初めてじゃないけれど、前回までの悲しい涙とは違って、今回は嬉しい涙に近いような気がした。
「どうしよ……」
小さく声に出して、また「どうしよ」と呟く。私はつっきーへの返事もしてないのだ。そんな状態のまま一ノ瀬だけに返事をすることはできない。絶対に。
顔を勢いよく湯船の中に突っ込んで、溺れかける。それと同じくらい、心も苦しい。
「ぶはっ!」
慌てて酸素を吸い込んで、脳裏に一ノ瀬とつっきーを映す。どうして私なんだろう。私は二人から答えを聞いていない。
生徒会長であるつっきー。
アイドルである一ノ瀬。
私は、二人が舞台に立つ瞬間をこの目で見た。そんな凄い人たちが、なんの取り柄もない私をどうしてと思ってしまう。
私も何かを頑張れたら、二人に相応しい人になれるのだろうか。
不意にそう思った。二人のようにすごい人になるということではなくて、本当に身近なところから頑張れたら自信を持つことができるのだろうか。一ノ瀬にも言ったことだけれど、もう少しだけ誰かと関われたら──前を向いて歩けるのだろうか。
クラスメイトから友達になることは、多分そんなに難しいことではない。六花のようなかけがえのない友達を増やせたら、私はきっと変われる。変わったことになると思う。それは決して夢物語ではない。
「…………」
立ち上る湯気の中、私は自分という人間を見つめ直していた。見つめ直すことで、誰に恋をしているのかを知ろうとした。そうしていると長時間が過ぎてしまうわけで、ご飯を食べることを忘れて、倒れるように眠りについた。
月曜日までには答えを出そう。そう決断をして。
*
時が経つのはあっという間だと前にもそう思ったけれど、今回ほど強く思った日はないだろう。……ただ、幸いなことに私の中ではきちんと答えが出ていた。
緊張とも言える感情を胸に授業を終えた月曜日の放課後は、部活動に励む声があちこちから聞こえてくる。私は素早く校舎内を移動し、目的の人物を探した。
彼は、予想通り生徒会室にいた。予想外だったのは、彼が一人でぼーっとしていることだった。
「つっきー、一人で何しているの?」
尋ねると、たった今私の存在に気づいたらしく、驚いたつっきーと思い切り目が合う。
「かっ、春日?!」
「まさか、また仕事を押しつけられたとか……」
「ち、違う違う! そうじゃない!」
つっきーは手を素早く振って否定した。そして苦笑いをして、肩を竦める。
「生徒会は毎週木曜日にあるから今日はないんだよ。俺が個人的に来たかっただけだから誰もいない」
「来たかったの?」
「先輩たちがいなくなったから、その私物がないかの確認。それと、この部屋にあと一年よろしくなって伝えに来た」
つっきーは目の前の机上に置かれた漫画を指差して、この部屋を見回した。つっきーの瞳の中には、今度も生徒会をやり遂げるという意思があるような気がした。
「私が言うのも変だけど、何かあったら六花を頼って大丈夫だからね?」
副会長に立候補して信任された親友の六花はとても頼れる子だ。人脈も人望もあるから、きっと生徒会長を助けてくれる副会長になれると信じている。
「おう。つかそれ、天月本人にも言われたわ」
つっきーは笑って別の机に目を向ける。視線を追うと《天月六花》と書かれた札が机に立てられていた。
「さすが六花。こういうのって早いなぁ」
そこが六花の席だと理解する。そして、誇らしい気持ちになる。
「だな」
短くつっきーが答えた。会話が途切れたせいで私たちは黙ってしまう。切り出すタイミングは今だろう。
「あのね、つっきー」
「座るか? そこ」
つっきーが視線でソファを差した。
「いいよ、ここで」
立ったままの方が話しやすいだろうから、私は入り口から一歩も動かずに背筋を伸ばす。
「告白の返事、今言うね。私、つっきーから好きって言われた時すごく驚いた。驚いたけど、それ以上に嬉しかった」
これは告白された時にも言った。つっきーが聞きたいのはその続きだということも知ってる。
「……ごめんなさい」
雑音があるはずの放課後なのに、この時だけは静かだった。時間が止まったかのように感じて唇を結ぶ。
つっきーは眉を下げて微笑んでいて、頬を掻いた。
「やっぱりなぁー。……だと思った」
それは意外な返答で、聞き間違えたのかと自分の耳を疑った。
「春日は別の人が好きなんじゃないかって、そんな気がしてたからな」
「つっきー……」
「そいつも春日のことが好きだろ?」
その問いかけに私は迷う。
「た、多分?」
そして首を傾げた。
「多分じゃなくてきっとそうだ。春日もあの新曲聞いただろ?」
あの新曲?
何を言っているのだろうと思って、思い出した曲が一つある。一ノ瀬が所属するグループ《Vivace》の新曲、《レモン・ブロッサム》だ。
「わ、私一ノ瀬だなんて言ってな……」
「その反応からして一ノ瀬だろ」
「ッ?!」
私を指差したつっきーは、何が面白かったのか吹き出した。笑って、笑って、笑っていた。
「行けよ」
笑顔から急に真面目な表情に変わって、つっきーは私の背中を言葉で押す。それはまるですべてを知っているかのようで、怖くも思えたけれど──私は何も言わずに駆け出した。
思い切り階段を駆け上がる。足の裏がじんじんと痛んだ。
今日来ていた一ノ瀬はもう帰っただろうか。脳内ではあの日あの場所で聞いた《レモン・ブロッサム》が流れ続けている。
つっきーに言われて気がついた。どの歌詞も、全部身に覚えがある。その曲の最後の歌詞に書かれていたのは──。
勢いよく走ったせいで立ち止まれず、扉に思いっ切りぶつかった。屋上へと続く扉の取っ手を探って回転させると、あの日と同じように軽く開く。奥から吹いた温かい風が、私の髪を靡かせた。
「一ノ瀬ッ!」
何もない、そして誰もいない屋上から言葉が帰ってくることはなかった。
そんなはずはない。だって、屋上の扉が開いていたから。屋上の鍵を使うことができるのは、つっきーと一ノ瀬だけだから。だから。
「いてよ、一ノ瀬……。ここにいてよ」
一歩ずつ足を動かして屋上へと出る。あの日見た茜色とは違う茜色の夕日が、正面から私のことを照らしていた。
「どこにいるのよ、ばかぁ」
会いたい。一ノ瀬に対してそう思ったのは初めてだ。そんな記念すべき日なんだから、いてくれたっていいじゃないか。
そう願っていると、風に乗って微かな声が聞こえてきた。慌てて耳を澄ませると、「…………ぃ」と発せられている。その声は私がずっと探している人の声で。
「一ノ瀬ッ?!」
まさかと思って外に出る。一定の距離まで来て振り向くと、給水塔の上で寝転んでいた一ノ瀬と目が合った。
「うるさい」
一ノ瀬は、体を起こして言い直した。
「ッ!」
私を見下ろして「なんの用」と尋ねる一ノ瀬は、初めて会った頃の一ノ瀬だ。思わず怯む。どうして私は、こんな選択をしてしまったのだろう。
「えっ、と……」
けれど、自分の心に嘘は吐きたくなかった。だから言う。言わなければつっきーに怒られる。けれど、私を睨む一ノ瀬は本当に私のことが好きなのだろうか。嫌な思考が脳内を占領するけれど、私は頭を振って叫んだ。
「──好きだからねっ!」
校庭や中庭にいる生徒たちに聞かれてしまうくらいの声で、想いを伝えた。
「は……?」
小さく、一ノ瀬が声を漏らした。あまりにも驚きすぎて給水塔から落ちそうになったくらいだ。
なんとか堪えた一ノ瀬は恐る恐る顔を上げて、私の瞳を見つめ返す。どうして信じてくれないのだろう。
「好きだから、私……」
だったら、一ノ瀬が信じるまで何度だって言ってやろう。この口から、この声で、信じてもらうまでいつまでも。
「え? ちょっと待てよ、お前、つっきーが好きなんじゃねぇの?」
身を乗り出す私を片手で制した一ノ瀬がなんとか振り絞った台詞は、まだ私を疑っているものだった。
「……違うよ」
確かに、つっきーの方がいいところだらけだ。優しいし、思いやってくれる。なのに私は一ノ瀬が好きだ。
顔じゃない。有名人だからじゃない。優しくしてくれることはほとんどなかった。思いやってくれることもほとんどなかった。けれど、時々そうしてくれるだけでいいのだ。優しくされることに慣れていない私にとって、つっきーの愛は毒なのだ。一ノ瀬の毒は愛なのだ。努力して大きなものを掴み取ったその姿を尊敬する。つっきーが努力しなかったわけではないけれど、見えない努力をし続けた一ノ瀬を知ったあの日に、私は彼に惹かれたのだ。その気持ちを本人に無視された私は怒る。
一ノ瀬は、それに気づいて慌てて給水塔から降りてきた。降りた直後は恐る恐る私の様子を伺っており、そこだけは初めて会った頃とは違う。
「私、一ノ瀬と似てるって思ったんだ」
そんな一ノ瀬に伝わる言葉はなんだろう。
「不器用なところとか、捻くれているところとか、大切なことを自分の口から出すことが苦手なところとか」
「お前、んなこと考えてたのか?」
「考えてたよ、ずっと」
「……そっか」
少しだけ考え込んだ一ノ瀬は、「お前って真面目だよな」と声に出して笑った。
「なんで笑うの?! こっちは真剣なんだから!」
「いやいい意味だって」
また一ノ瀬に笑われてしまう。私は悔しくて口を閉ざした。
「──俺も好き」
近づいてくる一ノ瀬ははにかんでいて、強引に私を引き寄せる。
「きゃっ?!」
一ノ瀬の匂い。一ノ瀬の体温。一ノ瀬の息遣い。やっぱり、一ノ瀬は毒だ。
「お前もそんな反応すんだな」
「そ、そんな反応って何よ!」
一ノ瀬は答えなかった。その代わりに私の髪を指で梳いて整えてくる。
いつの間にか後頭部を押さえられていた。一ノ瀬の顔が近づいてくる。その意味がわかってしまった。瞳を閉じる。暗闇の中、柔らかい感触が唇に当たって体が一気に熱くなった。
「……い、一ノ瀬」
こんな反応は初めてだ。これから耐えられる自信がない。
「悠」
「……ゆ、悠」
一気に体が火照る。一ノ瀬──悠は、そんな私を愉快そうに眺めていた。けれど、眺めるだけで終わる悠ではなく。
「そんな顔されるともっとなんかしたくなるな」
「は?! なんでよ!」
「俺が捻くれてるって言ったのお前だろ?」
「う」
確かにそうだ。私は墓穴を掘ってしまったらしい。
「お前って真面目だけどバカだよな」
「……美月」
「……は?」
「美月」
悠のことも名前で呼んだのだから、私だってお前じゃなくて名前で呼んでほしい。
求めると、悠はご丁寧に耳だけ真っ赤にさせて視線を逸らした。
「早く呼んでよ」
だからつい、笑って悠を急かしてしまった。
「美月」
そのせいで、悠から最初に呼ばれる名前は不機嫌な声で呼ばれてしまった。
「クソッ! 美月のくせにマジでムカつく!」
そう叫んで、両頬を強引に引っ張られる。小学生か。なのに嫌だと感じないのは私が悠に惚れているからなのだろう。
こんな奴、好きになるんじゃなかった。そう後悔してももう遅い。
茜色の夕日が私たちのすべてを真っ赤に染めている。風が吹くし照れているのかそうでないのかわからなかったけれど、火照る体のままいつまで経っても素直になれない私たちにとっては最高の環境だったかもしれない。それに気づいて、悠が作詞した《レモン・ブロッサム》の最後の歌詞を改めて思う。
──君に触れる レモンの味
そう。私たちの恋は甘くない。それをレモンと例えるのは的確だと思った。




