第九話 櫻井翼 後編2
翌日の放課後、俺はリハーサルの為に体育館へと向かう。
選挙管理委員の委員長である春日は先に体育館に行っており、副委員長である一ノ瀬は今日も放課後になる前に早退した。
体育館につくと、春日が他の委員と準備をしていた。五限目にあった体育の授業の時には何もなかった体育館だが、ステージにはパイプ椅子と机が並べられている。
「委員長、これは何処に置けばいいですか?」
「えっと……」
春日はプリントに視線を落として、少しだけ困った表情を見せた。助けた方がいいのだろうかと逡巡するが、春日は安心したように微笑む。
「……そのパイプ椅子はステージの一番端に置いてください」
「わかりました! ありがとうございます!」
笑顔でステージに向かう後輩を見送った春日は、俺の視線に気づく。
「頑張ってんじゃん、委員長」
「そんなことないよ。みんなが助けてくれるから」
声をかけると、春日はそう言いながら視線を逸らして前髪を弄った。
『……春日さんは、なんでも一人でできるのね』
松山先生の言葉が俺の脳裏を過ぎる。
違うんだ、やっぱり春日はなんでも一人でできるわけじゃない。俺は春日の言葉に喜びに似た感情を抱いた。
「櫻井くーん」
振り向くと、体育館の入り口にいる青柳先輩と鈴宮先輩が視界に入った。春日は小さく微笑んで準備に戻る。行ってこいと俺の背中を押しているようだった。
「どうしたんですか、先輩」
「昨日は葉と紗幸がごめんね。凄い騒ぎだって聞いたんだけど、大丈夫だった?」
その凄い騒ぎというのは俺が原因のアレだろうか。すぐに思い当たったが、青柳先輩には何も言わないことにした。
「……お、俺は大丈夫でした」
「俺は?」
鈴宮先輩が訝しげに聞き返す。俺はわざとらしく咳払いをして話題を終わらせるように努力した。
「用はこれだけじゃないですよね?」
「……えぇ。まぁ、そうね」
青柳先輩は俺の言葉に少しだけ驚いて、反応を遅らせる。約一年間同じ生徒会としてやってきた仲なんだからなんとなくわかるようになってきたが、もう役に立つことはないだろう。
「なんでそんな寂しそうな顔をしているの、翼君」
「そんな顔してないですよ!」
鈴宮先輩も青柳先輩も俺から視線を逸らした。
そんなに酷い表情をしていたのだろうか、俺は。
「用っていうのはね、応援よ」
「……応援?」
「昨日は葉と紗幸が。今日は私と玲奈が」
「どうして先輩たちはそんなに……」
……応援なんてしようとするんだ。
その先は言えなかった。いや、答えはもうわかっていたからかもしれない。
「私たちができることはもう、これくらいしかないからね」
青柳先輩の温かな手が俺の手を取った。それに鈴宮先輩の手が重なった。
やっぱり俺の思った通りだった。最近の先輩たちは罪悪感のようなものを抱えているのか親切に接してくれている。そんなものはただの自己満足でしかないのに、そこには何故か温もりがあった。
「頑張れ頑張れ」
「……言われなくても頑張りますよ」
二人の先輩から応援を貰った俺は、その様子を体育館の廊下の奥から見ていた山南先輩と目が合った。山南先輩は俺の応援演説者の一人として、リハーサルに出てくれる。それも理由にあるのかと思った。
体育館から離れていく青柳先輩と鈴宮先輩は、山南先輩を見つけて一言二言会話する。そんな先輩方を眺めていると、後ろから軽く背中を叩かれた。
「つっきー!」
「天月……」
天月は口角をニッと上げて笑う。一つに結ばれた黒髪が、天月が動く度に揺れた。
「調子はどう?」
「絶好調だよ。天月は?」
「まぁまぁかなぁ。ちょっと緊張するけどね」
天月の笑顔が目に見えてぎこちなくなっていく。手で顔を扇いで、「体育館熱いね」と空いてる手を腰に当てた。
「天月、体温おかしいんじゃないか? もっとリラックスしろよ」
「おかしくなーい!」
そっぽを向いた天月は、自分の方へと駆け寄ってくる高木と柏原に手を振った。柏原は俺のもう一人の応援演説者で、高木は天月の応援演説者だろう。
「バカップルはお呼びじゃねーよ」
「あーあー。やだねー、独り身は嫉妬が激しくて!」
「確かにつっきー機嫌悪いかもー。六花は……ちょっと緊張しすぎじゃない?」
お前らつき合ってから余計に息ぴったりになったな。
柏原を蹴ろうかと思ったが、さっきから春日の視線が俺たちの方に向いていて何もできなかった。
「緊張するよー……」
天月は腹部を摩って唇を尖らせる。高木が天月の肩を撫で、俺と柏原はなんとなく顔を見合わせる。
『リハーサルを始めたいので、立候補者と応援演説者のみなさんはステージに上がってください』
瞬間、春日の声で指示が入った。見ると、春日はマイクを持って俺ではなく天月を心配そうに見つめている。
まぁ、二人は親友だからな。俺はそう納得した。
「行こうぜー」
「おう」
ステージに上がると、山南先輩が既にそこにいた。いつの間に体育館に入っていつの間にステージに上がったんだ。
「櫻井、柏原。お前らの席はここだ」
「お。あざーす」
「ありがとうございます」
一番前の列のパイプ椅子に座る。隣は副会長に立候補する天月だった。
「が、頑張ってね! つっきー!」
「天月がな」
選管が俺たちの人数を数えてる間、春日は松山先生と打ち合わせをしていた。一人で大丈夫なんだろうか。春日を見るといつもそんな心配をしてしまう。
全員出席している事を確認して、春日が切っていたマイクのスイッチを入れた。そして息を吸い込んで──
『では、リハーサルを始めます!』
──いつもよりも固く、緊張した声色で宣言する。ぴりっとした空気が体育館に走った気がした。
リハーサルが終わると「お疲れ様でした」と発言をする律儀な人間の声がする。見るまでもなく、春日が誰かとすれ違う度にそう言っていた。
言われた側は様々な反応をする。ちゃんと返してくれる奴もいたが、先に春日に話しかける奴はいなかった。
「ありがとうございました、山南先輩。本番もよろしくお願いします」
「当たり前だバカ」
山南先輩は、俺の頭を丸めたプリントで叩いてさっさと帰っていく。山南先輩が春日とすれ違うことはなかった。
「花梨ー、帰ろーぜ」
「わかったー。またね六花、つっきー」
「うん、ありがとー花梨!」
「またな」
柏原と高木も春日とはすれ違わなかった。天月は長いため息を吐く。
「じゃ、天月もまたな」
「……えっ? あ、あぁ。うん。またねー」
「ちゃんと気をつけて帰れよ?」
念を押すと、困惑していた天月は「うん」と嬉しそうに笑みを零した。俺はわざと真っ直ぐに体育館の出入り口には行かず、端の方で椅子に座っていた春日のところに行く。
「お疲れ」
先に声をかけると、俯いていた春日が勢いよく顔を上げた。
「あ……」
春日は何かを言いかけて口を閉ざす。それがなんだか残念で、けれどバレないように笑った。
「委員長ってやっぱり大変だろ。みんながいるっつっても」
「だからそんなことないって」
俺は「そうか?」と強く返す。問いかけるような瞳で春日が俺を見たせいで、溢れた思いが口から零れた。
「副委員長の一ノ瀬がなんにも仕事してないだろ」
それは、春日が俺に初めて見せた表情だった。弱々しげに笑う春日は、いつものしっかりとした一匹狼風の春日じゃない。
痛い。とにかく胸が痛かった。
「けど、一ノ瀬は本物の仕事をしているから。仕方ないよ」
自分が今どんな表情をしているのかも知らずに、一ノ瀬をフォローする。春日は今この瞬間も優しい心の持ち主だった。
「別に一ノ瀬がいなくても問題ないし、平気だよ。副委員長ってそんなに仕事ないんだし」
俺は春日を信じなかった。これこそ自己満足かもしれないが、今は信じちゃいけないような気もした。
「……ならなんで副委員長になったんだよ、あいつ」
「え?」
春日が目を見開いて、「ごめん。今、なんて?」と聞き返す。
「い、いや。なんでもない」
そう言い繕った。
「……そう」
椅子から立ち上がった春日は、鞄を持って帰ろうとする。体育館の出入り口をしばらく見つめた後、「あ」と声を漏らした。
「ん?」
振り返った春日は、少しだけ恥ずかしそうに俺を見上げて。
「お疲れ様、つっきー」
溶けるようなその言葉を俺に残した。
*
リハーサルから二日が過ぎた。土日を挟んでいたから月曜日の今日が本番ということになる。今日の一ノ瀬は遅刻も早退もせずに学校を休んでいた。何がそんなに忙しいんだ、あいつは。
五限目になる前の昼休み。昼食を食べ終わった春日が一人で体育館に駆けて行くのを見た。残された天月と目が合って、天月は珍しく苦笑いをする。
「熱心だよねぇ、美月」
そう言って俺の席に近づいてきた天月は、苦笑していた。
「そうだな」
天月は俺の隣の席に座って俺と喋っていた男子を蹴散らす。いつもと違うことをするのは、五限目に選挙があるからだろう。
「悠もさぁ、休む理由はわかるけどこんな大事な日に休むなんて酷いよねー」
「わかる? なんで一ノ瀬は休んでるんだよ。なんかあるのか?」
「コンサートだよコンサート。春の感謝祭みたいなのが数週間後にあるからさぁ」
頬杖をついて天月は横髪を弄る。
「っていうかなんで悠が選管なの?」
「柏原と高木の推薦」
「あー……。なんか想像できる。無理矢理やらされた感じでしょ?」
「正解」
あの時の俺たちは、今の自分を想像できただろうか。
俺は教室の隅で一緒に昼食を食べている柏原と高木に視線を向ける。そういえば二人はあの時から息が合っていた気がするが、どちらかが片想いでもしていたのだろうか。
「つっきー? 何処見てるの?」
「……別に何処も」
チャイムが鳴った。五限目になった瞬間に体育館に行くように言われている俺たち立候補者と応援演説者は、立ち上がって顔を見合わせる。誰かが何かを言ったわけではなかったが、俺と天月と柏原と高木の四人で教室を出た。
体育館に行くと、金曜日の放課後と何一つ変わらない景色があった。その中央には、黒髪を一つに括った春日がいる。
「つっきー! 見て見て! 美月が人の中心にいる!」
天月が嬉しそうな表情で俺のセーターを引っ張った。
「引っ張らなくても見えてるよ」
「……あ。ご、ごめん!」
引っ張られる感覚が無くなる。天月を見下ろすと、また横髪を弄っていた。
「なんかさー、最近の美月ちゃん明るくなってね?」
柏原が後頭部に手をやりながら同意を求めた。隣の高木が不機嫌そうだぞ、柏原。
「美月ちゃんてお前、本人了承してんのか?」
「そんなに嫌がられるような呼び方してねぇだろ。なぁ花梨?」
マスカラをつけた睫毛が目立つ瞳で高木が柏原を見上げる。
「……まぁ、夏の言う通りだとあたしも思う」
不機嫌ながらもそう答えた。そんな高木だが、言葉に嘘はないと思う。
「花梨も美月ちゃんと友達になろうぜー」
「春日さんと? でも、あたしと春日さんてタイプ全然違うじゃん。仲良くなれるかなぁ?」
「そんなの心配しなくてもいーよ! 友達の友達はみんな友達! 友達になれないわけがないんだから!」
本人でもないのに胸を張った天月に、高木は不機嫌さはなくなったものの不安そうな表情で「そうかな?」と指先に触れた。
高木は明るい性格で、率先して行動できるリーダータイプだ。逆に春日は自己主張をあまりせず、表ではなく裏で仕事をするタイプ。そんな太陽と月のような二人だが、それは同じ太陽の天月にも当てはまっていた。
「最初から無理って決めつけずに、歩み寄れば大丈夫だと俺は思うけどな」
高木は俺の言葉に自信を持ったのか力強く頷く。それが合図となったかのように──
「……四人とも集まってください」
──腰に手を当てた春日本人に話しかけられた。
「み、美月!」
「もう全員集まってるよ、六花」
「え、えー? ごめーん!」
手を合わせて頭を下げる天月に、春日はどう反応しようかと困惑する。そんな春日に追い打ちをかけるように柏原が詰め寄った。
「美月ちゃん! 花梨と友達になってやってくんね?」
「ちょっ! バカ夏! なんで急にぃ!」
高木に蹴られても動じない柏原は、ものの数秒で固まってしまった春日を揺さぶる。
「春日! しっかりしろ!」
俺は柏原を引き剥がしながら声をかけるが、春日の目を覚まさせたのは天月の猫騙しだった。
「え、と……。友達?」
「そ。花梨も美月の友達になりたいの!」
「六花まで!」
意外なことに顔やピアスの穴が開いているある耳まで赤らめて、高木はずっと指先を弄る。天月は横髪で高木は指先を弄る癖があるらしい。
「私と……? で、でも」
「でもじゃなーい! はい! 友達決定!」
天月を中心として、春日と高木の手が無理矢理結ばれる。こんなんで友達決定したら駄目だろと思うが、高木は見た目が悪くても中身はいいヤツなのを俺は知っている。春日がそれをわかってくれれば自然と友達になるはずだ。
「え、えぇ……?!」
「じゃ、そーゆーことで俺らは集まりがあるんで!」
春日をそう言いくるめて、柏葉は俺たちの襟首を引っ張る。春日のことが心配で目を向けると、春日は握った手を呆然と見つめていた。
選挙が始まり、司会の春日が淡々とした様子で進行する。生徒会長が最後で、今は副会長に立候補した天月が演説をしていた。
「天月六花に清き一票をよろしくお願いします!」
高木がそう締め括って天月の番が終わる。
『次は、生徒会長に立候補した二年一組の櫻井翼君です』
好きな人に呼ばれる自分の名が擽ったかった。立ち上がって前に出ると、去年と同じくらいの人数の生徒たちの視線が集まる。
ステージの端で司会をしている春日を見ると、目が合った。緊張で顔を強張らせている春日に笑いかける。すると、春日の唇が滑らかに動いた。
が、ん、ば、れ。
口パクで応援してくれた春日が可愛くて、慌てて前を向く。
「つっきー耳真っ赤」
そう囁いた左の柏葉に肘を入れた。
「遊ぶなお前ら」
「さーせん」
「……すみません」
朝礼机の上に置いてあるマイクにスイッチを入れる。
「生徒会長に立候補した、二年一組櫻井翼です」
俺の声がマイクを通して体育館に響き渡った。
*
五月らしい新緑が陽気な風に揺れる。太陽の暖かさが教室の中に降り注いでいた。
昨日の選挙の結果が出たらしいが、学校についたばかりの俺はまだそれを見ていない。そんな俺の心情を知ってか知らずか、教室の扉を勢いよく開けた柏原が俺の手を引いた。
「つっきー! 選挙結果見に行こーぜ!」
朝っぱらからそうはしゃぐ柏原に、高木まで来てさらにうるさくなる。
「ちょっと待って夏! あたしも行きたい! 六花も呼んで行こーよ!」
「ん? 花梨、呼んだー?」
振り向くと、春日と天月が後ろの扉から教室に入ってくるところだった。
「選挙結果見に行こーぜって話! 六花も行くだろ?」
「え、えぇ……?! む、無理! 見に行く勇気なんてあたしにはない!」
「でも見に行かねーとなんもわかんねーままだろ」
「それでもいいー!」
自分のクラスである二年二組に逃げようとする天月を高木が羽交い締めにして止める。「諦めなよ、六花」と春日が言葉で天月を止めた。天月はそんな二人に囲まれて項垂れていた。
「……ねぇ、美月は選挙結果知ってるの?」
「ううん、集計係じゃないから知らない」
「そっかー……」
残念そうで何処か嬉しそうな表情をする天月を高木が離す。
「しっかりしてよー、六花。美月もそう思うでしょ?」
「え、わ……私?」
これには春日だけでなく、俺も柏原も、天月も目を見開いた。高木は偉そうに腕を組み、ちらっと春日を一瞥する。
「美月は美月じゃん。……あたしに名前で呼ばれるの、嫌?」
「う、ううん。そんなことはない、驚いただけ」
「ほんとっ? 良かったぁー……。あ、じゃあ美月もあたしのこと花梨でいーからね?」
春日に拒まれなかった高木は安心したようで、そんな風に笑っていた。
「良かったな、二人とも」
「そーだ! つっきーもこの際だからあたしらのこと名前で呼んでよ!」
「は?!」
「いいねそれ! つっきーって名字ばっかで呼んでくるし!」
さっきまで選挙結果の件で悩んでいたはずの天月がいつもの笑顔で人差し指を立てる。
誰かを名前で呼ぶこと。避けていたわけではないし、名字で呼んでいたことに深い理由はない。
「わ、わかった。名前で呼べばいいんだろ? 名前で呼べば」
「マジか! つっきーボイスで俺の名前を聞ける日が来るなんて……」
「黙れ柏原。お前は一生名字呼びだ」
「なんでだよ!」
騒ぐ俺たちを、さっきから変わらないテンションでそこにいる春日が軽く手を上げて制した。唐突なその動作に俺たちはゆっくりと口を閉ざす。
「か、春日?」
「選挙結果を見に行くんじゃなかったの?」
「あ、忘れてた。行こーぜつっきー!」
柏原が離していた俺の手をもう一度引っ張った。
「いや、大人数で見に行くのはちょっと……」
柏原の手を離すと、柏原は捨てられた子犬のような目で俺を見た。
「じゃ、あたしと夏はパスね」
「なんで!?」
「後から聞けばいーじゃん」
「えー!」
文句を言う柏原を高木が抑えている間に、天月が「じゃあ!」と俺と春日の背中を押す。
「あたし見る勇気ないからさ、二人で行ってきてよ!」
「え?」
見る勇気がない。俺にはその気持ちがよくわかった。今はそうじゃないが、周りが先輩だらけという理由で見に行けなかった去年を思い出す。
「わ、わかった。行こう春日」
俺は春日が何かを言う前に手を引いて、教室を後にした。小さなその手は柔らかくて、冷たくて、女子の手だった。
「……ちょ、え?」
混乱している春日の声が突き進む俺の背中から聞こえてくる。なるべく優しく握ったから、振り解こうと思えばできるのに──春日はそれをしなかった。
嬉しさが生まれるが、そういう思考がないのではと思うと不安になる。その不安をさらに増幅させる人物が、不意に俺たちの前に現れた。
「わっ」
背中に春日がぶつかる。それでも俺は、前しか見ていなかった。
制服を着崩してオシャレっぽく着ている男子生徒は、眉を顰めて俺たちをその黒目に映す。
「あっ」
体を傾かせて見たのだろう。春日が息を呑んだのがわかった。
「珍しいな、一ノ瀬が遅刻しないなんて」
「……そっちこそ。珍しい組み合わせじゃん、罰ゲームかよ」
一ノ瀬はそう茶化して笑う。
「ちげぇよ」
「じゃあ何?」
一ノ瀬は怒っていた。一ノ瀬が怒ることは珍しくないが、今回のそれはいつもの比ではない。
「選挙結果を見に行くだけだよ」
「……選挙? それ、もう終わったのか?」
「昨日な」
知らなかったと言わんばかりの動揺っぷりだった。一ノ瀬は口を半開きにして、俺の後ろにいる春日に視線を移す。
「……そうかよ」
そして一ノ瀬は、なんの曲かはわからない鼻唄を歌いながら俺たちに近づいてきた。
「……後でお前に話がある」
そう春日に言い残した一ノ瀬は、俺たちが来た道を歩いていった。
「行こう」
「あ、うん……」
離さなかった手を引いて、俺たちはまた歩き出す。しばらくして見えてきた掲示板に、選挙結果の紙が貼ってあった。
「あ」
その紙の一番上に手書きで書いてある生徒会長の名前は。
《二年一組 櫻井翼 信任》
紛れもなく、俺の名前だった。
「やったね」
「あぁ」
二人でハイタッチをして笑い合う。今までの苦労が一気に報われた気分になる。この感覚を俺は知らない。
「あ、つっきー」
春日が指を差したのは、俺の名前のすぐ下だった。
《二年二組 天月六花 信任》
「天月も来れば良かったのにな」
「ふふ。そうだね」
初めて春日が声に出して笑ったのを見た。春日は今、自分がしたことを気にもしないで紙を撫でている。
「……あっちぃな」
「そう?」
天月に体温がおかしいと言ったばかりなのに、自分も同じだったとは。照れ隠しの為に体を伸ばす。
朝の校内は生徒たちの声で活気づいていた。ただ、俺たちがいる廊下にはまったくと言っていいほどに人がいない。聞こえる雑音は遠くの方からだった。
「……なぁ、春日」
なんでもない日常の、穏やかな雰囲気が俺をその気にさせる。
「何?」
春日が首を傾げるように俺に目を向けた。これから俺が何を言うのかも知らない瞳に俺が映る。
「俺、春日のことが好き」
遠くから聞こえていたはずの雑音が消えた。ついに想いを告げたことを後悔していないし、俺たちは数ヵ月前よりも親しい関係になったと思っていた。タイミング的にも間違っていたとは思っていない。
春日はまばたきを数回して、口を開いた。
「……わ、私もつっきー好きだよ?」
春日の好きは俺の好きとは違う。その台詞でわかってしまった。
「違うよ」
春日の瞳が水面を乱す波紋のように揺れる。
「一人の〝女性〟として」
〝女〟だとか〝女の子〟だとか、そういう単語は春日には似合わなかった。だから俺は春日を〝女性〟と呼んだ。
「なんで……」
口走ったのだろう。しまったと思い切り顔に描いて春日は口元を両手で隠す。
「春日は覚えてないだろうけど」
そうして俺は、一年前の記憶を春日に話した。その時起こったこと、その時俺が思ったこと、すべて話した。
「……ごめん、私、何も覚えてなくて」
「いいよ別に。むしろ覚えてる方が気持ち悪いだろ?」
自嘲すると、春日は思い切り首を横に振った。
「ありがとう」
スカートの裾を弄りながら春日が俯いた。らしくない動作に俺は目を奪われて、新たな一面を知れたという場違いな嬉しさを噛み締める。
「しばらく考えさせてくれる?」
人を愛するということ。言葉では簡単に言えるが、実際に誰かを本気で愛することは人によっては難しいだろう。多分、春日もそうだ。
「わかった。いきなりだったもんな。ごめん」
「けど嬉しかった!」
顔を上げた春日は何故か涙目で、鼻を啜りながらスカートを強く握り締める。
「こんな私を好きになってくれる人がいるなんて……それだけで、私は嬉しい」
「こんなとか言うなよ。俺は、春日は人に好かれる人間だと思う。柏原や天月、高木も春日の友達だろ」
友達じゃなくても、もう一人春日に恋をしている人間はいる。それでもそれだけは言わなかった。言いたくなかった、の方が正しいだろう。
言ってしまえば、春日が遠くに行ってしまうような気がしたから。




