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第九話 櫻井翼  後編1

「つっきー、立候補しないって本当?」


 天月あまつきがそう聞いてきた。


「え?」


 なんで天月が知っているんだと思ったが、天月が握り締めている箸を見て合点がいった。

 天月は昼休みになると春日かすがのところに行って昼ご飯を食べている。その時に春日から聞いたのだろう。


「どうして?」


 それは、絞り出すような声だった。


「天月には関係ない。……だろ?」


「そう、そうだけど……! あたしは……」


 拳を握り締めたままの天月の語尾がどこかに消えた。


「天月?」


 おかしい。今日の天月はいつもの天月と様子が違う気がする。


「……ごめん」


 しばらくして天月がそう呟いた。俺の横を通り過ぎていく天月の匂いが不意にして、自然と俯く。


 ……何がごめんだ。俺が悪者みたいじゃないか。


 罪悪感みたいなものが溢れないように心の中に押し留めて、しばらくの間、その場に立っていた。


「あ、いたいた。おーい、櫻井さくらい


 そんな俺を呼んだのは木倉きくら先輩だった。廊下の奥にいる先輩は俺に手招きをして来るようにと命令している。仕方なく行くと、木倉先輩は俺の肩を軽く叩いた。


「あんたさぁ、昼飯食った?」


「……まだですけど」


「なら良かった。私らと昼飯食べるよ」


「えっ? それってどういう……」


 木倉先輩は俺の返事を聞かずに、襟首を掴んで強引に引っ張る。襟首を掴んだまま階段を下りて、襟首を掴んだまま棟が違う購買へと連行された。


「みんなー、櫻井連れてきたよ」


「あっ……!」


 購買と同じスペースに置いてあるテーブルには、三年の生徒会メンバーが──正確には俺以外のメンバーが勢揃いしている。


「先輩たち、なんで……」


「話は後だよ、櫻井君。ごはん食べよう?」


 青柳あおやぎ先輩が微笑を浮かべて席につく。山南やまなみ先輩、日野ひの先輩、そして鈴宮佳歩すずみやかほ先輩がそれに続いた。


「俺、買ってきます」


 財布以外持ってきてなかった俺は、混み合っている購買に足を向ける。先輩たちは誰も購買へ行こうとはしなかった。


 パンを買って空いている席に座る。生徒会のメンバーが揃って食事をするのは、今年度では初めてのことだった。

 何故集まったのだろうと思って、すぐに答えが出る。今日は生徒会立候補者の締め切り日だ。覚えていたが、俺は今日になっても答えを出せていなかった。


「よし、全員揃ったな」


 山南先輩が全員の顔を見て手を合わせる。俺が不審に思って見ていると、他の先輩も手を合わせはじめた。


「おい、つばさもやれよ」


 日野先輩が俺の脇腹を肘でつついた。俺は身を捩りながら同じように合掌する。


「いただきます!」


 意外にも野太い声が購買スペースに響いた。他の四人が「いただきます」と続いていく。


「い、いただきます」


 呆気に取られていた俺は遅れて言葉にした。そうか、手を合わせたのはそういうことだったのか。もう何年もやっていないような気がした。

 先輩たちは他愛もない会話をしながら、それぞれの昼食に手を伸ばす。俺も買ってきた焼きそばパンにかぶりついた。美味い。咀嚼しつつ彼らの話を聞いてみるが、誰も生徒会の話をしなかった。


紗幸さゆきの唐揚げ美味そうだなー」


ようにはあげないし」


「うっわ、相変わらず冷てーな」


「佳歩の弁当にも唐揚げあるじゃん」


「ちょっ、紗幸! 友達の弁当勝手に売らないでよ!」


 日野先輩と木倉先輩と鈴宮先輩の会話を青柳先輩が微笑みながら見守っている。本当に他愛もない会話で、このまま昼休みが終わるんじゃないかとさえ思えた。

 ただ、いつも会話に積極的な山南先輩が黙っているのはなんとなく気になる。


「佳歩のはいっぱい入ってるから、一個くらい……」


「嫌だよ私の大好物だもん!」


「そうだぞ紗幸。佳歩は唐揚げが大好きだから、俺は佳歩からは唐揚げを取らないと決めてるんだよ」


「葉は紗幸が大好きだものね」


「んなっ?! 玲奈れな、言うなよ!」


 耳まで真っ赤にさせる日野先輩をクスクスと笑う青柳先輩は、心の底から楽しそうだった。この人は無害そうな顔でこんなことをするのだから、弱みを見せることができない。生徒会で一番の危険な人かもしれない。


「言うも何も知ってるけど?」


 平然とそう言ったのは木倉先輩本人だった。鈴宮先輩は吹き出して、青柳先輩は何度も頷いている。

 日野先輩は硬直していた。同じ男として日野先輩が哀れに思えて仕方がない。山南先輩の反応を盗み見るが、山南先輩はまだ黙っていた。


「バレバレだもの、葉は」


「もう今告白しちゃえば?」


「するの? 告白。別にいいけど」


「え、う、お…………つ、翼! 助けてくれ!」


「げほっげぼっ……お、俺ですか?」


 まさか話を振られるとは思ってもおらず、焼きそばパンを喉に詰まらせる。

 日野先輩は俺の背中を擦りながらひたすら助けを求めてきた。俺に対しては格好つけたかったのではなかったのだろうか。


「腹を括れ、葉」


「何言ってんだはじめ! 俺には無理だ!」


 ようやく口を開いた山南先輩は、日野先輩に一蹴された。いや、逆か? 日野先輩はもう既に負けている。


「バレバレなら言わなくても言っても同じですよ……」


「櫻井君の言う通りよ、葉」


 うぐぐと日野先輩が歯を食い縛る。ここに来てようやくこのメンバーでの〝いつも通り〟を取り戻せたと思った俺は、自然と笑みを零していた。


「紗幸!」


「うん」


「俺と……つき合ってください!」


「……はい」


 木倉先輩の返事が意外過ぎて、先輩へと視線を移す。さっきまでの平静さはどこに行ったのか、木倉先輩は照れ臭そうに笑っていた。

 これは青柳先輩も鈴宮先輩も意外だったようで、口を半開きにさせている。


「ちょっと、あんまジロジロ見んなよ……」


 恥ずかしそうに身を縮めて、木倉先輩は日野先輩の方を睨んだ。


「え、俺?!」


「あんたのせい!」


「そこは玲奈だろ!」


 慌てて日野先輩が青柳先輩を指差す。


「あら、私のせい? 駄目だよ葉。人のせいにしちゃ」


「玲奈ってさ、人が良さそうに見えて実は黒幕ってタイプだよね」


 笑顔で鈴宮先輩の耳を引っ張る青柳先輩は、俺の感じていた通り黒幕タイプだった。


「ほら、お前ら。お喋りはそろそろ終わりだ」


 全員が視線を山南先輩に向けると、山南先輩は弁当をしまっている最中だった。山南先輩の雰囲気は雑談をするようなそれではなく、最初の不安が再び押し寄せてくる。


「今回俺たちが集まったのは、櫻井。お前のことだ」


「……はい」


 わかってましたよそんなこと。逃げられないかな、一瞬だけそう考える。俺はまだやるかやらないか決めることができていなかった。


「櫻井君がまだ立候補してないのは知ってるわ」


「けどね、櫻井。私らがそれを責めてるわけじゃないことはわかってほしい」


「じゃあなんで俺をここに連れてきたんですか」


「お前が迷ってるからだ」


 俺の問いに答えたのは日野先輩だった。

 日野先輩は逸らすことなく俺の瞳を見つめてくる。先輩に告白したときの名残なのか、頬がまだ赤かった。


「迷ってる翼君を旧生徒会わたしたちは放っておくことができなかったの。それに、私たちのせいで翼君が苦しんでいるのを見ているのは……辛いよ」


 鈴宮先輩の言葉には答えることができなかった。


「櫻井。俺たちはまず、お前に謝る」


「だからいいですよ、謝らなくても」


 それでも口を開きかけた山南先輩を止めたくて、俺はこう口走った。


「謝ったら俺殴りますよ」


 山南先輩からはなんの音も聞こえてこない。


「櫻井君は私たちのこと好きかしら」


 代わりに青柳先輩が微笑しながら首を傾げた。青柳先輩の質問はいつも突飛なもので、俺はこれにも口篭る。


「ふふ。質問を変えるね。櫻井君は私たちと一緒にいて楽しかったかしら?」


 楽しかったか。それは、さっきの質問と比べたら答えやすいものだった。けれどこの質問は──


「──ズルいですね、青柳先輩」


「そうね。でも、社会に出れば私よりももっとズルい大人に出逢うわよ」


「……楽しかった……です」


「えぇ。私も楽しかったわ」


 青柳先輩は変わらない表情で黒髪を耳にかけた。


「なら、私たちと過ごした時間は無駄じゃなかったってことよ。私たちと出逢った生徒会という場所に来た貴方の決断も、また同じように」


 これで俺は生徒会を否定することができなくなった。けれど不思議と、不快な気分にはなっていない。


「別に私らは櫻井が生徒会に立候補することを強制したりしない。それはもう話し合って決めたことだし、あんたが望んでないならまた辛くなるだけだから」


 木倉先輩は目を伏せた。


「自分で決めろ……って、やっぱこれも無責任か? 少なくとも俺は文句も言わずに頑張ってたお前のこと、すげえ気に入ってたよ」


 日野先輩はどこか寂しそうに笑った。


「私はね、ずっと翼君すごいなーって思ってた。一年生なのに私たち以上に頑張ってたんだもん。だから、誰かが翼君の努力を見てたはずだよ」


 鈴宮先輩は泣きそうだった。


 山南先輩に視線を向ける。山南先輩は腕を組んで、微動だにせずに先輩たちの話を聞いていた。


「……どうしてお前らは俺の言いたいことを全部言うんだ」


 山南先輩は口をへの字にして先輩たちを睨む。


「ふふ。早い者勝ちよ」


 口元に手を当てて青柳先輩が笑った。山南先輩はさらに仏頂面になる。


「櫻井。この通り、もう俺から言うことはない」


「……はい」


「今までありがとな」


 山南先輩が、俺と出逢ったあの日から今日まで一度も見せなかった笑顔を浮かべた。そのせいで込み上げてくるものがあって。


「…………はい」


 俺は、唇を噛み締めながら涙を流した。





 教室に戻ると、柏原かしわばらの席で天月あまつきが何か書いていた。それを春日かすががじっと見つめている。


「つっきー!」


 なんの脈絡もなく俺を殴ろうとする柏原を右手で制して、そんな柏原をキツく睨む高木たかぎに押し返した。


「へーえ。なつはあたしと話してるのに、つっきーのとこに行くんだぁ?」


 高木は不機嫌そうに腕を組んでいた。


「え?! ちょ、待てよ花梨かりん! 俺とつっきーはトモダチだから……」


「トモダチと恋人どっちを取るのよ」


「そりゃあもちろん恋人の花梨さ!」


 両腕を精一杯広げた柏原から距離を取り、高木は照れ臭そうに俯く。


「……え、お前らつき合ってたの?」


 俺は「彼女の目の前で春日さんに抱きつくとか最悪じゃない?」と愚痴を言う高木と、幸せそうな柏原に目を丸くする。


「ん? あぁ、つっきーにはまだ言ってなかったっけ? 俺と花梨つき合うことになったんだよ」


「へぇー。オメデトウ」


「待ってつっきーそれ棒読み」


 俺としては精一杯の心を込めたつもりだったが、柏原には伝わらなかったらしい。


「つっきーもいつか可愛い彼女ができたらいいな!」


 柏原は複数人から腹部を殴られて膝を折った。一つは俺ので、もう一つは高木のだ。意外と痛かった拳を擦っていると、「できたっ!」という無邪気な声が聞こえてくる。


「どうどう美月みつき!」


「うん、完璧だよ」


「じゃあこのまま松山まつやま先生に出せばいいのね!」


 さっき廊下で会った時にはなかった天月のその声に驚いていると、その天月と視線が交わる。


「つっきー! 来て!」


 天月は木倉きくら先輩とは違い、笑顔で俺を手招きした。気になっていたのと呼ばれたという理由で行ってみると、天月は見覚えのある紙を俺に見せてくる。立候補者届け出用紙、とその紙には書いてあって──


「天月、これ……!」


 ──自分の声が震えているのがよくわかった。


「あたしね、副会長に立候補する」


 得意気な天月の表情に後悔なんてものはなさそうだった。


「な、なんでお前が……」


「あたしはさ、ずっとすごいなって思ってたんだよ。頑張ってるつっきーすごいなって。だからさ、つっきーが立候補しないならあたしがしようかなって。つっきーが立候補してもあたしが副会長として支えてあげよっかなって思ったんだ」


 何を言えばいいのかわからなくなった。言葉が出てこなくて、だけど思考は巡っている。


『誰かが翼君の努力を見てたはずだよ』


 鈴宮すずみや先輩の言った通りだった。その誰か──天月は見ていてくれたらしい。


「サンキュ」


 嬉しかったのにこの一言しか言えなかった。天月は何故か不機嫌そうだ。


「あたしまだお礼言われるようなことしてないけど?」


 そんなことで不機嫌になったのか、天月は。呆気にとられていた俺は首を横に振る。


「いや、充分だ」


 そして、今まで黙って俺たちを見守っていた春日に視線を向けた。椅子に座ったままの春日は、上目使いで俺のことを見つめ返す。


『つっきーも可愛い彼女ができるといいな!』


 柏原の余計な台詞が俺の胸を締めつけていた。


「春日、俺にも……」


 たった一言。たった一言だけ言えばいい。



「……立候補者用紙をくれ」



 春日は驚いた表情をして。桜色の唇を優しそうに上げて微笑んだ。


「うん」


 気のせいだろうか。春日がちょっとだけ泣きそうな表情をしている。


「か、春日? なんで泣いて」


「泣いてない。……泣いてたとしても嬉し泣きだから」


 目元を隠した春日は俯きながら桜色の唇を尖らせた。あぁ、そっか。春日も先輩たちと同じで、ずっと俺を見守っていてくれてたよな。


「春日もサンキューな」


「……別に」


 鼻声だぞ、春日。俺はそう言いそうになるのを必死で堪えた。


「じゃ、つっきーは生徒会長ね!」


「おう」


 天月がニカッと笑って拳を突き出してくる。それは男同士がやるものだと思うが、せっかく天月がやってくれたのだ。断れない。俺は、こつんと天月と拳と拳を合わせた。





 締め切り日から一週間が過ぎて、生徒会選挙のリハーサルが明日となる。

 俺はあの後、先輩たちにきちんと立候補したことを話していた。先輩たちはみんな本当に嬉しそうで、後悔なんてするはずがなかった。


 教室に入り、松山まつやま先生のショートホームルームが始まる。ほとんどの生徒が出席する中、一ノ瀬(いちのせ)だけが遅刻でも早退でもなく欠席をしていた。

 一ノ瀬がこういう状況になると、決まって近々コンサートが行われることになっている。俺は《Vivaceビバーチェ》の活動を知らないから、どんなと聞かれても困るのだが。


 そして、俺よりも困る立場にいるのが春日かすがだった。何故か選挙管理委員せんきょかんりいいんの副委員長をやっている一ノ瀬が欠席すると、委員長である春日に仕事が回る。それはまるで去年の俺を見ているようだった。

 ショートホームルームが終わると、松山先生が春日を呼ぶ。席が教卓の目の前にある俺は、密かに聞き耳を立てていた。


「なんですか? 先生」


「今日の放課後、選挙管理委員会の件で残ってくれないかな? 明日のリハーサルについてなんだけど」


「あぁ、はい。いいですよ」


 春日は嫌そうな表情をせずにそう答えた。嫌そうな表情をしない、それは長所であり短所だと俺は思っている。

 お前は去年の俺と同じように無理をしてないか? そう聞きたくて顔を上げると、春日と目が合った。春日は固まった表情を俺に見せていて、俺も俺でどう反応していいかわからない。


 春日は逃げるよう俺の前から去った。俺は自分の情けなさを呪うように俯く。いつも助けてくれる春日の役に立ちたかった。だから俺だけは今立ち止まれないのだ。

 徐々に決意を固めていく。そう思えるほど、俺は春日美月みつきのことが好きだった。


 放課後になって、俺は春日の後をつけようとする。そうして役に立つことをしたかったが──


つばさっ!」


「ぐっへ……!?」


 教室から出た瞬間、何故か日野ひの先輩に正面から抱き締められた。日野先輩は俺の体がギチギチと鳴るほどに締めつけてくる。


「なんですか先輩! ちょ、はな……」


「どーん!」


 日野先輩を巻き込むように俺に抱きついたのは、木倉きくら先輩だった。先輩は頬を赤く染めながらも楽しそうに笑っている。

 俺は二人から逃れようと、必死に身を捩った。


「なんだよ翼ー。逃げんなって」


「そりゃあ誰だって逃げますよ!」


 ようやく俺を離した二人の先輩は、周囲の目が気にならないらしい。二年の教室の前にいる二人の三年は浮いて見えた。


「……何しに来たんですか」


「何って、明日リハーサルだろ? 応援してやろーと思ってさ」


「リハーサルに応援なんていりません」


 本番だったらわかるが、リハーサルの応援をして一体何になるんだろう。真顔で言った俺に答えたのは、木倉先輩だった。


「バカね、櫻井さくらい。リハーサルの時にできないなら本番の時にもできないのよ?」


「……う」


 木倉先輩の言うことも一理ある。俺が言えなくなったのを見て、二人は勝ち誇ったような表情を浮かべた。その表情が何故今になって気づいたんだろうと思うほど似ていて、俺は目を見張った。


「なんだよ。翼が間抜けな顔するなんて珍しいな」


「櫻井はそこそこ顔いいんだから、変な顔しちゃダメだって」


 内容はさておき、言っていることはほぼ一緒。そういえば柏原かしわばら高木たかぎもそんな感じのようながする。

 似た者同士が恋人になるんだろうか。なら、俺と春日はどうなんだろうか。


 早く会いたい。


 想いが込み上げてきて、俺は二人の先輩から本格的に逃れようと思った。


「……そういや先輩、俺、まだ言ってませんでしたね」


「ん? 何を?」


 木倉先輩から俺に視線を移した日野先輩は、不思議そうだった。


「おめでとうございます」


 それでもなお不思議そうな二人を交互に指差して、両手の指でハートを作る。


「お幸せに!」


 大きな声で笑顔を作り、そして俺は春日が行った方向へと走った。

 後ろでは俺の声を聞いた二年が騒いでいる。振り返ると日野先輩と木倉先輩が囲まれていて、俺はスムーズに逃げることができた。


(……生徒会の三年が人気者で良かった……)


 何故か先輩たちは顔が広くて、この学校で知らない人はほとんどいない。そんな人でさえ春日は知らなかったんだと思うと、恋は盲目か、とても可愛く思えた。

 教室ではない部屋が集まった場所に行くと、話し声がして足を止める。盗み聞きは良くないが、俺は聞き耳をたてた。


『春日さん』


『……先生!』


 松山先生と春日の声しか聞こえない。それは室内に二人しかいないことを物語っていた。


『委員長が春日さんで良かったわ。一ノ瀬君の分までしてくれてありがとう』


 一ノ瀬の名前が出てきて体が強張る。


『いえ。一人でやるの好きなんで』


 春日はなんでもないような調子で答える。去年、夕暮れの中で出逢った日の春日も楽しそうに作業していたのを思い出した。


『……そうなの?』


『はい』


『わかったわ。今日は本当にお疲れ様でした』


『先生こそお疲れ様でした』


 一瞬の間があった。


『……春日さんは、なんでも一人でできるのね』


 ほんの少し悲しみを混ぜて、寂しそうに松山先生が言った。

 俺は今すぐに飛び出していきたかった。そんなわけない。なんでも一人でできる人間なんていない。そう言ってあげたかった。


『じゃあ、後は私がやるから春日さんは帰って大丈夫ですよ』


「……ッ!」


 慌てて部屋から離れる時、言ってあげられなかった後悔のようなものに襲われた。


『……あ、はい。さようなら』


 ガタ、と椅子の引く音がした後、扉が開かれる。その時は既に階段まで離れていて、春日を見ることはなかった。そこで安心しきっていたのが原因だったのだろう。


「つっきー?」


「ッ!」


 春日が俺を呼ぶ。

 顔を上げれて振り返れば、いつもよりほんの少し寂しそうな春日がいた。いや、もしかしたらそれは俺のそうであってほしいという勝手な妄想かもしれない。それくらいわかりづらかった。


「つっきーも今帰り?」


「あ、あぁ」


「そっか。じゃあ、またね」


 手を振ってまっすぐ進む春日を見送って、俺は自分を蔑んだ。

 好きな子に何もできなかった、何も言えなかった自分を蔑んだ。

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