八
それからひと月が経とうとしていた。
夏沢の心は、あの日々を境に、全てにおいて別の意味を持つようになった。何をしていても、麻由美のイメージが背景にあった。こんな心境は今まで生きてきた中で初めての事だった。しかし、たぶん二度と会えないであろうことを考えると、今にも心が折れそうで、このままでは確実に病気になるだろうと思うようになった。
事実、風邪気味も手伝って、その日は勤めを休んだ。昼までは横になり、午後に病院へ行った。そして、とてつもなく長い待ち時間の診察から帰り着こうとするとき、ドアの前に女の影を見た。(ついに麻由美の幻まで現れたか)と、我が目を疑いながら近づけば、
「ふふッ・・来ちゃった」
胸当てジーンズに黒のニット帽を被ったヨーコだった。落胆と驚きが同時に頭を巡る。
「また君か・・・ど・どーしてここが分かったんだッ!」
「会社にも電話したんだよ。そしたら休んでるって言うから・・・。どっか悪いの?」
「え!えーッ会社に電話した?って、なんで俺の勤め先まで知ってるんだよー」
夏沢は、不可解な事を言う突然の珍入者にあわて、持っていた薬の袋を落とした。
「とにかく。いつまでレディーをこんな寒いところに立たせているつもりなのよ」
ヨーコはあくまでも直接的である。グズグズ言っていると、張り倒しかねない勢いだ。
夏沢は、渋々、ドアの鍵を開けてなかに入れた。外よりはいくらか暖かいが、夏沢の部屋の暖房はコタツだけなので、あれこれ不平をもらすヨーコに、
「風邪も移るから、用が済んだら早く帰ったほうがいいぞ」と言うと、
「これを飲めばあったまるよ」と赤白セットのワインを差し出した。
「どうしたんだこれ」と問えば、去年のお歳暮の残りをパクってきたと言う。
「きょねん!?って、だいじょうぶなのか?」と手にとってまじまじと見れば、
「うん。賞味期限わからないから、すぐに飲んだほうが良いよ」とニッコリ。
「ありがたいけど、ひとりで二本は飲めないよ」
「あたしも飲むに決まってるじゃない」
「ってお前、まだ中学生だろ」
「えー!中坊なんかじゃないよぉ。もうじき十八になるんだからねッ」
元々の造りが童顔なのか、どう見てもその歳には見えない。
「それでもお酒はハタチになってからだ」と言えば、
「じゃあ夏さんはハタチになるまで飲んだことないのか」と向かってくる。
「帰れなくなっても知らないぞ」と言うと、
「泊まってゆくから大丈夫」と返す。
「何考えてんだ。男の独り住まいだぞ、ここは。だいいち親が心配するからだめだ」とたしなめると、ヨーコの顔にちょっと暗い影がさし、
「親なんか・・・」と、一寸そっぽを向いてから、急に明るい顔に戻って、
「さ、飲も」と言いながら、キッチンからグラスを持ってきた。
何かヨーコの家庭には事情があるらしい。が、それを聞いても答えようとしないので、あえて追求はしなかった。仮に知ったところで、どうしてやることもできない。
住所と電話番号は、旅館の宿帳を見たと言う。夏沢と麻由美が泊まった旅館は風間家の親戚で、今はそこに厄介になっているらしい。妙な縁だ。
(宿帳を受け取った仲居は子供のように若かった。あの時は気づかずにいたが、おそらくヨーコだったに違いない。そういえば、緊急連絡先に会社の番号を書き入れたような気もする)そこで、夏沢は、
「宿帳を管理する旅館の人間が、個人的にそれを利用すると処罰されるぞ」と言い聞かせると、
「夏沢さんのとこしか見てないもん」と、ヨーコは急に神妙な様子になった。
何か余程のことがあるのかと思い、今日は何の用があって来たのかと優しく聞けば、特に無いと言う。ただちょっと顔を見たくなったから来たそうだ。変な子だなと思いながらも、(ひょっとしたら麻由美の連絡先も知っているかもしれない)と、かすかな希望が湧いてきた。
いちるの望みに心が変転した夏沢は、いそいそと冷蔵庫からつまみになりそうなものをテーブルに並べ出し、壁に貼り付けたピザ屋のチラシを見ながら受話器に手をかけた。
「ヘーェ。そうなんだぁ。意外よね。おっさんってけっこう純情なんだねェ」
ヨーコは酔っている。
「その、おっさんはやめろといっただろ」
「じゃ、なっさんって呼ぶね。よし、彼女のことはあたしがぜーんぶしらべてあげる。要はぁ。その人にぃー。なっさんの気持ちを伝えてぇー。そんでもって、そのひとのぉー。へんじをぉー。おっさんに持って帰ればいいんだよねェー」と言ってまたグラスを空にした。
「また、おっさんって・・・お前飲み過ぎだって」
ヨーコが気付け薬にと、手土産に持ってきた甲州ワインを二人して空けてしまってから、(余計な事を言ってしまった)と気づいたがもう遅かった。
アルコールが進み、話が恋愛の在り方に及んだとき、夏沢は勢いで麻由美に関する事柄をあれこれ喋ってしまったのだ。
夏沢は、えらいことになってしまったと思いながら、かぜ薬とアルコールと恋の悩みとで頭の中が混乱し(俺もう、知らないんだからね)と、半分投げやりになった。
「なにだまってんだよぅ。それでいいんだろぉ」そう言うとヨーコは、ひとのベッドに潜り込んだ。そして「夏さんの匂いがするぅ」と、甘えたような独り言をつぶやくと直ぐに寝息を立て始めた。
夏沢の目が醒めたとき、陽はだいぶ高いところに照っていた。部屋の様子をみると、あのまま炬燵で寝入ってしまったらしい。嫌な寒気が背中に貼り付いて、容易に取れそうにない。関節という関節が妙に痛い。ヨーコの姿は気配すら消えていた。ただ緑色の空き壜が、床に転がっているだけだった。
それをボオーっと眺めていた夏沢は、ハッと我に返り、(会社に電話を入れなければ)と慌てて受話器を持ち上げた。が、よく考えてみたら今日は土曜日で休みだった事を思い出し、受話器を手にしたまま空き壜のように転がった。
そうして、這うようにベッドに躰を運んで横になると、枕に当たる頭が何かを捕えた。手に取ってみれば『あたしを信じて、おとなしく寝ているんだぞ』と、躍ったような丸っこい字が、ちぎったチラシの余白に並んでいた。
夏沢は思わず微笑んだ。
どのくらい眠っていたのだろう。辺りはもう暮れかけていた。
ドアをノックする音が聞こえる。夏沢は「はい」と答えるが、全身が鉛のようで起き上がることができない。またコンコンと音がする。
「鍵は掛かってないんで、どうぞ!」夏沢は、自分に腹が立って刺のある声で応えた。
ゆっくりとドアノブが回転して扉があくと、ベージュのコートを腕に抱え、黒いハイネックセーターに赤い格子のスカートを履いた若い女が入ってきた。夏沢は驚きの余り、ベッドからずり落ちそうになった。
麻由美だった。今度は本物の麻由美だった。短い黒髪に色白の、きれいな眼をした麻由美だった。
「じゃあーん!――おまっとさんでした」
ニット帽のヨーコが、そのうしろから笑顔を覗かせた。
「ども」
その横にはジャージーの幹夫少年が照れくさそうに並んでいた。東京まで運転させられた上に、ひとり車の中で夜を明かしたその気の毒な少年は、今日もヨーコの探偵に付き合わされたようだった。
コーヒーでも飲んで行けと言うのを、兄貴に叱られるからと、少年はヨーコを連れて帰って行った。
夏沢の鉛の様な躰は、羽根のように軽くなった。そうして、散らかった部屋を片づけ始めると、その腕に麻由美の白い手が伸びた。
夏沢が惚れ惚れとする手際で、麻由美が部屋をスッキリさせたところで、二人は炬燵に向かい合った。そして、再会の喜びの中、あの時の事や今日までの事などを語り合った。もちろん、キューピッド役のヨーコへの感謝も忘れなかった。
帰り際になって、駅まで送ると言う夏沢に、その躰を気遣って首を横に振った麻由美は、
『夏沢さんが元気になったら、山に行ってみたい』と、ていねいに書いた文字を示しながら笑顔を見せた。
夏沢は眩しそうに頷いた。