七
麻由美の事を想い描いていた夏沢は、突かれた背中に彼女のイメージが過ぎり、あわてて振り向いた。
最初に目に入ったのは、赤地に白い水玉のワンピースだった。(誰?)見上げると中学生位の女の子が、包帯を巻いた頭を見下ろしていた。
「おっさん。お兄ちゃんが、おいでって、呼んでる」
「えっ?――お兄ちゃんって・・。君の兄さんかい?」
夏沢は期待と違った事に少なからず落胆したが、突然妙なことを言うこの少女にも頭が混乱した。
「とにかく。着いてくれば分かるよ」
ピンクのカーディガンの背中に、明るく染めたポニーテールの髪を揺らせて、少女は面倒くさそうに階段に向かって歩いて行く。夏沢は不審に思いながらザックを担ぎ直すと、取りあえず後を着いて行くことにした。
改札で「ちょっと出ます」と駅員に断り、階段を途中まで降りたところで夏沢は一瞬青ざめた。駅前の広場を見渡すと「族」と呼ばれる若者達が、ずらりと視線を向けている。その先頭には例のサングラス男が、いつかのように両手をポケットに突っ込み、大股で反り返っていた。そして、夏沢と眼が合うなり、怒鳴るように言った。
「やあ、おっさん。帰るって聞いたから・・・。なに、馴染みのデカさんが『礼を言っとけ』って言うもんでな」
「は・・・?」
夏沢は何の事だか解からず、側にいる少女に、疑問符を浮かべた顔を向けたところ、
「何だか知らないけど、おっさんのお陰で助かったらしいよ」と答えが返ってきた。
「おっさん。東京まで送ってやるぜ」
後ろの方からそんな声が掛かった。
「おもしれー。みんなで送ってやろーぜ」という声がしたかと思うと、
「うぉー!」「ょしゃー」という掛け声と共に、其処いら中に止めてある派手な単車やシャコタンの車やらに彼らは散って行った。
先程から電話ボックスの影で、その様子を伺っていた少年課の刑事は、口の端に苦笑いを浮かべながらサングラスを胸のポケットに戻すと、踵を返して立ち去った。
「あたしも一緒に行くゥ」と、少女は嬉しそうに夏沢の手を引っ張って紫の車に向かった。
この空気の中心に置かれた夏沢は、もはやそれに従うしか他に選ぶ道は無かった。
「おい。その『おっさん』て言うの、もう止めてくれないかな。俺には夏沢って名前が有るんだから」
窮屈なロールバーの陰から夏沢は怒鳴った。
カーステレオのリアスピーカーからはキャロルが大音響で耳をつんざく。窓を全開にした運転席側からは、チャルメラのような音のクラクションが爆音と共にすり抜けてゆく。大声を出さないと、自分の声すら聞こえないほどの騒音に囲まれて、夏沢は上りのハイウェーを走っていた。
「ナツザワさんって言うんだって、お兄ちゃんも名乗ったら」
隣の席にいる少女は、何だか嬉しそうに、身を乗り出して叫んだ。
「俺、キジマ、木島幹夫って言うんだ。みんなはミッキーって呼ぶけどよ」
助手席の少年が振り向いて答えると、
「誰もアンタのことなんか聞いてないわよ」と少女は怒ったように言った。そしてルームミラーのサングラスが何も答えないので、少女は夏沢の耳元に口を寄せてこう言った。
「お兄ちゃん、風魔林太郎っていうの。うちのチーム『風魔』っていうんだ。かっこいいでしょ」と窓ガラスに指でその字を書いてみせた。
夏沢は、どうせ信玄の『風林火山』から取った偽名だと思い、その事を言うと少女は、
「ほんとは(フーマ)じゃなくて風に間の(カザマ)なんだけど、本名だよ」と言って真剣な眼を向けた。そして自分はその妹のヨーコと名乗った。
*
帰りの車両は乗客が殆ど居なかった。両側の車窓を、赤や黄色に色づいた葉がゆるやかに流れている。隣の席には麻由美がいて、透き通るような声で話しかけてくる。
「なんだ。やっぱり君、喋れるんじゃないか。そんなに好い声が出るのに、どうしていままで黙っていたんだい」
「ナツザワさん、ほら見て。みんな帰って行くわ」
*
夏沢は疲れが出たのか、この騒音の中でも少しの間眠っていた様だ。
(夢で麻由美が喋っていたのは、ヨーコだったのかもしれない。が、ヨーコの声とは違っていた。夢の中の声は麻由美に違いない。きっとあの人は、歌うように美しい声で話すんだ)
夏沢は、そう信じようとした。そして、さっきの澄みきった音声を思い出そうともう一度眼を閉じた。
風間の車以外は、県境の上野原インターを下りて行った。
「この先は縄張が違うので面倒だから」というのが、その理由らしい。
新宿に着いて、彼らを乗せた車が小気味の良いエキゾーストを残して去った時は、黄昏の中にネオンが点り始めていた。
夏沢は、夢の中でも良いから、もう一度麻由美の声が聴きたくなった。そうして、堪らなく(会いたい)という想いが込み上げてきた。