六
三日間の入院には、麻由美がずっと付き添って、こまごまとした事に世話を焼いてくれた。そして、診察した医者が傷害事件として警察に報知した為に、その聴取にも立ち合ってくれた。しかし夏沢にとっては、そんな事より何よりも、麻由美が傍に居てくれるだけで嬉しかった。自由に動けるようになってからは、手話を教えてもらったりもした。それでも、夏沢は間違えてばかりで、なかなか覚えられなかった。夏沢がとんちんかんな間違えをする度に麻由美はよく笑った。そこには以前のような暗い影は消えていた。
そして退院の日はあっという間にやってきた。夏沢は、麻由美に自分の連絡先を教えたが、相手のそれを無理に聞き出すことはしなかった。何故ならば、彼女のほうから何か言って来ない限り、実るはずはない「LOVE」だと思ったからである。夏沢はいつも、あと一歩の、踏み込みが浅い。今までそんな思い込みの方式を貫いてきたが故に、三十の半ばにあっても決まった相手が出来なかったのかもしれない。まして、麻由美のように、相手に迷惑をかけずにひっそりと生きて行こうとしている人にとって、自から能動的になる筈はないのである。
『さようなら』と書かれた紙片を渡されて、麻由美が静かに出て行った後、暫くその五文字を眺めていた夏沢は、初めて自分の愚かさに気がついた。
夏沢は慌てて立ち上がり、病室のドアを開けたところ、黒っぽいスーツ姿の男が二人、行く手を塞いだ。
「夏沢英治さんですね。――私たちは山梨県警少年課の者です。少し伺いたいことが有りますので、分署までご同行ください」と、黒の手帳を差し向けた。
夏沢は随分待たされた挙げ句、狭い部屋に案内された。そして、小窓から、取調べ中の三人の男の確認をさせられた。
夏沢は、被害者とはいえ嫌な役目だと思いながら、一人ずつ順番に部屋を移動した。それから別の部屋のテーブルで、彼らの他に数人の顔写真を見せられた。
「今の三人と、この中に見覚えのある男はいますか?」
担当の刑事は、そう言って夏沢に鋭い視線を向けた。
「さっきの白い服の男以外は、全員が関わっているようにも思えますが、よく分からないですね」
「さっき見ていただいた他の二人にも覚えはありませんか?」
「はっきりとした記憶はありません。でも、なぜ彼が被疑者の中にいるのでしょうか。病院での調書にも書きましたが、私は彼の運転する車に同乗していました。負傷した後病院に運んでくれたのも彼です」
実際、夏沢にとっては一瞬の出来事だったし、その後はずっと朦朧とした状態だったので、いちいち暴漢の顔は覚えていなかった。
「彼とは?」
「だから、白い服の男です」
夏沢がそう答えると、刑事はあきれたように少し身を反らした。
「それは有り得ませんね。あの男が主犯格です。自分が指令したことも認めています。もう一度良く見てください。拳に何かを殴ったようなアザが有るはずです」
夏沢はそんな事よりも、麻由美と変な別れ方をしたことが気になって仕方がなかった。早く戻りたい気持ちが先に立ち、正直この役目にもうんざりしてきた。
「刑事さん。彼は連中をかばって、男気で罪をかぶっているに違い有りません。彼はこの辺りの暴走族のリーダーです。他の連中はみんな彼の配下なんですよ」
「それは分かっています。何度も補導や検挙をしていますから」
「でも、少なくとも今回の事件では、彼は手を出すどころか、彼の忠告を無視して飛び出した僕を救ってくれたんです。間違いありません。ほら、他の二人には殴られた痕の青たんがあったでしょ。彼は相当怒っていましたから、多分ヤキが入ったんでしょう。拳のアザもその時のものだと思いますよ」
調書のページを繰りながら話を聴いていた刑事は、急に憮然とした顔を上げてこう言った。
「夏沢さん。貴方は被害者なんですよ。それじゃあ正式な届けはしない積もりですか」
そして、上目使いの低い声で嫌な事を付け加えた。
「場合によっては入院の保険にも関わることなんですがね」
しかし、今の夏沢にとってはどうでも良いことだった。
「被害届・・ですか?――初めからそんな積もりはありません」
「何の落ち度も無いあなたが病院送りにされたんですよ。悔しいとは思いませんか?」
まるで刑事自身が悔しがっているかのような口調に、事件を未解決にしたくないのだろうと思ったが、夏沢の気持ちが変わる事はなかった。
「それはちょっと痛い思いもしましたけど、礼を言いたい位です。結果的にみれば、彼があの人に会わせてくれたんですから」
夏沢は少し投げやりにもなっていた。
「分かりました。――もう結構です。しかし、夏沢さん。貴方はおかしな人だ」
少年課の刑事はそう言って首を捻った。
平日の昼、その駅は人がまばらだった。ましてザックを背にした人は一人も居なかった。夏沢はいつもの癖でベンチには座らず、ザックに腰を下ろして列車を待った。病院では口に出来なかった煙草が矢鱈と旨かった。しかし、麻由美にはもう二度と会えないような気がして、心は晴れなかった。
(なぜ、ちゃんと彼女の気持ちを確かめておかなかったのか。なぜ、こちらから連絡がとれるようにしておかなかったのか。なぜ、病室なんかで別れてしまったのか。もっと他に方法があった筈だ)
夏沢は、自分の莫迦さ加減にあきれる思いがして、空に向けて煙を吐くと、その先には山の稜線が青く霞んで見えた。
その時、夏沢の肩を背後からつつく者がいた。