五
喧嘩っ早い彼らも時々世話になっているのか、その病院は日曜日というのに開いていた。扉を押すと、待合室には数人の患者らが長椅子に座っていた。
二人は空いているところに席を取り、夏沢の番が来るまでの間、麻由美は付き切りでその傷を庇っていた。夏沢は、若者達が去るまで張っていた「気」が萎えてきて、俄に頭の傷が痛みだした。ともすると意識が朦朧としてくるのを支えきれなかった。そして何処か遠くの方で、看護婦を呼んでいる誰かの声が聞こえたきり、暗闇に吸い込まれた。
永い闇から生還したときの夏沢は、白い天井の規則正しく並ぶ小さな穴を見つめていた。そして見知らぬ部屋のベッドに横たわっている自分を識った。ただ、どういう経緯の末に、今こうしているのかは解からず、それを思い出そうと首を回そうとしてみたが、何かに固定されていて、目玉だけがギョロギョロと動くだけだった。
その眼の端に、夏沢の脳裏にインプットされた掛替えのないものが映った。夏沢は思わず身を起こそうとした。だが、麻酔の醒め切れない躯は痺れて言うことを聴いてくれなかった。眼の端に映った人は、起きようとするその肩に優しく手を置き、視界を覆うように顔を近づけた。夏沢は、その澄んだ瞳に会うと、安心したように「良かった」と呟いて、また眠りに落ちた。
*
樹林帯を抜けると、岩場が行く手を立ち阻んだ。夏沢は、どうしてもこの先に進まねばならない。登れそうなルートを探す眼が岩肌を這う。(よし)と決めた手掛かりに取り付く。思ったよりスラスラと高度を稼いで行くが、傾斜がきつくなったところで行き詰まった。右も左もホールドがなく、頭上はオーバーハングで進めない。(ルートを誤った)と少し降りようとして足元を見るが、今登ってきた足掛かりが何処にも見当たらない。しかもザイルを着けずにこれほど高くまでよじ登る筈がない。(そんな馬鹿な)ともう一度下を見渡すが、すべすべの岩肌が、奈落の底まで切れ落ちているのが見えるだけだった。それどころか、掴んでいるホールドが今にも抜けそうにグラグラとしてくる。極度の緊張で硬直した足は、ミシンを踏むようにガタガタと止まらなくなってきた。そしてその足を置いた岩が、無情に音もなく抜け落ちた。
「うあぁぁー」
夏沢は、断末魔の叫びを上げて落ちていった。むなしくも、天空を必死で掴む様に落ちて行った。
*
だが、その手は何かを掴んだ。いや、掴まれた。
気がつくと、その右手は、母の様な柔らかな手で、しっかりと包まれていた。そうして灰色っぽいセーターの袖と白い顔が、ぼんやりと汗で滲んだ眼に浮かび上がってきた。
やがて、はっきりとした輪郭の中に麻由美が現れた。その眼はまつ毛を震わせ、心配そうに細かな瞬きをしていたが、口許には笑みを見せていた。麻由美は、汗ばんだ夏沢の額をタオルで拭いてから、ハンドバックのメモを取り出すと、俯いてペンを走らせた。
『ご気分はどう?まだお痛みになる?』
麻由美は、そう書いた紙をちぎって示しながら夏沢を見た。
「ありがとう。今は痛くない。でも、すごく怖い夢を見てた。だけど君がこの腕を掴まえてくれたんで・・・。あれから、ずっと側にいてくれたの?」
夏沢が話すと小さく頷いてまたペンが走る。
『はい 手術の時以外は とても心配でしたから それから危ないところ助けていただいて、ありがとうございました そのせいで、お怪我をさせてしまって 私、何てお詫びしていいのか、本当にごめんなさい』
「なに、君のせいであるものか。あいつ等が悪いんだから。それより、手術って・・。そんなにひどかったのか。それで、医者はなんて言ってた?」
『傷は外側だけで、内出血もしていないから大丈夫みたいなの ただ骨に小さなヒビがあるのと、場所が場所だけに念のため二三日は安静ですって』
「そうかぁ。弱ったな。――あっ、悪いけど、今から僕の言うことを書いて、明日の朝看護婦さんから、僕の会社に電話してもらうようお願いしてくれないかな」
そこへ威勢の好い看護婦が、
「夏沢さん。お目覚めになりましたかァ?」と言いながら入ってきたので、夏沢が用件を言おうと口を開けたところ、
「はい、おとなしくしててねぇ」と、体温計を差し入れた。夏沢は口も訊けなくなってしまった。頭は固定されて動けない。夏沢は情けないのを通り越して可笑しかった。その様子に、麻由美は気の毒そうな笑い顔で首を傾げた。
検温が済み点滴が始まると、二人はまた夏沢がしゃべり麻由美が言葉を文字にした。そうして、麻由美の今日行こうとしていた場所を訊ねると、夏沢が登る積もりでいた山の名を答えた。ゆうべの話しの中に、その名が出たからだと言う。登山の経験は有るのかと聞けば、無いと言う。
「まったく無茶だ。そんな格好で山に行こうなんて、遭難して死んだらどうする」と夏沢が言えば『死んでも構わない』と答える。誰も悲しむような人はいないから平気だと紙片は答える。
突然夏沢は、怒ったような顔で、麻由美のペンを持つ手を握るなり(俺が死ぬほど悲しむ)と出かかる言葉を飲み込んで、
「死んじゃダメだ」とその眼を見ながら呟いた。