四
「――そうですか。――分かりました。でも行き先は分からないんですね。――ァいえ。――どうもお世話をかけました」
受話器を戻すと、力なくベンチに腰を下ろし、弁当の握りめしを膝に置いてから水筒の口を開けた。暫くの間、その口を見つめたまま、頭に霧がかかってしまったかのように、何も考えることができずにいた。そして、不安な材料が後から後から浮かんできては夏沢を苦しめた。しかし、頭の何処かでは(なぜこんな思いをするのだろう)と、自分自身を不思議がって見ている自分がいた。だが、その苦痛はいわゆる普通の辛さでは無く、むしろ困惑と言う様な種類のものであった。
「どうしたんだ。ただの通りすがりの人じゃないか」
そんな声も何処からか聞こえてくる。
言わば夏沢は、自分自身のコントロールを失いかけているらしかった。けれども夏沢にとって、初めて出会う自分の心だけに、或る面では新鮮であり、それと背中合わせに戸惑いも感じるのであった。
だが、そんな自分の心を弄んでいる事自体が、あの人に対し済まない気がしてきた。さらに(なんとかして、あの人を救わなくてはならない)という思いが、はっきりと輪郭を現わしてきた。女将の話では、今しがたまでは居て、ついさっき出かけたと言っていた。(もう迷うことはない。今から戻って後を追おう)と、心に決めてザックを持ち上げた。
「なんだよ、まだこんなとこにいるんか」
突然背中に声がして、いままで心の内側に居た夏沢を驚かせた。振り向くと、例の戦闘服の若者が、ポケットに両手を突っ込んで立っていた。
「せっかく特急で運んでやったのによう。グズグズしてっと昼になっちまうぜ」若者は不満そうにサングラスを光らせて言う。
「いや、すまん。途中まで登ってはみたんだ。でも、気分が悪くなって引き返してきた」
事情を知らない彼らから見れば、その時の夏沢は、本当に辛そうな顔色をしていたのだろう。
「やっぱ兄貴の『テク』に参っちゃったんスよ。俺だって本気でビビリそうになったんスから」
少年はそう言って、意地悪く笑いながら夏沢を覗き込んだ。(この小僧!)と気持ちの安定しない夏沢は思ったが、ことさら無視を装ってサングラスのほうに向き直り、これから麓に下りるのならもうひと稼ぎしないか、と持ちかけた。
「おい聴いたか。まだ遊び足りねーんだってよ、このおっさん。お前の言うようなヤワじゃねえぜ」
ポケットから出した手のひらを外国人のように上に向けながら少年に言うと、若者はサングラスをおでこに載せて、夏沢に片目を瞑ってみせた。
「じゃ、悪いけど頼むよ。でも下りは二千円に負けといてくれ。どうせ君らも降りるんだろ」
「ちぇ!ちゃっかりしてらぁ。俺達の足元見るとは、おっさんも大した玉だ」
危ないお兄さんは横目で夏沢を見ながら苦笑いすると、となりの少年に向かって言った。
「おォ、代わりにお前が差額をよこせ」
「ええ!それは無いっスよ」
「おまえ、往きも只で乗っけてやったんだぜ」
「だって、あれ、俺の車っスよぉ」
「じゃあ帰りはおまえ、後ろだな」
夏沢は笑いをこらえながら、そんなやりとりの後を着いて行った。
売店の前を出発してまもなく、車がバスの終点付近を通過するとき、夏沢は一寸異様な光景を眼にした。 数人の若者が、一人の女性を囲んで詰め寄っている感じだった。その女性は紺色のトレンチコートを身にまとっていた。何となく麻由美の着ていたそれに似ている。
(彼女に間違いない!)
夏沢は直感的に確信した。
「止めろ!」
「うわッ!なにやってんだッ!」
夏沢がいきなりサイドブレーキを引いて「止めろ!」と叫んだので、ハンドルを誤りそうになった若者は大声をあげた。だが車は、タイヤに悲鳴をあげて、スピンしはじめた。幸い道幅が広くなっていたのと、カーブに掛かって制動していたので、車は奇麗にターンをして反対向きに止まった。
「ヤロー!気でも狂ったかァ」
若者は凄い形相で夏沢の衿に掴みかかってきた。
「す、すまん。止まってほしかったんだ。そ、それから悪いが、さっきのバス停まで引き返してくれないか」
暫く夏沢の止めた理由を聞いていた若者は、ようやくその手を離し、恐い顔を前に向けて爆音と共に急発進した。
「クソッ!最初からそう言やいいだろ!ざけやがって」そういう若者の額にも、夏沢の首筋にも汗が噴いていた。後ろの少年は、今のショックに声も出せず、二人の様子を窺っていた。
「あそこだ。人が何人か居るだろ。あそこで止めてくれ」
夏沢は、あの人であって欲しいという思いと、異様な状況に曹っている女性は人違いでいて欲しいとの思いが同時に起きた。そして車が停止すると、若者が制止するのを振り切り、人の塊に飛び込んだ。
果たしてそれはその人だった。麻由美は蒼い顔で震えながら夏沢を見る。夏沢は彼女を連れ戻そうと一歩前に出た。そのとき、左右から連中が襲ってきて、腹を蹴られ堅い何かで頭を殴られた。一瞬鼻の奥が「ツーン」としたかと思うと、そのまま前倒しにうずくまった。
夏沢が意識を戻すと、目の前には幾つかの汚れたスニーカーと砂利道があった。
「だから一人で行くなと言っただろ」
若者はサングラスの顔を近づけてきた。さっきの連中は、その後ろから覗き込んで、しきりに謝っている。
理由を聞くと、連中はこの若者の子分格で、麻由美を相手にカツアゲをしていたところだと言う。問題ばかり起こす質の悪いグループらしい。
後部座席まで夏沢の躰を子分達に抱えさせ、若者は運転席に戻ると、
「俺の客に手ェ出すなんざ、テメーら十年はえーんだよ!」と窓から一喝した。
車の脇に整列していた子分達は、頭をヘコヘコさせながらその場を立ち去った。
となりの麻由美は、まだ血の止まらない夏沢の頭をハンカチで押さえながら、心配顔を向けてくる。夏沢はその痛みよりも、この狭い後部座席で麻由美と体を寄せ合っている事が照れくさくて、顔がだらしなく緩みかけるのを耐えるほうに「気」が行っていた。それは、時々ルームミラーがこちらを覗いては、例の歯を見せるからだった。
「今度はもっと安くすっから。また来いよな、おっさん」
サングラスの若者は、病院の前で車を止めると、キッチリ二人分の料金を受け取り、爆音と共に走り去った。