三
翌朝まだ暗いうち、夏沢は、帳場を覗いたが誰も居ないので奥の厨房に顔を出し、女将をつかまえて握りめしの弁当を注文した。そして勘定を済ませた後、相部屋の女性は筆談でしか話せない人なので、少し心配だが、後はよろしく頼むと言い残して、ようやく明け染める朝モヤの中に、大きなザックの影を浮かべて駅に向かった。
駅前には、早すぎたのかバスどころかタクシーさえ見えなかった。が、国道脇に、異様に車高を低くした紫色の派手な車と、同じように派手なジャージーの上下を着た若者が眼に入った。夏沢は重いザックをそこに置いて彼に近づいていった。
「おッ左ハンドルか。いい車だなぁ。いかにも速そうじゃないか」
夏沢がそう言うと、男はビクッとしてこちらに驚きの眼を向けた。
「や、驚かしてすまん。あんまり格好いい車だったから、つい近くで見てみたくなってね」
「・・・・・」
「いや、別に怪しいもんじゃないから、心配すんなよ」
夏沢はそう言ったが、顔にまだ幼さを残した若者は、こういう種類の人が見せる独特の鋭い目付きで夏沢のつま先から額までを舐めるようになぞった。
すると彼の背後から声がした。
「おっさん。なんか用かよ」
黒いフィルムを貼った車のウィンドウが開いて、メタルフレームのサングラスを掛けた、いかにも危なそうなお兄さんが顔を出した。
(ヤバイなこれは。意外とややこしいことになりそうだ)夏沢はそう思って、首筋に冷や汗を浮かべながら、
「何でもない、何でもないんだ。ただちょっと、もしも、もしも暇があったら、アルバイトでもしてみないかなぁと思ってさ・・・。でも、まあ止めにしておこう」と言って踵を返した。そうして、ザックの置いてあるタクシー乗り場まで戻り、そこへしゃがんで煙草に火を点けた。
すると暫くして、辺りをつん裂くようなエキゾーストの音をさせ、さっきの車が目の前まで来て急停車した。
「お客さん。どちらまで行きましょうか」
危なそうなお兄さんが運転席から身を乗りだすと、サングラスをおでこに持ち上げ、意外にひょうきんな顔で声を掛けてきた。
夏沢はニヤリと笑って三本の指を立て、
「三千円で行ける所までやってくれ」と顎を山に向けた。
スタイリングと音だけは矢鱈と景気が好いのだが、登りにさしかかるとバス並みの緩いスピードでトロトロと行く。そして路面の悪い所では、地面擦れ擦れのボディーがガリガリ悲鳴を上げていた。
「なぁ。大丈夫なのか?なんなら、この辺でもいいんだぜ」
後部座席の夏沢は、白の戦闘服に身をつつんだお兄さんに声を掛けた。
「なんだおっさん、もうビビッタんか。これからがおもしろいんだかんな。タイヤが歌うから、よおく聞いてんだぜ」
お兄さんは、シフトレバーを一気に二段落とすとスロットルを全開にした。爆音と共に背中のシートに張りつけられ、猛烈な勢いで次のカーブが迫ってくる。このままではガードレールに激突するのは間違いない。夏沢は思わず足を突っ張って眼をつむった。
そのとき、タイヤに強烈な音をたてながらドリフト(横滑り)して、夏沢の躰はドア側に吹っ飛んだ。その拍子に眼を開けると見事にカーブを抜けていた。
後部座席の夏沢にとっては、たまったものではなかった。只でさえクッションの無いこの車は、野獣のように尻を振りながらタイヤを軋ませて狂ったように走る。夏沢は、具合がどうにかなりそうになってきた。しかし「行けるところまで」と雇ったからには、肩に当たるロールバーに掴まって、耐えるより他になかった。
だが、しばらくするうち、それにも慣れてきたような気がしてきた。カーブに差しかかったときの緊張感と、その出口で受ける『横G』の開放感が却って心地よい程にもなってきた。
「よおし。――結構やるじゃないか。どんどん行こう」夏沢も何だかその気になってきた。するとルームミラーから、お兄さんがタバコで汚れた歯を見せた。助手席の少年は、平気な顔をしているくせに、よく見ると両足を思いきり突っ張って座っていた。
やがて、その異様な、ぬるぬるとした生物を連想させる車は、登山口の温泉に着いた。
「お客さん。終点ですよぉ」
恐そうでひょうきんなお兄さんは、そう言って夏沢に振り向き、例の黄ばんだ歯を見せて笑った。
登山道に足を踏み入れると、もうそこは初冬と言ってもよい様相を見せていた。これから訪れる厳しい冬に備えた木々は葉を落とし、辺り一面を彩っていた。そして晩秋の陽が、わずかな葉を残した梢を通して、足許を明るく照らしていた。
夏沢は、尾根に出るまでの急なつづら折れの山路を、一歩一歩踏み締めるような足取りで登って行った。だが、いつまでも麻由美の事が頭から離れずにいた。重い肩の荷も、それを支える足腰の苦も意識から遠ざかり、胸中は夕べ受けた衝撃を繰り返しくりかえし思い出していた。
(そう言えば初めのうち自分の話しを聴きながら、あの人はテーブルの上に乗せた指先に不思議な動きをさせていた。あれは言葉の代わりの手話だったのだろう。それが分からずにいた自分こそ、彼女に対して済まないことをしていたのだ)
知らなかったとはいえ、今まで企業の為に有効な事しか教育を受けてこなかった夏沢は、それにどう対処すべきか答えを見いだせないどころか、異様なものとして眼に映るだけであった。
(そういう自分の反応をみたあの人は、落胆し、それさえもしなくなったのだろう。さぞ心細く、そして情けなかったろう。なぜ気づいてやれなかったのだ)
夏沢は、恥ずかしさと後悔で胸が苦しくなってくる。景色も何も眼に入らず、鳥の聲にも耳を貸さず、尚も考え続けながら、ゆっくりとした足取りで歩を進めていた。
(今朝、廊下に出るとき、襖の向こうはまだひっそりとしていた。今頃はもう、また独りになったことを知るだろう。孤独なあの人は何処へ行くのだろう、そして何をしようというのだろう)
そこまで考えが行き着いたとき、夏沢はふと立ち止まった。それは胸中に不吉な雲が広がって行くのを止められなかったからだ。
(このまま山頂に向かおうか、それとも、戻ってあの人の消息を確認す可きか)
夏沢の足は後者を選んだ。そう思ったとたん、踵を返し、錦を散らした山路を駆け下って行った。