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 タクシーは、駅からワンメーター足らずの、歩こうと思えば行ける程の所で停車した。夏沢は玄関に立って電話で予約したことを告げ、この人にも部屋を頼みたいと話すと、女将は一寸手のひらを向けて、

「すこしお待ちくださいね」と言うと奥へ消えた。暫く待つと、縞の着物に衣擦れの音を立てて戻り、すまなそうにこう答えた。

「ごめんなさい。あいにく今、紅葉祭りでしょう。――夏沢様はご運が良かったわ。ちょうどキャンセルがあったから。――でも、そちらのお客様にはお気の毒だけれども、うちは一杯でしょ。――いえね、いま組合にも問い合せたのよ。そしたら空いているところはもうないんじゃないかしらって言うの」

 夏沢は、その言葉に唖然としながら振り返って、

「どうしようか」と女の顔を見た。

女は一瞬悲しげな表情を浮べたが、黙って頭を下げるとガラス戸を開けて出て行こうとした。

「おい、待てよ。――俺はテントを持っているんだ。俺はどこかその辺で野宿するから、君がここに泊まればいいよ」夏沢がそう言いながら女の肩に手を置いた時、女将は思いがけない事を口にした。

 キャンセルのあったその部屋は、家族連れの予約だったので、仕切りは襖一枚だけど、二部屋になっているから、お知り合いであれば相部屋で如何かと言うのである。二人は一寸戸惑いの眼を見合わせたが、状況が状況なので否応なしに女将の後を奥に進んだ。


 その女の名は麻由美と言った。

 夏沢英治と書いた宿帳の隣の行に、麻由美はその性格を表わすような、細く綺麗な文字を記した。彼女はこんな事態になったにも関わらず、静かな態度をみせていた。むしろ自分の方が、落ち着きを失いかけていた。

 歳若いアルバイトのような仲居が宿帳を受け取りながら、風呂の場所と食事の時刻を告げて「では、どうぞごゆっくり」と、上目使いで意味深に言ってさがった後、夏沢は煙草ばかりを無闇にふかしていた。麻由美は、紅葉の柄をあしらった湯呑みに注いだお茶を、夏沢の前に差し出した。夏沢は、安物の掛け軸に眼を遣ったまま、麻由美の方に顔を向けることができずにいた。

 それは自分自身に対する抵抗であり、謎めいたこの美しい女と宿を伴にすると言った事態に対して、頑なな自制心が鎧のように重く被さってきているのが分かっていたが、自分の中の男が、いつ牙をむいて狂い出すかが心配だったからである。もっとも、その点に於いて暴走するような自分でないことも分かっていた。

(そうだ、少し話しでもしよう)そう思って、夏沢は麻由美の正面に座り直し、少し冷めかけた茶を枯れた喉に流し込んだ。そうして、今までに登った山の名やその小屋の様子、高山に咲く花の可憐な事や、源流から湧き出る水の美味さ、大自然の美しさなどを淡々と語ってみせた。彼女は、それにいちいち頷きながら、微笑みを浮べて聴いていたが、話が途切れる度、雲の影が渡るように、その表情を曇らせるのであった。夏沢は、その雲を晴らせるが為に、相手の興味をそそるような識る限りを喋り続けた。だが、麻由美と言う名の女は、口を開こうとしなかった。

 そのうち夏沢は、何だか莫迦らしくなってきた。少し腹も立ってきた。そうして、部屋の隅に置かれた浴衣と手拭いを掴むと、話しの落ちも放り出して、薄暗い廊下に出ていった。

                   *

 扉の閉める音に、麻由美は夏沢の明らかな不愉快を読み取った。しかし、今の麻由美には、自分の心を伝える術を知らなかった。二年前に受けた衝撃がもとで、後天性言語障害の『失語症』に罹った麻由美は、今までのように生きて行く事はできないと覚悟していた。承知はしていても、このようなときは悲しくて、涙が溢れてくるのを止められなかった。

 恋人と両親を乗せた車がトラックと衝突して、奇跡的に自分だけがこの世に残された事を知ったとき、彼女の精神は一時的に崩壊した。脳病院にしばらく入院したが、後遺症として大脳に障害が残ったのである。それは、悲しい現実を本能的に否定するがための抵抗であるのかも知れなかった。

 深夜ふと眼が覚めたとき、悪夢のようなあの事故がよみがえり、ようやく治ろうとしている傷口を新たに広げてしまうのであった。結果、心に描いた言葉の音声は、奇妙な音となって発せられ、傍に居る人たちを気味悪がせるだけだった。

 それ以来真由美は、声を出すことすらできなくなったのである。

                 *

 風呂から上がって部屋の扉を開けたとき、麻由美の姿は見えなかった。卓子の位置は、まるでバリケードのように仕切り襖の前に変わっていた。(やっぱり信用ないな)と思いつつ、(今日の今日じゃ当たり前か)とそのまま窓際に寄って手摺にもたれた。そうして、暗闇から奏でる微かな虫の声に耳を傾けながら、都会には無い夜の気を心地よく受け入れた。大きく息を吸い込めば、昨日までの心の垢が洗い流されていくように思えた。手摺にうなじを当てるようにして躰をねじると、目の前に黒く線を引いた軒先が見えて、その向こうには怖いくらいの数の星が群れているのが眼に入ってくる。

「ねえ君。見てご覧よ」

 あごを天に向けて思わず口に出した夏沢は「はっ」として部屋に眼を戻した。もとよりそこは誰も居ない。襖の向こうは、人が居るのか居ないのか、ひっそりとしている。

 夜空から戻った夏沢の眼に、電灯の下の白い紙が眩しく映った。夏沢は手摺から滑り下りて、卓子の封筒を手元にひきよせると、中の紙片を取り出した。

『今日は本当にありがとうございました さぞかし、私のことを変な女だと思われた事でしょう そして、お怒りのことでしょう でも私は、そのことをお詫びする言葉も音声にできないのです せっかくの楽しいお話しも、私が何も応えないので、きっと不愉快な思いをされた事でしょう そのかわり、貴方に届かない私の声を、文字でお伝えすることをお許しください』

 そのあとの十数行に、言葉を失った原因と経過について簡潔に記されてあった。簡単ではあったが、その内容は気の毒なものだった。夏沢は、もしやと思っていたが少なからず驚いた。それと同時に、いままで感じたこともない、深い憐憫の情が湧きあがって来るのを抑えられなかった。 自然と襖の方に遣った眼は、描かれた紅葉をとらえて動かなかった。



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