一
年号は平成と改まり、それから数年後の世の中は落ち着きを取り戻しつつあったが、歳月は夏沢の足許を知らぬ間に行き過ぎて、気がつくと三十半ばの夏も終りかけていた。
あれ以来、山に魅せられて身辺を顧みない夏沢には、社会的な進展も後退も無く、個人的にも何の変化も起こらなかった。そんな平凡でリスクの少ない日々を送ってはいたが、かつての同僚たちとの経済格差は広がるばかりで、それによって彼らとの付き合いも僅かとなり、自然と疎遠になっていった。
「詰まらない奴に成り下がったな」などと陰口を言う同僚が居ないでもなかった。そんな時(そう言う貴様こそ、そんなにガツガツと生き急いで何になる)と言い返してやりたくなった。
確かに社会的に見れば魅力のある人間ではなくなったのかもしれないが、出世とか収入とか、増して見栄などよりも(一度きりの人生にはもっと大切な事がある)と、夏沢は思うようになっていた。
ようやく秋の深まりを感じるようになったある週末。前日に残した書類を整理して、外へ出たときは午後の二時に近かった。夏沢は、預けた荷物を取りに、新宿駅へ急いだ。駅に着くと、ロッカーからザックと着替えの紙袋を取り出し、トイレで装備を身につけた。そして背広やシャツを入れた紙袋をまたロッカーに押し込み、ザックを肩にすると山靴のゴツゴツした音を立てながら、中央本線ホームへの階段を上って行った。
ホームにはもう列車が入っていて、青い車両の小さな窓に『甲府行』と表示されていた。昼食をそびれた夏沢は、売店で折り詰めとお茶を買い、近くのドアから車両に乗った。車内を見渡すと、その席の殆どは埋まっていた。隣の車両も覗いてみたが同じようだった。が、よく見ると四人掛けのボックスに一人分だけ頭のない所があった。
夏沢は、重いザックを両手に持って、カニのように通路を進んでみると、果たしてその席には誰かのカバンが置かれていた。(やはり駄目か)と失望したが、念のため訊ねてみることにした。
「すみません。ここいいですか」
隣の席で膝の上に手を組み、うつむいていた髪の短い女は、薄目を上げて夏沢を見ると、座席に置いたボストンを物憂げに持ち上げて胸に抱えた。そうして、それに顔を埋めるようにまた眼をつむった。
「助かった」と呟きながら、長身の夏沢が網棚にザックを載せようと躰を伸したとき、マウンテンパーカーの裾ヒモが女のうなじを擦れた。すると女は顔を上げて抗議の目を向けた。
夏沢はこの時初めて、まともにその顔を見た。色の白い、目のきれいな女だった。歳のころは、二十代前半くらいだろうか。ただ、影のある暗さが相殺されて、地味な服装のせいもあるが、もう少し上のようにも見えた。
夏沢は一寸頭をさげて謝ると隣に腰を下ろした。やがてけたたましいベルの音がして、それが鳴りおわると「ゴトン」と背中に軽い圧を感じさせて列車は動き始めた。
向かいの席は老夫婦で、細君の方が、出始めたばかりの緑みの残ったミカンの皮を丁寧にむいて、隣の老人に手渡している。そして静かな言葉を交わしては微笑んでいた。夏沢は弁当の包み紙に音を立ててその蓋を開けた。
とたんに、煮物や漬物や焼き魚の臭いが、ぷんと広がった。夏沢は慌てて蓋をとじ、向かいの夫婦に伺いの眼を遣った。夫人は、「どうぞ」と言って微笑んだ。
「すみません、じゃ失礼します」
夏沢がそう言うと、今まで窓の方ばかり見ていた女が一寸だけ顔をこちらに向けた。そのとき、ほんのわずかだが、その口許がほころんだように見えた。夏沢は昼を抜いた腹に、夢中で弁当をかきこんだ。
夏沢が満足げに空の折から顔を上げると、向かいの夫人はそれを見るなり「まァ」と眼を丸くした。そして、手で口を押さえながら、ころころと笑ったかとおもうと、自分の鼻を指先で二三度たたいてみせた。 主人の方も目が笑っている。 夏沢は何の事だか分からず、隣にも顔を向けたところ、女はそれをみて「ぷっ」と吹き出した。夏沢は目の前にちらちらする白いものを摘んでみると、鼻の頭に載った飯粒だった。
どちらかといえば好感の持てる顔立ちで、職場では女子社員達の間から時折噂の種となる夏沢だが、これではそれも台無しである。
夏沢も思わず「ハハハ」と笑って、その場のきまりの悪さを繕った。それを機に、知らない者同士の空気が和んで、向かいの夫人が声をかけてきた。
「どちらのお山にいらっしゃるの・・・?」
「ええ、特に何処と決めてないんですけど、とりあえず塩山駅で降りて・・・。それから考えようと思ってるんです」
「そう。あそこの駅からだと、ずいぶんいろんなお山に行けるわね。でも、今からだと、バスはもう終わってしまうんじゃないかしら」
夫人はそう言い、そして「ねえ、あなた」と、となりの主人に同意を求めるような顔を向けた。老人は顎を引いて頷くと、夫人の耳元にふたことみこと聞き取りにくい低い声で何かを言った。夫人は通訳でもするように、
「たとえタクシーを使っても、秋の山路はすぐに暮れるから、山小屋までは無理だろう。ですって」と優しい顔を向けた。
夏沢は、胸のポケットから手帳を出して、バスの時刻を写した頁を開き、時計と見較べながら「やはり無理だな」と呟いてから顔を上げ、
「今夜は駅前に泊まることになりそうです」と言って手帳を閉じた。そして、列車が大月駅に近づいている事を天井のスピーカーが告げはじめたとき、夏沢は何気なくその眼を車窓に向けた。窓ガラスには、色づいた木々の葉が、美しく織り上げた帯を川面に浮べたように、あとへあとへと映し出されていた。そしてその端には女の顔があった。うつろな眼でその景色を見入っているそのひとは、夏沢達の会話も上の空で、窓に顔をつけたままでいた。
車内を車掌が改札しに廻って来るのが背中のほうから聞こえてきて、間もなく彼らの前に立った。夏沢と老夫婦は、目的地までの切符を出したが、となりの女は、新宿から一区間の、券売機の切符を差し出した。車掌が「どちらまで」と訊ねたが、女は、しばらく考えるようにした後で、ボストンからとり出したメモに『塩山』と書いた。夏沢は、その不自然な切符の買いかたに(おや)と思ったが、それよりも、何処に行くとも決めずに列車に乗っているその人に対して、どこの山に登るとも決めずにいる自分より、無鉄砲を通り越した危うさを感じるのだった。
(そういえば、この人はいままで一言も口を開いていない。それどころか、まるでこの席にいたのか居ないのか分からないような人だった。さっきも、向かいの夫人が「どちらまで」と声を掛けたのに、その人は恥ずかし気な笑いを頬に浮かべて、首を横に振っただけだった)
夏沢は、隣に居るその人に、何か腫物に対するようで、迂闊に声を掛けられなかった。だがそれだけに、余計気にかかる存在でもあった。
(何年か前、ふとしたきっかけで郊外行きの列車に乗って、気がつくと山頂にいた自分のように、この人はこの列車に乗ってしまったのだろうか。あの時の自分のように、何か辛い事を抱えながら日々を送っている人なのだろうか)
そんなことを思ううち、列車は塩山駅に到着した。
秋の陽は早落ちて、西の空だけにわずかな明るさを残し、辺りはすっかり暮れ色を為していた。夏沢は改札を出て階段を降りると、電話帳の頁を繰って宿をとった。電話ボックスから出ると、途方に暮れたように佇んでいる女の背中が眼に入った。
夏沢は、余計なこととは思ったが、近づいて行って声をかけた。
「あの・・・。これからどうされるんですか?――もしあれでしたら、僕は今から車を拾って旅館まで行くんですけど、乗っけてってあげましょうか」
女は、初めは驚いたような眼を向けて一歩しりぞいたが、隣の席にいた男だと分かると安堵の様子をみせた。そうして、夏沢の眼を見つめたまま、わずかに頷いた。だが、この時も口を訊くことはしなかった。