十
歩き始めてしばらくすると、辺りは急速に陽が陰り、風も出てきた。そして雪も降り始めた。夏沢は、麻由美にヤッケを身に着けるように言って、自分もフードを被った。
地図で見る限り、雨池分岐までは一時間の距離である。それがもう二時間近くにもなる。途中、麻由美の疲れた様子を察して幾度か休んだので、行程タイムが曖昧になってきているのは分かっていたが、いくら雪道とはいえ、そろそろ分岐点に着いて良い頃だ。
「もう直だからな。頑張ろうぜ」自分にもそう言い聞かせ、前屈みになって、麻由美を庇いながら進んだ。が、いつ迄経っても夏沢の見覚えのある所には出なかった。
何故だか雪も深くなってきて、足を取られるようになった。雪は横殴りに変わり、いつしかスキーのトレイルも消えていた。一面が平坦に見えてきて、どこが何処だか判らなくなってきた。風雪は激しくなり、視界はさらに悪くなる。八ヶ岳でもこの辺りは、一番広く平たい地形で、吹雪けば稜線より迷いやすい。
夏沢は既に分岐を過ぎていることに気づいていない。そのすぐ手前でルートを外し、雨池に向かおうとしているのだった。だが、ただですら間違いやすいその地点を、雪に覆われたその道標を、この天候の中で見落とした彼を責めることはできない。しかし、彼の最大の過ちは、スキーの跡に導かれたことにある。先行パーティーは雨池に向かっていた。そして、スキーの彼らが夏道を行くとは限らないのだ。
夏沢は、本能的な危険を感じて引き返すことにした。しばらく戻ると、左手に斜面の盛り上がりが見えてくる。この際、夏道にこだわっていられない。とにかく高みを目指して登るしかなかった。だが、春山の様には行かなかった。何処を進むにもラッセルを強いられ、続け様に灌木が行く手を塞いだ。自然とトラバース(横断)気味に登る。夏沢は、まさかこんなことになるとは思ってもみなかった。麻由美の疲れた足は、少しの登りでも嫌がった。嫌がっても夏沢はその手を引いた。逸れれば命の保障はない。麻由美は朦朧とした表情で着いてくる。(辛いという言葉を吐けないだけ、余計辛いだろう)そう思いながらも(何とかしなければ)と気が焦って声もかけられない。たとえかけても、その声は風に飛ばされてしまうだろう。
(だいぶ登ったぞ)と思うとき辺りが開け、夏道らしいところに跳び出した。二人は顔を見合わせ、安堵の表情を見せた。夏沢が記憶した頭の中の地図では、夏道を左に行けば帰れるはずである。何故か道は下り気味だが、山道はどこでもアップダウンはある。二人は道らしき道に出た事が嬉しくて、構わず先を進んだ。
雪を被った大小の岩が、ガリガリとアイゼンの刃に当たる。夏沢が時々振り向いては、滑らないように麻由美に手を差し伸べる。と、まもなく平らな場所に着いた。
ここが今朝通った雨池峠の十字路である。
が、ここでは西からの風雪が一気に襲いかかり、完全にホワイトアウトになっていた。サングラスには絶え間なく雪が付着する。外せば目も開けていられない。自然と視線は足許だけに行く。たとえ道標の脇を通ったとしても、それには気づかなかったであろう。
(コンパスと地図は有っても、自分の位置が解からなければ役には立たない。この道を辿れば必ず小屋に着ける)と信じた夏沢は、そのまま先に進んだ。
道はまた辛い登りに変わった。夏沢は「この登りが終われば分岐の峠に着ける」と麻由美を勇気づけた。しかし、喘ぎながら着いてくる麻由美が可哀想でならなかった。殆どその肩を抱くように進んだ。だが、だが、これが縞枯山に続く道だとは・・・。
やっとのことで、苦しい登りは終わった。
「何処だ?ここは」夏沢は不審に思った。どこかのピークに達したらしい。完全に道を間違えたことを、今気づいた。コンパスを出してみる。やはり位置は判然としないが、本来西を目指していなければならないところ、南に向かって進んでいた事が分かった。どうやら、さっきの登り口が峠だったような気がしてきた。(戻ろうか)夏沢は判断に迷った。強風が地図を奪おうと絶え間なく吹きつける。
だが、足許でへたり込んでいる麻由美はもう、おそらく動けないだろう。自分もかなり疲労しているのが判る。吹雪は強烈にヤッケを叩く。凍りついた文字盤を擦ってみると、四時を回っていた。辺りはそれよりも暗くなっている。今から戻っても吹雪の暗闇を行く事になる。夏沢はビバークを選択した。
風雪は北西から吹き付ける。風当たりの比較的弱い東側斜面を少し下って、雪庇に注意しながら場所を探すと、木立の間に丁度良い窪みがある。夏沢は麻由美を手招いて大きく頷くと、ザックからツエルトを出した。
風に煽られる中、苦労して立ち木に止め付けたツエルトに二人は潜り込み、ヤッケの雪を落とすと、ヘッドランプを点けた。そうして互いの顔を見た途端、「ほっ」としたのか、今度は寒さに歯の根が合わなくなった。 麻由美の只でさえ白い顔が、蒼白に変わっている。
夏沢は、ポケットストーブを置いてきたことを悔やんだ。とにかく、温かいものでも飲んで、身体を暖めなければならない。麻由美のザックからコンデンスミルクを取り出して、テルモスの湯に溶かし、それを二人で代わる代わる飲む。そして甘い菓子を口にした。それから、麻由美をシュラフに入れて、その上から身体を擦った。
狭いツエルト内は、身体を横にすることはできない。二人は互いの肩を寄せるように、立ち木を背にして座る位置を変えた。そして、時々おびえた眼を向けてくる麻由美の耳元に、夏沢は何度も励ましの言葉をかけた。
麻由美は、いつしか震えも止まり、夏沢の胸に寄り添うと、静かな寝息を立て始めた。夏沢は電池の消耗を考え、ヘッドランプを消した。そして暗くなると、立ち木に寄り掛かり、麻由美を腕に抱えるようにして、眼をつむった。
*
麻由美が眼を覚ますと、辺りがシンと静まり、いつの間にか吹雪は止んでいた。隣に夏沢のいるのはわかるけれど、暗闇のなかでその肩の重みが変に気にかかった。シュラフから腕を抜くと、その手を夏沢の頬に触れた。麻由美はその時、心臓が凍りついたようになった。
その頬は、まるで氷のように冷たかった。麻由美はシュラフから抜け出て、夏沢の額からランプを奪うようにして取るとスイッチを入れた。そこに映し出されたその顔は、生きている人に見えなかった。そして支えを失った人は、そのまま海老のように横倒しになった。麻由美は悲鳴を上げてとりつき、その頬を叩いた。だが、その人は眼を開かなかった。
「アーァ、アーァ、アーァ!」と、麻由美は言葉にならない声を発しながら、尚も体を揺さぶった。
(死なないで、死なないで、死なないで!)と心では叫んでいても、声は奇妙な音となって虚しく響くだけだった。
麻由美は、夏沢をシュラフに苦労して入れ、自らもその中に身を押し込んだ。そうして、熱い湯を口に含むと、その人に接吻をした。
麻由美は涙でぐしょぐしょになりながら、喉が壊れるほどの声をしぼった。
「死んじゃダメ!死んじゃダメ!死んじゃあダメエーェ!」
麻由美は悲しみの余り絶望の声を張上げた。麻由美は、自分の声で、本当の声で叫んでいることに気づかないまま、両の掌で夏沢の頭を抱き寄せて、泣きながらその名を呼び続ける。
「ナツザワさん、ナツザワさん!エイジさん――エイジさん――英治さん!・・・ううっ」
ようやく麻由美は自分の声が戻ったことを知るが、喜びの意味を無くしたその声は嗚咽に変わった。そして、静寂が訪れた。
(いちばん私の言葉を聞いて欲しかった人の命が、今その声と引き換えに奪われようとしている。なんという皮肉なことなのでしょう)
麻由美は、そんな意地悪な神に祈った。たとえ自分の声が戻らなくても良いから、夏沢の今にも消えそうな命を引き留めて欲しいと神に祈った。
ついに麻由美の涙は涸れ果てた。だが、放心した眼を遠くに向けたままでも夏沢の首を離さなかった。
「英治さん?――どうして眼を開けてくれないの?」
麻由美は、夏沢の耳元に優しく問いかけた。そして、消えゆこうとするその人がくれた、睡眠薬の残りを全て口に含んだ。
この人と一緒に永遠に眠ろうと。
*
麻由美は、静かに眼を閉じた後、死ぬ前にもう一度その顔を見ておこうと薄目を開けた。その時、夏沢の眼が僅かに開いた。そしてその空ろな眼は、何かを探すように宙を彷徨い、麻由美をとらえて動きを止めた。
麻由美は、奇跡を見るように夏沢を見つめ返し、含んだ薬を手のひらに吐き出すと、その名を小さく叫んだ。
夏沢が夢にまで見たその声は今、その主にいだかれた自分の名を呼んでいる。
(夢でも構わない)そう思う夏沢の眼尻に涙が光った。
盛り上がる光の玉は、こぼれて頬を伝う。青白き頬に生気がよみがえる。
「君の声は、やはり、君の声は」夏沢の震える唇がささやいた。
そうして、二人は、骨のきしむほどに、強く互を抱きしめた。
辺りが急に明るくなった。
冷たく澄み切った大気の中、東方に黒々と連なる稜線を越えて、金色に輝く幾筋もの光が二人を照らした。
完




