九
例年になく暖かだったクリスマスを過ぎたころ、年末を前にして気圧配置が冬型へと変わった。東京でも急に冷え込みが増して、各地から大雪の便りが届くようになった。
師走の新宿駅は早朝にも関わらず、かなりの人が行き来していた。待ち合わせの場所に着くのが少し早すぎた夏沢は、一度改札を出て、煙草に火を点けた。そうして仰ぎ見ると、空は淡い灰色の雲で覆われていた。
元の場所に戻ると、まだ時間には早かったが、柱に依って文庫本に眼を落としている麻由美がいた。カウチンセーターに耳当ての付いたお揃いのニット帽、細身の黒いクライミングパンツにトレッキングシューズ。夏沢の目に、初めて見る麻由美の登山スタイルが新鮮に映った。夏沢はと言えば、ツイードのニッカーボッカーにチェックのウールシャツという旧式の格好である。
「おはよう」と声をかけると、彼女は軽く頭をさげて微笑んだ。
列車が塩山を過ぎる辺りから雲が晴れて、青空が覗いてきた。左の車窓に、雪煙が立ち昇る雄大な富士が見えてくる。次いで南アルプスの連峰が目の前に迫る。そして右には八ヶ岳の山塊が見え始めた。共に真っ白な雪を被って、鮮やかな稜線が夢のように美しく気高い。麻由美は、耳あての先に付いたポンポンをもてあそびながら、その景色を放心したように眺めていた。
二人は茅野駅に降りると、バスに乗り換えて北八ヶ岳へと向かう。曇った窓硝子を手袋で拭き取ると、特徴のある蓼科山の容姿が眼に這入ってきた。間もなくバスは登りに差し掛かり、つづら折れに標高を上げて行くと終点の広場に着いた。
ロープウェイの乗り口は思ったより大勢が並んでいて、斜面にはスキーを楽しむ人たちがスロープを描いていた。パノラマの景観を期待して乗り込んだものの、詰め込まれたゴンドラからは人息で白くなったガラスが見えるだけだった。しばらく揺れると坪庭のある山頂駅に到着した。
二人は、縞枯山荘のデッキで昼食を済ませ、小屋で借りたスキーを履いて、明日の偵察を兼ねた散策に出かけて行った。クロスカントリーの板を履けば何処へでも歩いて行ける。
夏沢達は、童話の中に出てくるような森を、子供のようにはしゃぎながら歩き回った。雪を被ったシラビソの林が、新雪に残されたウサギの足跡が、そして煌めくダイヤモンドダストが、二人をメルヘンの世界に誘う。
先を行く麻由美の後ろ姿を追うと、時々立ち止まっては、感激のため息をもらすのだった。振り向いた満面の笑みから白い息がたなびく。もう言葉も文字も要らない。
「寝る前に一粒飲むといいよ」
夕食の後、夏沢は睡眠薬の入った小さな瓶を麻由美に手渡した。慣れない山小屋で、眠れないのを気遣っての事だった。
年末年始のシーズンで、鮨詰めに混んでいる小屋の寝床は、ひとり当りタタミ半分ほどの狭いスペースである。他人とは互い違いに寝かされてはいるものの、其方此方から起こるイビキや歯ぎしりに悩まされ、麻由美はなかなか寝付く事ができなかったようだ。それでも明ける前には、ようやく眠りにつけたらしいが、朝食に呼ばれるまで蒲団の温もりから出るのを嫌がった。
夏沢は、ロープと行動食と、念のためのツエルト(簡易テント)とシュラフ(寝袋)をザックに詰め込んで、外に出るとアイゼンを装着した。麻由美も、ヤッケとお菓子とテルモス(保温瓶)だけをサブザックに入れた軽身で、軽アイゼンをトレッキングシューズに着ける。
今日は雨池山から北横岳を経て大岳まで縦走し、双子池に下り、平坦な山裾を雨池分岐まで戻って、小屋まで登り返す予定である。午後の二時過ぎには戻れる筈だ。
雨池山から次のピークで一息いれる。空は抜けるように晴れて、大気は冷たいが、日差しは暑いくらいだった。頭を巡らすと、左手に横岳、その奥に蓼科山、振り返ると、南の八ヶ岳やアルプスの白銀がコバルト色の空に映える。その目を真由美に戻して、まじまじと見てから首をかしげた。
「なんだか君は、とてつもなくサングラスが似合っていないなぁ」
そう言って夏沢が笑うと、麻由美は頬を脹らませて、そばにあったシラビソの枝をしごくと、雪のツブテを投げてきた。逃げると面白がってツブテが追ってくる。夏沢は悲鳴を上げて逃げ回った。
その拍子に夏沢は道から外れた斜面に転倒し、背中から滑落し始めた。(しまった)と思うと同時に反転して、ピッケルのピックを雪面に突き刺し体重を載せる。が、雪が柔らかくて止まらず、ブッシュを掴んでようやく停止した。
「フーッ」という安堵のため息と共にピッケルを持ち直して、石突を深く押し込んだ。そして立ち上がりながら見上げると、麻由美が恐る恐る覗いている。落差は10米をゆうに超えているだろう。
「危ないからさがれ!」と言う矢先に、今度は麻由美の足元が崩れ、夏沢めがけて滑り堕ちてきた。
「ブッシュを掴め、掴むんだ」と叫びながら身構えると、次の瞬間必死で麻由美を抱きかかえていた。恐怖に震え、しがみつく麻由美を宥めながら、周りの地形を観察すると、幸いにも直ぐ下に登山道が回り込んでいるのが見えた。夏沢は、麻由美の腰にロープを回し、残りの斜面を慎重に下って行った。
双子池までの下りでも、麻由美は何度も尻餅をついたが、今はロープで繋がっているので危険はない。
「君の尻餅の穴はこれでいくつになったかな」冗談を言いながら指を折ると、麻由美はまた雪を握り締めるので、もう降参と夏沢は両手を挙げた。案外気の強いところもあるし、それだけ元気になってくれた証拠のようで、夏沢には嬉しく思えるのだった。そして、いつの日かその唇から発せられる声を想像するのだった。
夏沢は、山荘を出てから喋りたいことが沢山あった。けれども、その都度、メモを出して文字にしてもらうのも気が引けたし、互いにその表情で分かりあえる範囲で理解すれば良いと思っていた。しかし、やはり麻由美の声をこの耳で確かめたかった。そうこう思っているうち、煙の立ち昇る双子池ヒュッテが見えてきた。
ヒュッテに着いてしばらくすると、暑い汗が何時の間に背中で冷えて、気がつくと身体中が冷たくなっていた。そんなとき、小屋のストーブはありがたい。それを囲むようにして、登山客や山スキーのグループで賑わっていた。
二人は行動食で昼食を済ますと、ストーブのヤカンから熱い湯をテルモスに詰め替えて、帰りの途についた。これからしばらくは、平坦な道を、スキーのトレイルに沿ってぶらぶらと行けばいい。
ヒュッテを出たとき空を見ると、いつの間にかネズミ色の雲が拡がっていて、遠景は霞んでいた。だが、帰路にかかる時間はいくらでもないし、スキーツアーで来ていた先行パーティーの跡を辿れば心配はなかった。いや、無いと思った。




