序
ライジング・サン
周りは去年の枯れ草が薄黄色に折れ重なり、すき間には春の小さな花が青く覗いている。頭の上の枯れたカヤトの葉先に「空とはこんな色だったのか」という青い天井が見えていた。夏沢英治は、まだ覚めない夢の続きだと思いながら、まぶしさに目を細めた。
夏沢は、陽だまりの草の上に寐ていることに気づくと、時計を見るため青空の真ん中に腕をかざした。すると、文字盤の横に画用紙を丸めたような白いカフスが見えた。その瞬間、急に胸が悪くなってうつ伏せになり、カヤトの根に嘔吐した。だが、何も食べずにいる腹は苦しいだけで、口から泡の唾液が出るだけだった。夏沢は、また仰向けになって、荒い息をしながら目を閉じた。時刻は昼を少し回っていた。
昨夜遅くまで続いた会議の後に、むりやり上司に飲まされたアルコールのアセトアルデヒドが、時々悪魔のように襲いかかってくる。と、同時に、ゆうべの記憶がよみがえる。濃い化粧の女達が、酔い潰れた自分をのぞき込み、口を歪めて笑う。上司は面白がって、頭を叩くのを止めようとしない。だが、それから先は、さっき目が覚めるまで何も憶えていなかった。
大勢の子供の騒がしい声が、夏沢を現実に引き戻した。芯の痛い頭をもたげて立ち上がると、近くで遊んでいた子供達は、驚いて親達の許へ走っていった。その母親達は、口々に何かを言って、こちらを指さしている。ここはどこかの山の頂上で、小学校の遠足か何からしく、皆が弁当を広げている所だった。自分の姿は、糊の効いた白いシャツにきちんとタイを締めて、枯れ草が付いた背広を着ている。本来ならば、オフィスに居るはずである。(俺は何故こんなところに居るのだろうか)夏沢はアタッシュケースを拾い上げ、ふらふらと彼らの向こうに見える売店の方に足を向けた。皆は話しをしていたその口を噤み、彼の場違いな姿を眼で追った。
ベンチに座り、ムカつく胃に缶入りの冷たいコーヒーを流し込んでいると、頭の上から声がした。
「今日は暖かで良かったですね。――でも先生は大変ですねぇ。子供達より却って母親の方があれですよね」
売店の親爺の勘違いに、夏沢は否定とも肯定ともつかない苦笑いを返した。それから、脱いだ上着を肩に担ぐと、ケーブルカーの看板に向かって歩き始めた。
この十年近い歳月を、上から与えられたノルマに向かってひたすら突進し続けた結果、自分自身に残るものは何もなかった。しかし、世間では今世紀始まって以来の好景気に沸いていた。周りがそうであろうとも、そうした経済に心を動かされない夏沢は、そんなことはどうでも構わなかった。必死でやってさえすれば、いつかは、ほっとするような時が必ず来ると信じていた。だが、マイペースで行く夏沢にもバブルの波が打ち寄せてきた。彼はそれに抵抗した。抵抗すればするほど彼の業績は落ちた。そして、彼の居場所は狭くなっていった。
実体よりもはるかに膨らんだ経済は、早く何かをしないと大変な事になるかの気分を巷に満たし、津波のような勢いで、生活の圏内にも襲って来つつあった。そしてマネェゲームは本業を忘れさせ、良識ある人までを巻き込みながら拡がっていった。その結果企業の戦士たちは、擦り切れるまで争奪戦を繰り返した。夏沢はその過酷な戦闘に疲れきっていた。
傍目八目という言葉があるが、部外者を自認する夏沢から見れば、今の景気そのものが、何か間違っているように思えてならなかった。が、周囲は彼をオチコボレと解釈した。
アパートの部屋に戻った夏沢は、崩れるようにベッドの上に倒れた。そうして今朝の空白だった時間の事を考えた。どんな状況に置かれても、少なからず先のことを考えながら行動していた自分が、今日に限ってまるで出鱈目だった。毎日のように付き合いで飲みに行く事も、朝方帰宅することも度々あった。少々深酒をしても、人並みに耐えられるほど鍛えられていた。そして翌朝になれば、そう苦もなく出勤していた。
何故なのか、今朝は違っていた。無意識のうちに反対側のホームに止まっていた郊外行きの列車に、その空いた座席に、本能のまま呼び寄せられたに違いなかった。朝の空は晴れて、清々しい大気に満ちていた。それは、これから向かおうとする過酷な世界と相反する、安らぎの色をなしていた。
そこまで思い出したとき、電話の呼び出し音が夏沢を驚かせた。しばらくその音は鳴り続けたが、留守電のメッセージに変わった。そして発信音の後、上司の罵声がスピーカーから流れてきた。腹ワタに差し支える言葉を散々言って、最後にこう結んだ。
「今日中に連絡をしないと貴様はクビだ。バカヤロウ!」
上司は何度も掛けてきたらしい。そして、連絡をよこさない夏沢に、随分腹を立てているのだろう。
電話が切れて、部屋がシンとなったとき、夏沢は山頂で見た青い空が何故か懐かしく思い出された。
*
一ト月後、彼の身の上に社会的な変化が起きた。
その日、出勤してまもなく役員室に呼び出され、異動の通達を受けた。それは精鋭の営業部から、下請け会社の配送主任としての出向だった。出向と言えば聞こえはいいが、言わば左遷であった。勤務地も丸の内から晴海に変わった。
新たな職場は気の荒い連中ばかりで、新任の若い夏沢の言うことに誰もまともな返事をしなかった。しかし、その場での指示は聞いていなくても、その後の仕事はきちんとこなしていた。それでも時間が来るとさっさと帰っていった。それぞれ気の合う仲間同士で、これから繰り込む歓楽街や、ギャンブルの話しを楽しそうにしながら、ぞろぞろと帰って行った。
誰もいなくなって、伽藍とした倉庫の照明を消すと暗闇となった。警備室に鍵を返し、外へ出ると、わずかに潮の香りがした。
受験戦争を切り抜け、苦心の末何とか名の知れた会社に就職出来たものの、十年もしないうちこの有り様だ。夏沢は少し情けなかった。昨日までの同僚は、今の自分をどう思っているのか、恐らくライバルの減った事を喜んでいるに違いない。少なくとも、自分でなくて良かったと、胸をなで下ろしていることだろう。だが、夏沢は、そういう彼らが却って気の毒に思えてきた。ここにいる連中の方が人間らしく思えてきた。彼らの生活レベルは確かに高くはないだろうけれど、その日その日に楽しみを見いだして生きている。それに引きかえ昨日の戦友たちは、将来の栄冠に縛られながら、今日を楽しむことさえ出来ず、心慰まることのない哀しい戦士達なのだ。夏沢は、この突然の退役命令を悲しむよりも、寧ろ喜ぶべきだと思った。
沖に眼をやると、貨物船の明かりが、モヤに滲んで赤や黄に点滅しているのが見える。
「週末には、久しぶりに山に行ってみようか」
学生の頃ワンダーフォーゲル部にいた夏沢は、沖の灯を見ながら独り呟いた。そうして大きく息を吸い込むと、頭上に青い空が拡がって行くようだった。
昭和六十二年 桜の花も終わる頃であった。