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最良の一日  作者: 要徹
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     6



 悪魔に命ぜられるがままに、体が動く。


「上か」


 圧し掛かっている彼女を()ね退け、二階へ続く階段へ向かう。


「ちょっと待って。私も行くから」


 服に付着した埃を取ることも忘れて、玄関の方まで戻って行った。玄関前に、所々穴の開いた、薪をくべた後の色をした階段があり、それが光の射さない二階へと続いているのが見えた。


 一歩、階段に足をかける。ぎし、と軋む。埃が舞う。う、と、苦しさに喘いでいるように思える声。左足を二段目に置く。何かを踏み潰したような、例えるなら、スナック菓子を潰したような感触。三歩目。この段はやけに柔らかい。まるで、あの子の素肌のように。四歩。声が、大きくなってくる。何か、言葉を発しているのか。五。栗鼠女が止めようよ、と言う。黙っていろ。六。やはり、声は錯覚ではないし、臭いも。今、はっきりと聞こえる、臭う。


 階段を登りきると、凄まじい腐臭が鼻腔(びこう)をついた。まるで死体が転がっているのではないかと疑ってしまうほどの悪臭に、思わず鼻を手で覆った。そのまま辺りを見回すと、目の前に大きな窓が見えた。どうやら、ここは二階というわけではなく、屋根裏部屋のようなものなのだろう。窓から射し込んでいるはずの月光はなく、窓枠と、外に広がる夜空しか見えない。今、月は雲に隠れている。


 何かが、呻いている。聞くからに苦しそうだ。声のする方へ体を向ける。何も、見えない。足元に注意しながら、ゆっくり進む。痛い。確かに、それはそう言っている。だとすれば、暗闇に潜んでいる何かとは、人間なのか。いや、動物の呻きが、そう聞こえるだけかもしれない。しかし、こんな鍵のかかった場所に、動物が侵入できるのか。できないことはない――か。


「ねえ、何があるの。暗くて何も見えない」


 栗鼠女を無視して、耳を澄ませながら、一歩、闇へと進む。体が黒に侵食されていく。何だか、このまま自分が消えてしまうのではないか、というような妙な錯覚に襲われる。胃が、鉛を呑みこんだかのように重い。何か、見てはならない物がこの闇に紛れている。そんな気がしてならないのだ。理性は行けと命令している。本能は、やめろと制止する。どうするのだ。好奇心が、背中を押す。行け。やめろ。行くんだ。行ってどうする。ほうら、闇の先には面白いものがある――。


 黒に身を投じる。何かを足で踏んだ。また、虫か。違う。ぐにゃりとしたような感覚。そう、ガムでも踏んだような――不快感がある。足を上げると、靴に溶けた飴玉のようにねとついている何かが付着しているのが分かった。どうやら、栗鼠女もそれを不快に思ったらしく、何これ、と、冷たい声で言っている。


 月光が、雲間から射し込み始めた。徐々に、闇が裂ける。足元で、琥珀色をした粘液が、池を作っている。その池は未だ黒を纏う先へ続いている。鋭く柔らかな光が、細い道を作っていく。そして、粘液の池の先に――。


「ひッ」


 栗鼠女が短い悲鳴をあげ、その場で尻もちをついた。


 風が窓を叩き、がたがたと叫ぶ。


「これは」


 月光の示す先には、表面が焼け(ただ)れて赤黒く変色し、ねっとりとした琥珀色の粘液に体が包まれている人型の生物がいた。その体からは怪しげな黒煙が上がっており、それが悪臭の原因だと思った。それは辛うじて人間としての体を残しているが今にも息絶えてしまいそうで、断続的に呻き声をあげていた。そして、その首には――僕のカッターナイフが刺さっていた。その証拠に、柄の部分に「シネ」と乱雑に彫られている。


 ――じゃあ、これは。


「あの子だ」


 思わず、そう呟いた。生きていた。こんな姿になろうとも、愛しいあの子は生きていたのだ。ぱっと落ち(くぼ)んだ目をこちらに向け、微かに笑んだ気がした。ああ、そしてあの髪。甘い芳香を放つ髪が、まだ少しだが存在する。成長していない姿形は醜く崩れているものの、あの頃の可愛らしい面影が残っている。今日は、人生最良の日だ。しかし――。


 しかし何故、こんなに姿になっているのだ。彼女が生きていたことは、それで良い。しかし、どうしてこんな姿になっているのか、予想できない。死体が腐っていく過程を見たことがあるのだが、今の彼女は腐りゆく人間のそれに近い。こんな姿で、体のあらゆる器官が生きているとは考えられない。それ以前に、どうやって今まで生きていたのか解らない。あの出血で何故生きている。見たところでは誰に治療を受けた痕跡も見受けられない。自然にこうなったとは考えにくいが、現実は常識や科学、論理などで説明しきれるものではない。だが、そんな非現実的な体の至る所に現実的な無数の傷がつけられていた。それは明らかに人為的につけられたものであり、その憶測を疑う余地はない。傷は、他の部位よりも人間的な箇所を残している部分にある。誰かが彼女を殺そうと目論(もくろ)んだのか。誰が――。


 と、そこで一つの解が浮かんだ。


「待て。もしかして、あいつらはここへ来たんじゃないか?」


 尻についた埃を叩きながら、栗鼠女が口角を上げる。


「……かもしれないわね。何でこんな面白いもの、私たちに見せてくれなかったのかしら。それにしても、酷い臭い」


 理由は分かっている。僕以外で彼女を笑い者にする為だ。ペアである栗鼠女に見せるということは、僕にも見せる結果になる。あいつらはここへ来て、彼女を痛めつけるだけ痛めつけて帰って行ったのだ。事前に、僕と栗鼠女を除く人間に教えておいたに違いない。鍵のかかっている廃屋に面白いものがある、と。そして事前に南京錠を外す鍵を渡しておいたのだ。いや、そもそもあれは鍵をかけたように見せているだけの偽物だったのだ。


「ねえ、さっきあの子だって言ってたけど、これに見覚えがあるの?」


「これ、だって?」


 怒りを込めて、言う。しかし、栗鼠女は無視をした。


「じゃあ、これがあいつの言っていたお化けなのかな? なんだ、拍子抜けね。想像以上に気持ち悪いけど、襲ってこないんじゃあ、面白くないわね」


 ――気持ち悪いだと? あの子が、気持ち悪いだって?


 愛しいあの子が、痛い、痛い、と、餌を求める鯉のように口をぱくぱくさせながら言っている。しっかりとした意識はあるようだ。


「あいつの隠した死体って、これだったのね」


「なんだって。あいつが隠した?」


 電流が、頭の天辺から、足の先まで、体中を駆け巡った。何故だ。あいつは、この子の隠し場所を誰かに吹聴して回っていたのか。僕には言わなかったくせに、どうしてだ。言いふらしたところで、何の利益もないはずだ。それなのに――。


「そう、これはきっとあいつが隠したんだよ。そう言ってた。あいつ、今日肝試しに来た連中にも言いふらしてたよ。前に、俺は死体を隠したことがあるんだぞ、って言ってたこともあったっけ。その時はどうせ冗談だろうと思っていたんだけど――本当にあるなんて、考えてもみなかった。でもその死体の特徴をやたら詳しく語るんで、真に受けている人はいたよ。それであいつを怖がってたっけ。これ、あいつが語ってた特徴とぴったりだよ」


 言いふらしていた? あの状況では僕が殺したのか、あいつが殺したのか判然としないはずだ。自分こそが犯人だと、いや、共犯者だと名乗りをあげることに何の意味があるというのだ。いや、意味ならあるか。自分は犯罪の、しかも殺人の片棒を担いでいたと言えば、気の弱い人間程度なら思いのままに動かすことができる。あいつはまた、恐怖による独裁を実行しようとしていたのだ。


 ふざけるな。むらむらと、怒りが込み上げてくる。だが、あくまで冷静に、事の真相を問い質さなければならない。


「何でそういうことになったのか、詳しく教えてくれ」


「あ、君は知らなかったんだね。良いの? 中々衝撃的な内容だから、君の純粋な心が傷ついちゃうかもしれないけど」


 今さら、僕のどこが傷つくというのか。幼い頃から見知らぬ人にまで気持ち悪いと言われ続け、愛しい彼女は生きてこそいるものの、変わり果てた姿になってしまっている。それに加えて、僕と同じ気持ち悪いというレッテルまで貼られてしまったのだ。気持ち悪いのは、僕だけで良いのに。どうして、あの子まで――。


 いよいよ死を望む気持ちは強くなり、どうしようもない無力感が体を蝕んだ。しかし、話を聞かなくては――。


「構わない」


「じゃあ、話すよ」


 こほん、小さく咳払いをして、口を開く。僕は彼女の方を見ず、溶けているあの子をじぃっと見つめる。呻くだけで、一歩も動くことができないのか、ただ悲しげな眼差しをこちらに向けている。


「確か、あいつが小学生の時、クラスの女の子が行方不明になったみたいじゃない。結構、騒がれていたわよね。教師の監督不行き届きだとか、色々言われていたよね。でもね、あれ、実は誰かが殺して、それをクラスの連中と共同でこの廃屋に隠したのよ。その時、初めて友情が芽生えたって、あいつは笑ってた」


 ああ、どうして廃屋を調べようと思わなかったのだろうか。想像以上に単純な場所ではないか。僕は、己の無力さに歯噛みする。


「何で、隠したんだろう。警察に言えば良かったじゃないか」


「あいつの話では、クラスで一際気持ちの悪い男子と女子がいて、その女の子がそいつを(かば)ってばかりいたらしいの。そんな時に恩を忘れた気持ち悪い男子が、何か発狂して、カッターナイフで女の子を襲ったみたいなのね。そこであいつは英雄のように助けに入った。だけど気持ち悪い男が想像以上に抵抗するもんだから、上手く助けられなかった。半狂乱になった男はあいつを突き飛ばして、女の子を刺したのね。で、その気持ち悪い男に罪が被らないよう、警察に言わずに死体を隠してあげたってわけね。優しいなぁ」


 どうやら、その邪魔をした気持ちの悪い男が僕であるということは知らないようだ。


 栗鼠女の聞いたあいつの話には、所々脚色されている部分があるし、間違っている部分も多くある。真の正義をあいつが持っているとすれば、事件の真相はとっくの昔に明らかとなっているはずだ。きっと僕が同じ話をすれば、受ける印象は大きく変わるだろう。あいつは、僕が暴露することを恐れ、勝手に話を作り変え、己がまるで英雄かのように吹聴して回ったのだ。どちらにせよ死体遺棄となるのに、己の悪行を武勇伝として言いふらすあいつの心理は、到底理解できない。


 ――それにしても、これは僕の所為か。そうか、僕が彼女をこんな醜い姿にしたようなものなのか。ならば、その償いは必ず受けねばならないだろう。しかし、あいつはその何倍もの罪を背負い、償うべきだ。自分の罪から逃げることは、絶対に許さない。


「で、これが、あいつの隠した女ってわけね。気持ち悪い」


 気持ち悪い。ただその言葉だけが頭の中で木霊(こだま)する。


「そう言えば、あいつ、前に研究室から強塩基を持ち出してたわね。もしかして、こいつにぶっかけたのかしら。だから溶けてるのかしら。酷いことするなあ、あいつ。うわ、汚い。べとべとする。こんなに焼けて、溶けているのに、何で死んでないの、こいつ。化け物ね。気持ち悪い」


 これは強塩基なんかで溶かされたのではない。仮に強塩基を使用したのだとすれば、小学校や近隣で異臭騒ぎが起こっているはずだ。異臭騒ぎが起こっていれば、間違いなくここは特定される。今も尚彼女がいることから、そんな薬品は使われていないと断言できる。それ以外でも、薬品を使ったとは考えられない。これは、腐食や、その他の要因でこうなっているのだ。それが何なのか。


 例えば、これは生への執着と特定の人物への憎悪があったからこそ可能になった、実に神秘的な現象なのではないか。死を超越した、新たな生物が誕生したのではないか。彼女は人間という下等な存在を、そして死を超越し、新たな生物となったのではないか――。そう考えると、全て納得できた。


「ね、何でこいつは生きてるんだろうね。有り得ないよね」


 けたたましく嗤いながら、こちらへ顔を向ける。


 黙れ。口を開くな。これ以上、彼女を侮辱するな。


 栗鼠女が甲高い声で嗤う。嗤う。嗤う。嗤い続ける――。


「さっさと死ねよ、化け物」


 挑発と侮蔑を込めた言葉で、あの子を攻撃する。あの子は、痛い、痛い、やめて、やめて、と、壊れたレコードのように、同じ単語を連呼した。


「さっさと逝け、気持ち悪い」


 栗鼠女が、落ちていた角材であの子の頭を殴打した。付着していた粘液が周囲に飛び散り、異様な臭いが、僕にとっては懐かしい香りが、より一層薄暗い部屋に充満した。


 栗鼠女は上半身を剥き出しにして、あの子を打っている。まるで原始人が狩りを行っているような姿だ。汚らわしく、下等だ。こんな存在に、あの子が傷つけられて良いはずがない。この世界にたった一つの、愛しい宝玉を破壊されてなるものか。


「やめろ」


 聞こえていないのか、栗鼠女は攻撃を止めない。彼女の体が(いびつ)な形に歪み、ああ、と苦しそうに呻く、呻く、呻く――。燃え盛るような怒りが体を蹂躙し、抑えようのない衝動と化していくようだ。


「やめろ」


 痛々しいその光景に耐えられず、声を少し大きくする。聞こえていない。栗鼠女は暴力行為に夢中となり、外部の情報を全て遮断しているように、無心であの子を硬質な棒で殴り続け、たまに蹴る。

汗が噴き出して、シャツと肌を密着させる。気持ち悪い。


「やめろ」


 僕も、角材を手に取る。真っ赤な憤怒(ふんぬ)だけが僕を突き動かす。あの愚劣な女を滅多打ちにして殺し、その形すら留めてやるなと、悪魔が囁く。殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ、この世から消し去ってしまえ――。


 とんとん、と、栗鼠女の肩を叩く。醜い女がこちらを振り返る。栗鼠女は、サディスティックな行為に魅了された、恍惚(こうこつ)の表情だった。僕は黙って、口づけをした。栗鼠女の手から、角材が落ちた。唇を離すと、生温い吐息が吹きかけられた。臭くて堪らない。


 そして体を離し――。


 僕は、思い切り歯を食いしばって、両手に握り締めた角材を栗鼠女の憎たらしい顔面目がけて、水平に振り抜いた。鈍い、何かが潰れた音がした。女が粘液の池に倒れ伏した。何が起こったか理解していないようだ。潰れた鼻を必死に直そうとしながらも、命の危険を感じているのか、後ずさりを始めた。まだだ。まだ足りない。あの子を侮辱した罪は、こんな軽いものではない。


 無言で栗鼠女に近づき、高く角材を振り上げ――。


「ヒッ」


 栗鼠女が最後に、しゃっくりと聞き違えてしまいそうな、短い悲鳴をあげた。


 角材で、女の顔をさらに強く打つ。骨格が大きく歪んだ。必死に、手で僕を制止しようとしている。無視だ。もう一度、次は額を押し潰す。粘液が女の口に入りこみ、咽返っている。しかし、高い粘度の為か中々吐き出されない。吐こうとすればするほど咽喉に入り込み、体を蝕んでいるようだった。良い気味だ。これは、あの子の恨みと、僕の怒りが織りなす復讐なのだ。


 栗鼠女が苦しそうに喘ぐ。あ、あ、と、血と涙に塗れた丸く、黒い眸で僕を見やる。その姿を見ていると、堪らなく興奮する。陰茎が破裂しそうなくらいに膨れあがり、僅かに痛みがある。


 まだ女は生きている。生物の持つ、生への執着とは、こんなにも神秘的で、惨く、汚らしいものなのか。目の前で溶けている彼女も、生きたいのだろう。それなのに、あいつはその意志を踏み(にじ)った。許されることではない。そしてこの女は、執念を手折(たお)る発言をした。殺してやる。こいつは、この世から消えてなくなるべき人間だ。


 殺せ、殺せ、殺せ、殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ、消し去ってしまえ――。


 どれくらいの時間、栗鼠女を潰し続けただろうか。我に帰った時には、体はもはや原型を留めていなかった。ふくよかな胸は潰れて裂け、あらゆる部位から臓器やら骨が飛び出していた。腹からは腸がだらりと飛び出し、栗鼠女はそれを抱くようにして息絶えていた。どれだけ凄惨(せいさん)な状態だったか、筆舌に尽くし難い。だが、僕は今まで感じたことがないくらいに爽快な気分で、頭は冴えていた。


 死骸を蹴り飛ばし、あの子の障害を取り除く。


「ねえ、君は僕を覚えているかい? 小学生の時の、気持ち悪いって虐められていた子が僕だよ」


 この問いは必要不可欠なものだった。もう、あれから数年以上の時が経過している。僕が彼女を認知できても、彼女が僕を認知できるという保証はどこにもないのだ。


 あの子は一瞬驚いたような顔になり、そして言葉を紡いだ。


「……嘘でしょ? 信じられない」


 あの頃と寸分違わぬ、懐かしい声だ。


「でも、面影があるね。ほら、その離れた目。本当に君なんだね。凄いなあ。大人になって――」


 と、そこであの子の顔が苦痛に歪んだ。僕はすかさず彼女のもとへ向かい、大丈夫かと尋ねた。


「痛いよね。ごめんね、僕の所為だ。髪の毛を千切ったこと、怒ってない? 僕の所為でこんなことになっちゃって。僕、君のことが心配で仕方がなかったんだ。今まで見つけてあげられなくて、ごめんね。寂しかったろう、苦しかったろう」


 とろとろとした、粘っこい液体を体に絡ませて彼女を起こし、頭を撫でてやる。すると彼女は頭を上下させた。そして小さく「大好き」と言ってくれた。愛おしい。じっと顔を見つめるが、(ただ)れた顔からは以前の面影が感じられない。


「こんな姿でも、会えて良かった」


 頬は赤くなっていないが、きっと照れている。


 見れば見る程、彼女は変わり果ててしまっている。もっと早く、僕が駆けつけていれば、こんな結果にはならなかったかもしれない。罪悪感に駆られ、死にたくなる。しかしここで死んでしまっては、今まで死ぬことのなかった彼女に対して申し訳が立たない。死ぬならば、あいつを殺してからだ。


 ――その前に。


「ねえ、これを覚えているかい?」


 ポケットの中から彼女の白い花飾りを取り出し、目の前に示す。この髪飾りは、彼女がいなくなってからずっと、いずれ再会を果たす時を信じて肌身離さず持っていた。それを見た彼女は、懐かしそうな顔をして、二度、三度と頷いた。


「ごめんね。これ、ずっと返そうと思ってたんだけど、君が見つからなかったから。これ、大切な物なんだよね」


 崩れ落ちている頭に花飾りを着けてやると、にっこり微笑んだ。笑顔は酷く歪んでいたが、可愛らしい。再会を果たし、髪飾りを返せたことは喜ばしいことこの上ないが、やはりこんな姿になってしまっているのには心が痛む。早く見つけてやり、葬儀を行うべきだったのだ。そうすれば、こんなところで寂しく生き続けることなんてなかっただろう。僕は、私欲の為に真相を話さなかった。それがこんな悲惨な結果を招いてしまった。


「何で君はこうなっているんだい?」


 暫く彼女は悩み、時折苦しそうに顔を歪ませ、口を開いた。


「きっとだけど、もっと、生きていたいと願ったから。私、やり残したことがいっぱいある。そうやって強く願ったら、死ななかった。でも、体は動いてくれなかったし、痛みも苦しみもあった。それどころか、どんどん体が腐っていくんだもの。困ったものよ。やっぱり、神様なんていないね。中途半端だわ。でも、君があの時喧嘩をしていなければ、生きていたんだよね。どうして、あの時素直に喧嘩をやめてくれなかったの? 何で喧嘩をしていたの?」


 鋭利な刃物で心臓を(えぐ)られたかのような鋭い痛みがはしる。


 その通りだ。彼女の言う通りにしていれば、死なずに済んだ。それに、僕も罪悪感に駆られることはなかった。一人で抱えるには大きすぎる負を負うことはなかったのだ。


「君を奪われたくなかった」


 まさか、このような場で愛の告白をするとは思っていなかった。


「どういうこと?」


 白濁した真珠のような目を見開き、問うた。


「僕は、昔から君が大好きなんだ。もちろん、今も。あの時あいつは、君に告白して恋人にするって言ってた。僕には、君があいつの恋人になるなんて、そんなの耐えられなかったんだ。それに、仮に君があいつの告白を断れば、今度は君が虐めの対象になる可能性があった。君が僕と同じような目に遭うなんて、我慢ならない。だからその根源を取り除いてやろうと思ったんだ。――だけど、こんな結果になったのなら無意味だよね」


「私の為だったんだ」


「うん。でも、僕は君を殺すつもりなんてなかったし、死を忘れたこともない。これだけは信じてほしいんだ」


「信じるよ。私も君が大好きだから。でもあいつは、私を忘れようとしていたみたいね。真実を忘れたかったんだと思う。あいつ、さっきここに来て女の子と性行為をして、私を殴ってから帰っていったわ。それから来た奴らも、同じことをして帰った。あいつ、私をここに置いてからも何度か様子を見に来ていたわ。だけど、一度たりとも治療しようとはしなかった。それどころか、殺そうとしたわ。私が怖かったんだろうね。でも、私は死ななかったけどね」


 そこで言葉を切り、悲しげな眼をして続ける。


「君は怖くない?」


 愚問だ。


「怖くない」


 即答した。あいつとは、想いの質が違う。


「嬉しいなあ。君を好きで本当に良かった」


 苦しいはずなのに、そんなことはおくびにも出さずに笑む。彼女はあれだけ苦しそう呻いていたのに、話しかけてからというもの一度も呻き声をあげない。僕に心配をかけまいとする配慮だろう。こんなに気遣いのある女性を、好きになって本当に良かった。その女性の為に、僕は地獄の業火に焼かれることに匹敵するような、凄惨で、激しく、焼け爛れていくような苦痛の伴う復讐を果たさなければならない。


「ねえ、君は誰が憎い?」


「あいつしかいない。君には必死に私を探してくれたのに、あまり動けないことを良いことにあいつは殺そうとしたわ。今私がしたいことは二つ。あいつに復讐することと、君と一緒に過ごすこと。でも、前者はこんな体じゃ不可能ね。人に見られたら終わりだわ」


「僕も、あいつが憎いよ。だから、君の願いを叶えてあげる」


 指の隙間から、粘液が零れ落ちる。


 ――と、突然、彼女を支えていた右腕が痛み始めた。初めはどこかを(ひね)ったのだろうと考えたが、どうもおかしい。腕が直接鉄板で焼かれているかのように、熱いのだ。彼女を支えたまま腕の状態を確認すると、皮膚が、少し溶けていた。少しずつ、少しずつ、表面から焼けて、溶けているではないか。


「君は、ずっとこんな痛みに耐えてきたんだね。可哀そうに」


 この痛みは、彼女の痛みだ。僕は今、彼女と痛みを共有している。そしてこれは、僕自身への戒めだ。この痛みを彼女と同じ年数だけ味わい続けて初めて、彼女を殺した罪と、事件の真相を黙っていた罪が償われ、あいつへ復讐する資格を得るというものだろう。きっと、それ以外の方法で罪業を消すことなんてできない。


「絶対に、あいつへ復讐してやる。君と同じ苦しみを、必ず与えてあげる。だけど、今はその資格を有していない。暫くの間、僕は君と同じ苦しみを味わう。それから、きっと復讐を遂げてみせる。それまで、死んでは駄目だ。分かったね」


 そう言うと、彼女は小さく笑った。可愛らしかった。


 こんな誰も来ず、日の光さえも当たらないような場所に閉じ込め、その姿を晒しものにして、彼女の存在を忘れていないのに(いた)みもせず、話の種として弄んだあいつに、必ず同じ苦しみを味わわせた上で殺してやる。もはや、誰が彼女を殺したかなどということは瑣末な問題でしかない。僕とあいつが殺した。これで良い。


 ――この世にあらん限りの苦しみをあいつに。


 そう誓い、あの子をずっと抱きしめ続けた。


 僕はそれ以来、大学へは行かなくなった。正確に言うならば、行けなかったのだ。継続的に鋭い痛みが走り、とてもではないが通常の生活が送れるとは思えない。痛みこそあるものの、進学か就職かという選択を迫られることもなくなり、あらゆる柵から解放されて清々しい気持ちだったし、何より自分の成すべきことが明確となったことが嬉しかった。あいつへの復讐は、僕にしかできないことだ。


 これから苦痛が数年も続くのかと思うと、清々しい気持ちとは対極的に陰鬱で厭な気持ちにもなったが、ひたすらに焼けつくような激しい痛みに耐え、彼女と共に、廃屋で償いの時を待った。あまりの痛みに外出することすらままならず、食糧の調達もできなかった。しかし、それで困ることはなかった。腹が減らないのだ。何も食さなくとも、死ぬことはなかった。これも、全ては強い願望の為せる技なのだろうか。人体とは、本当に不思議だ。


 それより不思議なことは、あいつがあれから廃屋を訪れなかったことだ。栗鼠女と僕の二人ともが消えているのだ。様子を見に来てもおかしくない。しかし、何の気まぐれか、あいつは現れなかった。全く理解できない。だが、来客はあった。


 無限に感じる時を、彼女と過ごした。幸せだった。彼女が傍にいるだけで、他に何もいらなかった。幸福に満たされていたが、復讐を忘れることは片時もなかった。いつか来るその時を、僕はただ、黙って待ち続けた。


 そして、待ち焦がれ続けた時が来たのだ。


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