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最良の一日  作者: 要徹
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 あの日から一週間後の十九時過ぎに、僕は数年ぶりにI駅のホームに降り立った。相変わらず人が多く、下車した時には、一面が帰路を辿る人たちと熱気で覆われていた。


 料金分の切符を改札に通し、駅からショッピングセンターへ繋がる歩道橋を渡って、そこからさらに階段を下って、親が夕食を用意しなかった時によく通った、定食屋の前へ出た。本当にこの町は何も変わっていない。あの子がいなくなった時から、ずっと。この代わり映えのなさを思うと、どこからともなく、無邪気な笑い声をあげながら彼女が現れるのではないかと、そんな妄想を抱いてしまう。


 小学生の時から大して賑わいを見せていない商店街は、今ではほとんどがシャッターを下ろしていて、閑散としていた。赤錆の浮いたシャッターが、どことなく、商店街を不気味なものにしている。薄暗さも相まって、化け物でも物陰から飛び出してくるのではないかと思ってしまう。


 商店街を抜け、まずはそこから暫く行った所にある図書館を目指す。その図書館は思い出深く、あの子と一緒に勉強をしたことがある場所だ。と言っても、それは授業であり、あの子は隣にいただけだ。僕は授業時間の四十五分全て、彼女を見つめることだけに割いた。幸せだった。


 そういえば、と思い出を引き出しから引っ張り出す。


 あの子と初めて言葉を交わしたのも図書館だったか。鉛筆を拾ってもらった。たったそれだけのことで醜い僕に話しかけてくれた。勝手な想像だが、きっとあの子も話しかけるタイミングを探していたのだと思う。


 それ以前は僕自身の勝手な断定と妄想で、あの子は他のクラスメイトたちと同じく敵だった。しかしそれ以降、あの子は僕にとって特別な存在になった。図書館にいたその時は二言三言交わすだけであったが、それからもあの子は積極的に話しかけてくれた。僕は恥ずかしさと興奮のあまりほとんど言葉を発しなかったので、大概はあの子が自分自身のことを語っていた。自分に親はいないこと、髪飾りをプレゼントしてもらったこと、一日の大半を勉強に費やしていること、そして将来は孤児を保護する施設を展開したいということ――。あの子は、様々な事柄を話して聞かせてくれた。あいつが途中で邪魔をしてくるので決して長い時間ではなかったが、僕はその時間に堪らない愉悦を覚えた。


 今でこそそうでもないが、はっきり言って、僕の容姿は最低だ。腫れぼったい目に、濁った(ひとみ)雀斑(そばかす)だらけの肌に丸い豚のような鼻が乗っている。髪を整えたことなんて一度たりともなかったし、風呂に入っているはずなのに異臭がした。今思えば、十分虐められるに値する人間だったのだ。それなのに、あの子は何の隔たりも感じさせることなく、明るく話しかけ、幾度となくあいつから救ってくれた。あの子は、僕にとって希望そのものだった。その希望がまさか絶たれてしまうなんて、思いもしなかった。まるで太陽が何の前触れもなく消え去ったような気がした。


 あの子が消えてからの生活は、不思議と何の苦もなかった。あいつは今までの暴力行為がなかったように接してきたし、クラスメイトもそれに従ってか作り物の関係を構築しだした。あの子の行方不明で激務に追われていた担任は一つ肩の荷が降りて、ほっとしている様子だった。しかし、そんなものは表面的なものでしかなく、ただ単にあいつは僕の機嫌を損ねたくなかっただけだ。介護のような優しさに、毎日のように吐き気を催した。


 思い出に浸りながら図書館前を横切る時、多くの子供たちがわいわいと騒ぎながら、そこから出て行く姿が見えた。閉館時間がもう(じき)だからだろう。自然と、僕は無意識に子供の集団からあの子の姿を探した。もちろん、見つかるはずがない。


 図書館の裏にある細い通りを抜けて行くと、目の前に母校であるH小学校が見えた。懐かしい。腹の底から煮え(たぎ)るような憎悪と、凍てつく悲哀、胸の躍る気持ちが同時に湧き起こる。


 小学校の正門前で、ふと足を止める。薄闇に包まれた校舎の窓に、白い影が映った。彼女の霊かと思ったのだが、白い影の正体は、小学校のずっと向かいにあるアパートから漏れ出す光が、校舎の窓に反射しただけのものだった。


 小さく溜め息をつき、校舎の裏側へ回る。そこが、あいつの指定した廃屋群だ。そこは昔から立ち入りが禁止されており、工事用のフェンスが何重にも重ねられ、それらは鎖でしっかりと固定されている。大人連中はそれで完全に封鎖したと思っているのだろうが、それでも、抜け道は存在した。この小学校に通っている子供しか存在を知らないと断言できる。あいつらは、放課後になると決まってそこで遊んでいた。僕は、一度もそこへ入ったことがない。だが、抜け道の存在だけは知っている。


 ちかちかと明滅を繰り返す街灯の下で、三人の男と、四人の女が談笑していた。どうやら、僕が最後だったらしい。


「よう、よく来たな。今日は良いものが見られるぜ」


 ――良いもの? 一体何の話だ。


 暗くてよく見えないが、きっと顔はいやらしく笑んでいることだろう。その隣で、栗鼠女が白い歯を瑞々(みずみず)しい唇の隙間から覗かせて笑っている。


 今日、あの子を犯すのかもしれない。そう考えると、また勃起した。抑えられない衝動。だが、抑えなければならない。理性が本能に勝つよう、仕向けなければならないのだ。


「それじゃあ、俺主催の肝試しを始めたいと思いまあす!」


 甲高い声であいつが言うと、皆が一様に拍手をし始めた。僕は、黙って栗鼠女を見つめる。丸い黒い眸が街灯に照らされて、ぬらぬらと輝いて見えた。


「何と、昔からここにはお化けが出るという噂があります。そのお化けの恐ろしいこと」


 あいつの取り巻き二人が、うんうんと頷く。そんな噂、一度たりとも聞いたことがない。単に僕が知らないだけで、僕以外の人間は皆知っていたのかもしれない。そう考えると、堪らなく虚しい。


「どんなお化けなんですかあ?」


 長髪の男が、あいつに問う。


「良い質問だ」あいつは咳払いを一つして「ここのお化けは、生前の恨みがとても強く、今でも生きているかのように実体を持って彷徨(さまよ)っている。そして、痛い、痛い、と言いながら、ずぅっと恨み続けている。自分を殺した相手を。そして、そいつに見つかったら最後。怨念で殺されてしまうのさ」


 きゃあ、と女連中が不愉快な声で叫ぶ。栗鼠女は、最初に見た時と変わらぬ明るい表情で、あいつの話に聞き入っている。


「ルールはどうなっているの?」


 栗鼠女が問うた。


「廃屋群のどこかにある目印見つければ、それでオーケーだ。別に持ち帰らなくても良い。それと、鍵が壊されている廃屋以外には近寄らないこと。それ以外のルールは何もない。時間制限はないけど、後が(つか)えるから、早めにしてくれ」


 目的の物を見つけても、持ち帰らなくても良いとは、どういうことだろう。


「廃屋へ入って行く順番は?」


 角張った顔の男が、くぐもった声で訊いた。


「順番ね。まず、俺とこいつのペア、そして角張男と赤毛の君、次は長髪のお前と金髪の君。最後は、気持ち悪い奴と、麗しい姫君だ。これは勝手にこちらで決めさせてもらったけど、異論はないよな」


 ありませーん。皆が口を揃えて言った。


「じゃあ、早速開始するとしましょうか。ああ、ぞくぞくする。おっと、最後に一つ。今日がお前らにとって最良の一日となりますよように」


 あいつは無意味に思える言葉を吐くとペアの女と手を繋ぎ、そこから少し離れた所にある抜け道から中へ入っていった。それから間もなく、女の甲高い叫び声が上がり、いやらしい笑い声がした。どうやら、存分にお楽しみのようだ。


 あいつのペア以外の男女は、そこらでキスをし始めた。そんな中で、僕と栗鼠女は、黙って夜空を眺めていた。少し赤みのかかった月が、地上に惜しげもなく光を降り注がせている。このような見返りを求めない月は、あの子にそっくりだ。そうか、もしかしたら、あの子は死んで、輝かしい月の一部になったのかもしれない。そう考えると、何だか救われる気がした。あの子も、そして僕も。


 結構な時間が経過した。月は徐々に登っていき、薄闇がかっていただけの空間は、すっかり闇に飲み込まれてしまった。一体、あいつらはどこで、何をしているのか。あまりに時間をかけ過ぎではないか。


 僕の記憶が正しければ――学校内部から敷地内は見渡せた――この廃屋群は四棟の廃屋で構成されている。敷地内は雑草だらけで、歩くのにも苦労しそうだが、それでも廃屋を巡るのに大した時間はかからない。さらに、あいつは「鍵が壊されている廃屋以外は入らないこと」と、そう言った。だとすれば、最低でも一つは鍵が壊されていない場所があるはずだ。ならば、回るべき廃屋は最低三棟ということになる。たったそれだけの廃屋を回るのに、これだけ時間がかかるものだろうか。


 様々な憶測が、頭の中を駈けずり回る。あいつらが、誰かに襲われて帰って来られないという線。次に、あいつらが未だに目的の物を手に入れられていないという線。可能性が低いが、敷地内で迷子になっている線。最後に――。


 と、丁度それを考えようとしていた時、あいつのペアは帰ってきた。気の所為か、あいつは少しやつれ、女の方は肌がつやつやとしていて、機嫌が良い。


 やはり。と僕は思った。あいつらは、廃屋の中で性行為に勤しんでいたのだ。そう考えれば、時間がかかることにも頷ける。この企画は肝試しの名を借りた、淫行を行う為の企画だ。たまには青姦としゃれこもう、というような考えだ。恐らく、ここに僕らを置いておくのは見張りの為だろう。そういえば、あいつは「しっかり廃屋にはゴムを置いておく」と、そう言った。そうだ。あいつは、何も僕の為にこの舞台を設定したわけではない。自分たちも使うから、お前にも使わせてやると、そういう話だったのだ。


 あいつらが去った後、角張男と赤毛の女のペアが、抜け道を通って敷地内へ入って行った。そして、あいつらのペアと同じくらいの時間を使って、じっくり性交を楽しんだ後、二人とも上機嫌で出てきた。街灯に照らされて、てらてらと汗が輝いているのが視認できた。そして、長髪の男と、金髪の女も、同じことをした。たっぷりと楽しんだようだった。肝試しの要素がどこにあったのか知らないが、皆が口々に、怖かった、気持ち悪かったと言っていた。性交以外に、何かあったというのか。


 そして、とうとう僕らの番が回ってきた。他のペアは、既にどこかへ行ってしまった。


「じゃあ、行こっか」


 栗鼠女はそう言うと、懐中電灯を手に持ち、強引に僕の手を引っ張った。女の柔らかい手を握り、あいつらと同じく抜け道を通って敷地内へ入った。


 敷地内へ入ると、青臭い匂いが僕らを包み込んだ。嫌いな匂いではない。僕と栗鼠女は、背丈ほどに伸びた雑草を掻き分けながら進んで行った。途中、何かの枝に腕をかかれた。


「大丈夫?」


「大丈夫」


 ぶっきらぼうに答える。


「ちょっと待ってね」


 栗鼠女はそう言うと、己の唇を僕の腕に押し付け、血液を吸いだした。柔らかな唇が腕に吸盤のように吸いつき、気持ち良い。暫くの間そうして、バックから絆創膏を取り出して、貼ってくれた。


 その仕草があまりにも可愛らしく、理性は吹き飛ぶ寸前だった。このまま押し倒しても、罰は当たらないのではないか。そんな思いが、体を蹂躙(じゅうりん)していく。しかし、そんな汚れた思いを栗鼠女は悟ったのか、僕の唇に人差し指を当て、


「ちゃんと、目的の物を手に入れてからね」


 と、優しく、包み込むような声で言った。この時ばかりは、栗鼠女の判断に感謝せねばならなかった。あのまま抑える者がいなければ、きっと本能に負けていた。


 一つ目の廃屋が見えてきた。鍵は壊されている。平屋のようだが、壁に貼り付けられている板のいたるところが風雨に晒されて、腐り、破れ、どす黒く変色している。


「まずはここからだね」


 栗鼠女が、無邪気な笑みを浮かべる。ちっとも怖がっていないようだ。僕はというと、淡い月灯り照らされた廃屋と、じぃぃぃぃぃ、と()く虫の声、そして草の鳴る音に怯えていた。何故か、心臓が異様に高鳴っている。しかし、立ち止まっている暇はない。


 錆びたドアノブに手をかける。かさかさとしていて、ひんやりとした感触が伝わる。ノブを回し、扉を開く。木材の軋む音が、闇に響いた。


 中は、当然のように真っ暗だった。栗鼠女が懐中電灯の光で闇を切裂く。おぼろげに、内部が見渡せる。手前に一間、そして奥に一間。どちらも和室だ。転倒した箪笥(たんす)からぼろ布が出ていて、畳はずたずたに引き裂かれている。天井には大きな蜘蛛の巣がかかり、蜘蛛が獲物を貪っていた。簡単に見た感じでは、ここに目的の物があるとは思えない。


 ふと、光の先に黒く光るものが目に付いた。あれは――ビデオカメラか。やはり、あいつは性交を撮影する気でいるのだ。しかも、それは天井の隅に設置されていて、取り外すこともできなさそうだ。手前の部屋は物が散乱していて、とてもではないが使えない。それに比べて、奥の一間はまるで最近手を触れたように片付いている。明らかに、そこでやれと、そういうことだ。


 ここに目的の物はない。ならば、ここへ留まる理由はない。


「ないみたいだね。次行こうか」


 栗鼠女もそれに気づいたらしく、次の廃屋へ向かおうと促した。黙って、それに従う。


 次に向かった廃屋も、さっきのそれと何ら変わりはなかった。ただ、そこは、さっきよりももっと荒れていた。そこで愛し合うなど、考えられない。目的の物も、見つからなかった。あったのは、前の廃屋と同じような場所に設置された、赤いランプの点灯するビデオカメラだけだった。それは隠すように置かれていたが、すぐに発見できた。


 待ち時間で考えたように、一つだけ鍵が壊されていない廃屋があるのならば、消去法で次の場所に目的の物があるということになる。やっと、この性欲の地獄から開放される。


 三つ目の廃屋は、まだ他の二つと比べて幾分か綺麗に見えた。しかし、所々が黒く変色して、やはり部分的に板が破れている。その屋根の向こうに、恐らく鍵が壊されていないだろう二階建ての廃屋が頭を覗かせている。あれが、鍵の掛けられた廃屋だろうか。屋根の少し右側に月があり、何とも幻想的な雰囲気を醸している。僕は何故か、その廃屋を見ていると胸が躍るようだった。幼い頃特有の冒険心というのだろうか。不安と期待が入り混じり、行け、と、行くな、が交互に頭に浮かぶ。もし、目の前の廃屋に目的の物がなければ必然的に入ることになるのだから、今は気に留める必要はない。だが、それにしてもこの気持ちの高揚は何なのだろうか。分からない。廃屋を見ていると、どうしようもなく心臓は高鳴る。


「ここにあるのかな」


 彼女は小悪魔のような微笑を浮かべ、自ら率先して中へ入って行った。僕も、慌てて後を追う。


 僕を無視して、どんどんと彼女は奥へ入って行く。まるで、早くしよう、そう無言で言っているかのようだ。不安定な板張りの玄関を抜け、畳の上を這っているゴキブリを踏み潰して先へ進んでいくと、栗鼠女が懐中電灯をこちらに向け、にんまりと笑っていた。閃光のあまりの眩さに、目を(つむ)る。


「ほら、あったよ。きっとこれだよ、目的の物」


 薄眼を開けて彼女の手元を見ると、手には封の切られていないコンドームがあった。これが目的の物とは、下品なあいつの考えそうなことだった。その場で使用するのだから、持ち帰らなくても良いと言ったのだ。それにしても、ここまで何も怖いところなんてなかったし、ましてや気持ちの悪いことなんて何一つなかった。あいつらの言っていたものは、何だったのだろうか。ただ単に、性交をしていないということを証明したかっただけなのか。


 栗鼠女が懐中電灯のスイッチを切る。途端に、部屋の中は薄闇に包まれた。衣擦れの音が聞こえる。彼女が、服を脱いでいる。薄眼で、彼女を見やる。張りのある乳房が、淡い光を纏い、薄く光っている。


 ――駄目だ。負けては駄目だ。


 必死になりながら本能に逆らおうとしたが、誘蛾灯(ゆうがとう)に誘われる虫のように、月灯りを頼りにして、彼女の元へと体は向かう。前へ立つ。両方の乳房を、両手で鷲掴みにする。小さな喘ぎが聞こえる。適当に揉みしだいた後、ぴんと立った乳首を夢中になって吸った。それから彼女の唇を唇で塞ぎ、激しく舌を絡ませ合って、互いの唾液を交換した。


 何か、光った気がする。蜘蛛の巣が絡み合う天を仰ぐ。すると、天井の隅に、さっきまでの物とは明らかに違う、小型のカメラが巧妙に隠され、設置されていることに気づいた。


「どうしたの?」


 微かに顔を紅潮させているのが解る。


「できない」


 ここで、行為に及ぶわけにはいかない。


「行こう」


 え、と、戸惑いを包含した声が聞こえたが、強引に彼女の手を引っ張って、そこを出た。途中、何匹もの虫を踏み潰した気がする。懐中電灯もなしに突っ走って行き、二階建ての、一際大きい廃屋の前へ立った。背後から、荒い息遣いを感じることができる。


「ちょっと、どういうこと?」


 明らかに不機嫌な女の声。それもそうだろう。体に火をつけておいて、それを中断して勝手に走りだしたのだ。彼女にとっては、欲求不満も良いところだろう。


「あそこには、カメラがあった」


「あら、君でも見られてするのは嫌なんだね。でも、この廃屋は駄目でしょ? ほら、鍵がかかってる」


 確かに、そうだ。この二階建ての廃屋は、他の物と違ってしっかりと鍵がかけられている。だが、そんなものは壊してしまえば意味はない。手頃な大きさの石を手に取り、何度も鍵に打ちつけた。がち、がち、と、金属の高い音が響く。あまり大きな音を立てることは得策ではないが、それどころではない。どうしても、この廃屋の中が気になって仕方がないのだ。これこそが直感というのだろうか。いや、あいつの言った「今日は良いものが見られるぜ」という台詞が胸に引っかかっているのだ。ここに来るまで、これといって目立つものはなかった。見逃しているのかもしれないが、ここに『良いもの』がある可能性が高いと踏んだ。まるで悪魔に、中身を見なければ後悔する、ルールなんて無視してしまえと囁かれているようだった。もう、栗鼠女のことなんてどうでも良い。この廃屋の中が気になって仕方がない。


 石を打ちつけようとするが、暗くて上手く狙いが定まらない。


「ライターある?」


「どうぞ」


 バックの中から緑色のライターを取り出すと、それで鍵の周辺を照らしてくれた。僕は、そこで初めて栗鼠女が上半身裸であることに気づいた。豊かな乳房の所々に、赤い線が引かれている。さすがにこれは、申し訳ないことをした。


「ごめん」


「良いよ。それより早く壊しちゃって」


 何度も、何度も鍵を石で打ちつける。何か、心に影ができた気がする。無心で、打ち続ける。すると、そのうちに、南京錠がぽとりと草の上に落ちた。この鍵に、何か違和感を覚えた。何か、簡単に外れ過ぎやしないか――。


「行こうよ」


 ぐいと、彼女が手を引く。柔らかい。鍵なんて、どうでも良い。早く、早く――。


 扉を開くと、埃の匂いがその辺一帯に広がった。思わず咽返る。咳が止まらない。周囲を見回すと、何か違和感を覚える。何か、得体の知れない音も聞こえる。微かな腐臭がする。これは何だ。一体ここには何がある。


 ――やはり、何か、おかしい。


 彼女が手を引き、どんどん奥へ誘われていく。突然唇を奪われ、押し倒される。やはり、何かおかしい。何だ、この違和感は。生物のようにうねうねと動く舌を絡ませてくる。気持ち良い。変だ。何の音だ。ズボンの上から、股間を摩ってくる。この音じゃない。この廃屋は、あらゆるものがおかしい。何だ、この違和感は。


 ――そうだ。


「待ってくれ」


 違和感に耐えられなくなり、行為を中断させる。今思えば、この時行為を中断できて本当に良かったと思う。あの声がなければ、一時の性欲に負けて取り返しのつかない結果になるところだった。


「何でよ。ここにはカメラもないし、誰も来ない。安全、安心なのよ。もしかして、今になって萎えてきたとか言うんじゃないでしょうね。意気地なし」


「黙れ」


 静かに、彼女を威圧する。


「上から、何か聞こえないか?」


「冗談はやめて」


 女の額から、玉のような汗が落ちる。


「冗談じゃない。そもそも、この廃屋はおかしくなかったか」


「何がよ」


 栗鼠女が当惑したような顔で問う。


「何でここにだけ鍵がかかっていたんだ。他の廃屋には、一切なかったのに。しかも、ここにかかっていた鍵は比較的新しく見えたし、あんなに簡単に鍵が外れるのか? それに、さっき気づいたが、埃が溜まっていない部分がある。ということは、最近ここに誰かが侵入して、誰にも中へ入られない為に鍵をかけたと考えられる。いや、かけているように見せただけだ。つまりダミーだ。ここには普通誰も立ち入らないから、ダミーで十分だとその誰かが考えたんだろう」


 栗鼠女は言葉を失ったようだった。丸い二つの脂肪の塊を垂らしながら、茫然と聞き入っている。


「じゃあ、何があるって言うの」


「分からない」


 静寂に包まれた空間に、微かではあるが聞こえる。呻き声だ。それこそが、ここに入った時に感じた違和感の一つだった。夜風に乗って聞こえてくるそれは、耳に入るだけで全身が総毛立つようだ。背に大量の虫が這っているかのよう、ぞわぞわとした感覚がある。この声の主が、男か、女か分からない。そもそも、これが人間のものであるかどうかも、声であるかどうかも判然としない。


 やはり、この家には何かあるのだ――。


「行け」


 何者かに、そう命令された気がした。


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