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へらへらと笑いながら、あいつが僕の席に近寄ってきた。数年前から変わらず、不愉快な笑みを貫いている。
いい加減に死んでくれないものか。あくまで死ねば良いのにと思うだけに留まっているのは、あいつを殺す理由がないからだ。小学生の頃であれば、あの子の障害になるという理由で殺すことができた。しかし、今となってはあいつを消し去ることに意味はない。仮にあの子への弔いとなるならば、話は別だ。だが、単なる仇討や、私怨だけの殺人は無益だ。それにそもそも、あの子を殺したのは誰か、という点が未だに不明瞭だ。勝手な断定で殺人を犯すことは、愚の極みである。
「本当にお前は気持ち悪いな」
「黙れよ」
「まあそう言うな、いつもの冗談だ。今日はな、お前に耳寄りな話を持ってきたんだ。ちょっとくらいは聞く耳を持てよ」
あいつの話で、今まで碌でもないこと以外があっただろうか。あまりの馬鹿らしさに相手をする気にもなれず、黙々と目の前のレポートを片付けることに没頭した。それでも、あいつは言葉を覚えたインコのようにぺらぺらと話し続けた。
「小学生の頃は、虐めて悪かったって。もしかして、今でも根に持ってんのか? こんなに謝ってるのに、お前は許してくれないんだな。あんまり執念深いと、女に嫌われるぞ。昔から変わらずに暗いから、今になっても彼女ができないんだ。おい、聞いてるか」
ふざけているのが見え見えの態度で、頭を下げた。
――それにしても五月蠅い。
あいつの口にセメントを流し込んで、二度と声を発せないように、息すらできないようにしてやりたいと、何度願ったことだろうか。浅慮なことであると理解しているが、奴の声を聞いていると無性に苛々する。これはほんの一部の理由であり、苛々するのには、他の理由もある。その一つが就職か、それとも大学院への進学かという選択を迫られていることだった。どちらも拒絶したいところだが、そうはいかない。だからと言って、研究したくもないのに大学院へ進学する理由はないし、就職をするにしても勤めたいと思うような企業や職種もない。自分のすべきことは何なのかを考えるが、何一つ思い浮かばない。それこそが、今の僕を苛々させる一つの要因であった。
そして最も多くの原因を作っているのが、あいつが彼女の死を忘れているように思えることだ。もちろん、死んだと決まったわけではないし、あいつが忘れたという確証もない。しかし未だに、彼女の美しい、蝋人形のような小さな体は見つかっておらず、あれ以来あいつはあの子の話題を避けている。
もしかすれば、今でもあの子はどこかで苦痛に喘いでいるかもしれない。あれだけの出血だったのだ、生きているなんてことは天地が引っ繰り返れば有り得るが、常識的に考えれば有り得ない。彼女は、死んだのだ。僕は最近になって、やっとその現実を、そして負を負えるようになった。
あの時の事件は、本当は殺人事件なのだが行方不明事件として処理された。あいつらによって彼女の目撃情報は捏造され、警察の手は現場から遠ざかった。実際には、小学校の付近が事件現場となっているのに、警察は的外れな場所を捜索した。
僕は、それについて黙っていた。彼女を警察に発見されては、遺体が消えてしまっては困るのだ。あの子に、髪飾りを返せなくなってしまうし、ごめんの一言も言えずに終わってしまう。さらには、解剖をされる可能性も考えられる。あの子が解体されるなんて耐えられない。例え返す相手が死体であっても、直接彼女に返し、謝罪することに意味がある。それは棺桶の中であってはならないのだ。
僕はあの時から今まで、彼女のことを忘れた日はない。それどころか、紙のように薄っぺらく、髪のように細い日々を重ねるにつれて、愛しく想う気持ちは募る一方で、日に日に会いたくなった。いっそのこと、化けて出てくれた方が良いとさえ思う。同様にあいつらへの憎悪も比例して激しくなっていた。あの時、黙って死んでくれていれば良かったものを――。
あいつが彼女を隠した時から、ずっと探し続けた。しかし、どこを探しても見つからなかった。単純な場所には隠さないだろうと思い、少し離れた茂みの中や、運動場の隅に盛られた土の中を探してみたが、やはり発見には至らなかった。あいつを問い質しても、知らんふりをするだけだった。
最初は、教師たちによって駅前でビラが配られたり、マスコミに大きく取り上げられたりして世間で相当騒がれたようだったが、今ではそんな事件はなかったかのように平穏だ。それでも、親がいれば未だに騒ぎ立て続けるのだろうが、彼女に両親はいなかった。警察が捜査を打ち切ることに、誰も異議を申し立てることはなかった。それは、僕にとって好都合なことであった。これで、他人に発見される可能性はほぼゼロとなったのだ。心おきなく、ゆっくりと彼女を探し出すことができる。だが、未だに発見には至っていない。
「おい、聞いてるか。小学生時代からの縁じゃないか。ちょっとくらい聞けよ。男をあげるチャンスなんだぞ。気持ち悪いと言ったのは悪かった。な、許してくれよ」
二つ前の席から、耳を突くような甲高い声と、まるで喉に綿が詰まっているかのような低い声がする。
「そうだよ、縁だ。仲良くやろうぜ」
「縁は大事だ。手に入れたくても、なかなか難しいぜ」
縁、縁、縁。そんなもの、あってないようなものだ。
あいつら――死体を運んだ男と、血の池に砂を被せた男だ――は、あの事件以降から、事あるごとに僕に関わるようになっていた。中学までは校区の関係上、同じ学校に通うのは仕方なかったが、まさか高校、大学まで同じになるとは思ってもみなかった。わざわざ、あいつらの脳味噌が到底及ばないであろう難関校、それも、結構な距離のところにある高校と大学を受験したというのに。それなのに、あいつらはついてきた。というよりも、取り巻きの場合はついて来ざるを得なかったのだ。恐怖を刻まれた心は、脆弱なものだった。ここまでついてきた意地だけは評価せざるを得ない。
ここまでついてくる理由も、あの時とは打って変わって親しげな理由も、ずっと関わり合いになっている理由も解っている。彼女の死を誰にも話されたくないのだ。あいつの唯一の反抗因子であり、事件の目撃者である僕を常に自分の目の届く範囲に僕を置き、事件の話をさせないようにしている。全てを暴露されるという恐れがあるからか、小学生時代のように机を引っ繰り返したり、腹を蹴り上げたりするような真似は絶対にしてこない。
「なァ、おい。これはな、彼女ができるチャンスなんだ。研究室の女の子も参加するんだ。男一人に対して、女一人。時間は二〇時丁度。場所は、H小学校の裏にある廃屋群。覚えているだろ? そこで、その子らと何をしても構わない。ほら、憧れだったアレができるんだ。知ってるか。お前のこと、気になってる女がいるんだぜ。そいつとペアを組ませてやる。なあ、聞けよ。お前も、周りが男ばかりじゃ、人生灰色ってもんだろう? だからよ、人生に一点の朱を投じてやろうと言ってるんだ。どうだ、悪くない話だろう」
――灰色の人生に一点の朱を……か。珍しく、文学的な表現をするではないか。あいつは、小学生時代からは大きく変わったのだろう。きっとあいつは好意を抱いていた彼女の死を忘れ、多くの恋をして、能天気に生きてきたからこそこれだけの変化が現れたのだ。その点、僕は何の変化もない。容姿ばかりが老けていき、心の中はいつも少年で、あの時の空がそうだったように、延々と泣き続け、そしてこれからも泣き続けるだろう。
心の成長が望めなくとも、彼女の死を忘れる気は毛頭ない。それを忘れる時は、彼女への償いが終わった時だ。しかし、今の僕には償いの手段が思い浮かばない。例えば、自殺をしたとしよう。それで罪が償われたと思うのは、明らかな自己満足だ。理想とする贖罪は、彼女と同じ苦しみを味わうこと。それしかない。あいつを殺すことでさえ、償いには成り得ない。しかし、少しくらいは変わってみても良いかも知れない。
「良い。参加する」
そう返事すると、あいつらは揃っていやらしい笑い声を上げた。そして、無人島に取り残された人間を食おうとする鮫のように、周囲をくるくると回り始めた。また、僕を笑い者にする気なのか。だとすれば、許せない。
「お前も、やっぱりしたかったんだな」
あいつは、馴れ馴れしく一人一人に割り当てられている机に尻を乗せた。乗っていたシャープペンシルが、乾いた音をたてて、白く、ぬらぬらと光るリノリウムの床に落ちた。あいつは両方の口角を上げ、目を薄い三日月にして笑っている。
「何の話だ」
「研究室の女の誰かと、いや、あの茶髪の子としたくて仕方がなかったんだろ。おっと、解ってるって。しっかり廃屋にはゴムを置いておくから、持って来なくて良いぞ。着け方くらいは解るよな? ああ、それくらい知らないようじゃ、情けないよな。ん? 未経験なのに、どこで使う機会があったんだ」
腹立たしい物言いだ。しかし、あいつの言うことは大まかにだが正解だ。しかし、一つだけ事実と反する部分がある。僕はあの子と結ばれたかったのだ。あいつの口から飛び出した茶髪の女だけではなく、他の誰とも、一つになりたくない。確かに、性交をしたいという願望は抱いているが、彼女のあの美しい肢体を思い起こせば、そんなものは泡となり消えてしまう。生きてさえいれば、いずれ襲うつもりだった。犯罪になっても構わない。僕の性器が彼女の性器を貫く瞬間、きっと凄まじい快感がはしるに違いないと、確信していた。だが、今はもう叶わぬ夢である。しかし叶わぬと解った今でも、彼女の流線型の体躯を思い起こすと、どうしようもなく勃起する。僕は、ロリータコンプレックスなのかもしれない。
「な? したくて仕方ないだろ? できれば誰でも良いんだろ? お前だって男だもんな。一人前じゃねえか」
煽てるような口吻を弄し、粘っこい笑みを浮かべた。
「違う」
「嘘をつくなよ。もしかしてお前、まだあの子のことを考えてるのか? あの子としたいのか? もう、いい加減に忘れてしまえよ。あの子よりも、茶髪の子の方が可愛い。いや、比べることすら馬鹿らしいな。俺も今じゃあ、あんな女のどこが良かったんだと心から思うよ」
嘘じゃない。お前に何が解るというのか。僕を救ってくれていた神がどれだけ大きな存在であったか、下品なあいつには、その欠片でも理解できるはずがないのだ。いつもクラスの頂点にいて、周囲を支配していた奴と、角に溜まる埃同然の存在感しかない僕。どう考えても、同じ世界が見えていたはずがない。彼女がどういう人間であったか、その映り方も天と地ほどの差がある。
「嘘じゃない。それと、あの子を侮辱するな」
怒りを燃え盛らせて顔を真っ赤にしている僕とは対照的に、あいつはにやりと粘着質な笑みを浮かべ、全て承知しているという風な顔をした。そして後に、諭すように言った。
「男はな、誰でもしたいんだ。欲望に忠実になれよ」
「お前と一緒にするな。年中発情している分際で」
「じゃあお前は違うのか?」
あいつは挑戦的な口調で言った。
「違う」
「ほお」
まただ。また、あの嗤いだ。人を見下した、あの下卑た嗤い。その作り物の笑顔の裏に、どんな考えが渦巻いているのか、表面上では僕を誘いながら、いつ何時後頭部を石で打たれるか分かったものではない。奴にとって、僕の弱みを握ることは、人生を賭けてでも成し遂げたいことなのだろう。そうしてまでも、彼女の死を隠蔽したいのだ。
今までも、幾度となく嵌められそうになった。時には見知らぬ男らに囲まれて殺されそうになり、時には暴走した車に撥ねられそうになった。けれども、奇跡的に僕は死なずにいる。神様なんて存在は信じていないが、きっと僕には何らかの守護がある。もしかすればそれは、あの子なのかもしれない。怪我一つしなかったことは良いとして、これらは全てあいつの誘いに乗った時にだけ起こった。つまり、今回の肝試しも何か裏があると踏んで良いはずだ。廃屋に誰かを潜ませておくか、それとも、死角にビデオカメラを設置して、僕とどこかの女との性行為を撮影して、それを外部にばら撒くと脅すのか。どうしてもあいつは彼女の死を知る、自分に反抗的な存在を消し去りたいらしい。そんなことをせずとも、誰にも話しはしない。一度話せば、堰を切ったかのように、思い出が流れ出てくるだろう。それでは、僕の中から彼女がいなくなってしまう。
「丁度良い。じゃあ証明してみろよ。暗い廃屋で、女と二人きり。何の邪魔もない状態で、どれだけ本能を抑えていられるのか。言っとくが、お前のペアは相当な淫乱だぞ。何度か味見させてもらったが、最高の女だよ、あいつは。男なら誰でも良いし、その中でも童貞を好んで食うんだ。絶対にお前は襲われる。性病には感染してないから、安心しておあがりなさい」
くつくつと、あいつが嗤った。下品。
「良いさ。やってやる。本能に逆らうことは、お前と会話することよりも簡単だ」
「見ものだな。せいぜい頑張ってくれよ。時間は二〇時、場所はH小学校付近の廃屋群。これだけは忘れるなよ」
それだけ言うと、あいつは研究室から出て行った。それに続いて、過去に彼女を運んだ二人も去っていった。時計が時を刻む音と、冷房の音だけが室内を満たす。
冷静になってみると、あいつの挑発なんて受ける必要はなかったのだ。いや、受けるべきではなかったのだ。
一時の感情でむきになってしまった自分を恥じ、あの時の彼女にしたように毛を掴み、引き千切った。そのまま顔を伏せていると、研究室の扉が軋みながら開いた。生温い風が冷たい空気を裂き、肌を撫でた。
「あ、君、いたんだ」
扉の方を一瞥すると、肩まで伸びた、栗色をしている髪をさらりと風に靡かせ、少し濁って見える黒い眸をこちらに向ける、小動物のような――栗鼠みたいだ――女がいた。こいつが、あいつの言っていた女だ。何でも、僕に気があるとか。あいつの言う通りに気があるとすれば、さっさと首を吊って死ねば良いと思う。あの子以外は女ではないし、存在価値もない。だが、これはあくまで僕の主観だ。事実として栗鼠女はこの研究室のアイドルのような存在だ。あいつのように力で勝ち取った友ではなく、本当の友が彼女の周囲には掃いて捨てるほどいる。その人望だけは評価せねばなるまい。
「ああ」
生返事で応える。握っていた髪が床に散った。
「ね、ね。来週の肝試しの話、聞いた? 聞いたわよね。私の友達も皆乗り気でさ、今から楽しみだって言ってた」
栗鼠女は僕の背後に立ち、青白い腕を首に絡ませてきた。柔らかいが、決して温かくなく、死体のようだった。こいつは、本当に生きているのかと疑問に思う。ふと、死んだ彼女の体温を思い出した。温かった。柔らかかった。甘い香りがした。こんな女とは、比べ物にならない位に、女性だった。だが、この女にはその要素が何一つない。
「ああ」
「ああ、って。相変わらず素っ気ないわね。私たち、肝試しのペアらしいじゃない。私、楽しみだわ。君って、臆病そうだから、私が守ってあげるからね」
諧謔を弄したつもりだったのだろうか。何も面白くない。
「そりゃあどうも」
力強く栗鼠女の腕を払い除ける。僕の腕に、臭い香水の匂いがついてしまった。
さっさと寮に帰って、布団に包まっていたい。この女とずっと関わっていると、頭がどうかしてしまいそうだ。あの子の思い出がどんどん薄れて、穢れていくように感じる。
しかし、この女からは性的な魅力を異常に感じる。決して見た目は美人ではないのだが、割と整った顔立ちをしていて、胸も大きく突き出し張りがある。シャツとズボンの合間から見える、腰の周りについた程良い肉が性的興奮をそそる。だからといって、あの子の足元にも及ばないのだが――。
「なあに? 人の体をじろじろ見て。もしかして、したいの?」
「そんなわけない」
栗鼠女は言い分を無視して、人差し指を柔らかそうな唇に当て、
「今は駄目よ。肝試しの時なら、させてあげる。廃屋で美女が野獣に犯される……。何て面白い展開なのかしら。うふふ、私も、今から肝試しが楽しみになっちゃった」
と、自信と誘惑に満ちた声で言った。
今まで、この女をそうやって性的に意識したことはなかった。単に関心がなかったのだ。しかし、こうやってまじまじと見てみると、女性の体というのは形容し難い魅力を孕んでいる。思わず、一心不乱に襲いたくなってしまう。
「あら、飢えた狼の目をしているわ。やっぱりしたいの?」
女はシャツと一緒にブラジャーを捲り、ふっくらと膨らんだ胸を見せつけてきた。淡い桜色した乳首が姿を見せると、自然と呼吸が荒くなる。心臓が飛び跳ね、まるで生物のようにのた打ち回った。こんなこと、いつ以来だ。自分に問う。そうか、あの子と初めて言葉を交わした時以来の興奮だ。
「ちょっとだけ、好きにして良いよ」
その言葉に、理性は吹き飛んだ。桃色のそれに吸いつくと、赤ん坊に戻ったかのような錯覚に陥った。それから、力一杯に、強く、強く胸を揉みしだいた。少し弾力のあるスライムを触っているかのような感覚だ。本能に従って滅茶苦茶に揉み続けていたのだが、
「痛い。でも――」
と、頬を紅潮させて女が言った。でも、の後に続くだろう言葉は想像に易い。その表情と艶めかしい声に僕は興奮を抑えきれなくなり、彼女を床に押し倒して、その柔らかい唇を、かさかさに乾いた唇で塞いだ。女が、小さく喘いだ。手をズボンのボタンに持っていこうとした時、女がそれを制止した。
「待って。やっぱり続きは、来週、じゃあ駄目? ここじゃあ、いつ誰が来るか分からないもん。ね、来週にしよ」
こんな時でも、女は冷静なのか。静かに、もう一度キスをしてから、ぽんぽんと背中を叩いた。退けということだろう。僕が彼女の上から退くと、ぱたぱたと埃を叩き、微笑みかけた。
栗鼠女は「じゃあまた来週ね」と言い残し、鼻唄を歌いながら、きつい香水の香りを漂わせたまま去っていった。
「なんてことを――」
小さく唸り、深く後悔した。どうして、あんな動物の本能をむき出しにしてしまったのだろうか。これでは、あいつと変わらないではないか。それに、さっきあいつに言ったことと早々に矛盾している。僕は、何を考えているのだ。これでは、僕はあいつの傀儡か何かではないか。情けない気持ちと、あの子への罪悪感が入り混じり、凄まじい背徳を覚えた。
まさか、性欲というものがここまで強いとは考えたこともなかった。女性の胸を見ただけで、あそこまで理性が吹き飛ぶなんて。今までに自慰は何度も経験しているが、それは全てあの子を想いながらした。書店に置いてあるようなポルノ雑誌や、アダルトビデオを見たこともない。興味が一切なかったといえば嘘になるが、ただ、あの子の裸体を想像して自慰に耽るだけで十分に満足していた。よくよく考えてみれば、今までに母親以外の女性の裸体を見たことが、一度もなかったのだ。だから、予想だにしない勢いの性欲が顕在化したのだろう。
そんな瑣末なことを頭から追いやり、研究室の窓から外を見やると、さらさらと雲が流れていた。鋭い日差しが雲間から射し込み、大地を貫いている。
性欲に勝てるのか。いや、あの子の為にも、勝たねばならぬ。
あの子こそが全てだと、証明するのだ。
淡い光の射し込む研究室で、自分に問い、自答した。
僕の心とは対照的に、世界の一切が青かった。