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最良の一日  作者: 要徹
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 体育倉庫裏に行くと、既にあいつとその取り巻きである生徒二人――長髪の男と顔が角張った男だ――がそこにいた。あいつの手には木製のバットが握られており、背中には黒いランドセルを背負っている。下校時に運動場で野球でもして帰る予定だったのだろう。しかし、今あいつの手に握られているバットからは、そのような意図を感じ取ることはできない。そこから感じるのは、痛めつけてやる、というような破壊願望だけだった。


「逃げずによく来たな」


 いやらしく口角を上げ、バットを肩に乗せる。


「何の用?」


 久しぶりに、あの子以外の人間と言葉を交わしたような気がする。家に帰っても両親と会話することはないし、近所の人と関わりもない。僕の日常は、誰と口をきかなくとも成り立つようにできてしまっている。少し寂しい気もするが、あの子さえいてくれればそれで良かったのだ。両親も、近所の人も、友人も、何もいらない。


「もうお前が学校に来られないようにしてやろうと思ってな」


 予想通りだ。こんな人気のない場所に呼び出す理由なんて、これくらいしかない。この体育倉庫は運動場の隅、裏門の東側にあり、石の塀を越えれば廃屋が四棟ある。クラスメイトがその廃屋へ入って遊んでいたのを記憶している。付近には変質者が出るとかいう噂があり、近所の人間は誰も近づかないし、そもそもこのH小学校付近に住宅はない。つまり、この周辺に人が通りかかることは有り得ず、どれだけ僕が叫ぼうとも誰の耳にも入らないわけだ。ここは、無慈悲なリンチには最適だ。


「ふうん」


 ポケットに手を入れ、カッターナイフの刃を伸ばす。あいつらに聞こえてはいないだろうが、かたかたと刃の伸びていく音を確かに聞いた。あまり長く刃を伸ばせば折れてしまうし、短過ぎれば刃が届かない。その調整が難しかったが、ポケットの底に刃が届いたのを感じて、これで良いと確信した。あいつらが襲いかかってくれば、素早くこれを抜いて、切りつけてやれば良い。後始末は、その時考えれば良い。皆殺しにしてしまえば、目撃者は誰もいないのだ。問題はない。


「何で?」


 問う。


「何でだって? 邪魔だからに決まってるだろ。お前がいると、教室の空気が腐るんだ。それに触れた物には雑菌がべったりとくっつく。害なんだよ」


 害、というならばあいつの方が余程クラスの害だと思う。何せ、あいつは力でクラスを従えている独裁者だ。それはこの取り巻きたちも例外ではない。一度あいつに目をつけられれば、激しい暴力と陰湿な行動で己の人格を破壊されてしまう。実際転校に追いやられた生徒もいる。初めに見せしめとなったその生徒の所為で、今のような独裁体制が築かれてしまった。では、何故誰も団結してそれを崩そうとしないのかと僕は思うのだが、誰もあいつには逆らわない。仮に教師に訴えるなどして反逆を起こし、独裁体制を崩壊させたとしても、その後が恐ろしいのだ。報復としてどれだけの刃が己に向けられるのか、想像できないからこそ人を怯えさせ、自ら牙を折る。圧倒的な暴力は、反逆の精神を蝕んで崩壊させる。

 生徒がどうにかできないのならば親はどうしているのか、教師は何をしているのだと考えるだろう。簡単な話で、教師はあいつの親を心底怖がっている。理由こそ分からないが、きっとどこかの権力者か何かなのだろう。モンスターペアレントという表現が似つかわしい。


「それにな、あの子は俺のものだ」


 耳を疑った。あの子が、あいつのものだって? いや、それよりも、あいつはあの子を好いていたのか。初耳だ。あの子は、一体あの子はあいつをどう思っているんだ。まさか、両想いだということはあるまい。


「それで?」


 あくまで冷静に先を促す。


「お前がいると、あの子が汚れるんだ。お前と一緒の空気も吸わせたくないのに、声をかけられやがって。知ってるか? あの子は俺と付き合ってるんだって、クラスで噂になってるんだ。あの子は嫌がってるけど、あれは照れ隠しだ。そのうち、あの子は正式に俺の彼女になる。お前、声をかけられているからって、少しでもあの子が自分に気があるんじゃないかとでも思ってみろ。今すぐ頭を砕いてやる」


 そう言うと、あいつはバットで空を裂いた。


 なんだ、嫌がっているのか。ならばあの子にその気はなさそうだ。クラスの噂話は単なる噂であり、何の信憑性も持っていない。それを真に受けて告白しようとするあいつは、どれだけ間抜けなのか。


 ――しかし、これですっきりした。自分の好きな女を奪われると思ったからこそ、あいつは僕を目の敵にしていたのか。思い返せば、落とした鉛筆をあの子が拾ってくれたのが、僕があの子に好意を抱くようになったきっかけだ。元より僕は引っ込み思案で、それこそ今の状況から暴力行為が消えただけの学校生活を送っていたのだが、その時を境に暴力が加わった。特に誰の気に触れるようなことをした記憶はないし、誰とも話していないのだから恨みを買うこともない。それなのにどうして、と思っていたがこれで合点(がてん)がいった。あいつは、あの子が僕を好いているのではないかと危惧しているのだ。


「そういうわけで、お前には学校へ来てもらいたくないんだ。万に一つでも、あの子の気持ちがお前に移っちゃあ困る。災いの元は絶っておかないと」


 バットを僕に突きつける。


 災いの元は絶っておかないと、か。まさかあいつも僕と同じ思考をしていたとは、思いもしなかった。嫌な共通点だ。


 じりじりと砂を蹴り、近づいてくる。


 ポケットの中のカッターナイフを握り締める。いつ襲ってきても良い。臨戦態勢だ。しかし、相手が三人とは随分分が悪い。仮にあいつを切りつけることに成功したとしても、取り巻きが僕を取り押さえるだろう。それに、一撃で仕留めない限りあいつはいつか立ち上がり、反撃を加えるだろう。そうなればどうする。――いや、考えるだけ無駄だ。今は、あいつだけを殺せれば――一矢(いっし)報いれさえすれば、それで良いのだ。


 あいつがバットを振り上げ、飛びかかってくる。素早くカッターナイフを取り出し、切りかかろうとした。


 ――だが。カッターナイフと同じポケットにあの子の髪飾りを入れていた所為で、取り出した時にそれが砂の上に落ちてしまった。それに狼狽(ろうばい)した僕は、そちらに視線を移してしまった。一瞬の出来事だった。


 鈍い音がして、体からありとあらゆる力が抜け、砂上に倒れ伏した。筋肉が弛緩(しかん)し、透明な尿が大量に流れた。声も出なかった。息ができない。直接蹴られた時とは違う鈍痛に、体は支配されてしまった。


 どれだけ悲痛な声をあげようとも、追撃は止まない。取り巻きたちも加わって、さらに暴力を加えた。抵抗したい気持ちは山々だが、体が言うことを聞いてくれない。骨が叫び、肉が泣いている。徐々に、意識がぼんやりとしてくる。そんな時、あの子の白い花の髪飾りだけが視界にあった。この世のものとは思えぬほど、綺麗だった。


「やめなさいよ!」


 誰の声か、理解できなかった。しかし確かに聞き覚えがある。この麗しい声の主は、この広い世界で一人しかいない。――あの子だ。


「何でお前がこんなところにいるんだよ!」


 声が上擦っているのが分かる。


「教室から見えたのよ! もうやめなさい!」


 そうか。ここはあらゆる場所から死角だと思っていたが、唯一、クラスの教室から見ることができるのだった。きっとあの子は、保健室からランドセル等を取りに教室へ戻った際に、こちらに気づいたのだろう。しかし、どうして助けてくれる。僕は、とんでもないことをしてしまったのだ。それなのに、何故。


「お前には関係ないだろ! 退()いてろよ!」


 激しく言い立てるが、あの子は一歩も譲る気は毛頭ないらしく、いよいよ声を荒げて、僕にとっても、あいつにとっても衝撃的なことを口走った。


「関係ある! 私、この子が好きなんだもん!」


 時が止まったような気がした。痛みで体は動かせないが、耳は確かにあいつの荒い息遣いを聞いた。狼狽(うろた)えているのだ。本当のところ、僕もあの子の言葉に狼狽えていた。まさか、あの子と僕が両想いだったなんて、信じられない。


「う、嘘だ! そんなこと、信じられるわけがない!」


 同じ気持ちだ。


「本当よ」


 鋭い衝撃に貫かれたあいつの手から、バットが乾いた音をたてて落ちた。確かに、この目で弾む棒きれを見た。今しかチャンスはあるまい。僕と彼女の邪魔をするあいつを殺すのは、今しかない。


 痛みを抑えつけ、カッターナイフを拾い上げてあいつに切りかかる。あの子が短い悲鳴をあげた。

流石というべきか、あいつは僕の右手を素早く制した。僕の力と、あいつの力。その二つが(せめ)ぎ合い、どちらの手も動かない。外野の取り巻きがぎゃあぎゃあと騒いでいる。きっと取り巻きたちも、あいつが死ねば良いのに、と心から願っているのだ。僕に勝利させてくれと、神に祈っているのだ。だから、誰もあいつを助けようとしない。ざまあみろ。お前はここで死ね。


「ちょっと、やめてよ!」


 あの子が止めに入る。いくらあの子の頼みでも、ここでやめるわけにはいかない。間違いなく僕と彼女の障害になるあいつは、今ここで確実に消しておかなければならない。災いの元は絶っておかなければならないのだ。


「やめなさいって!」


 あの子の手があいつの手に触れた時、一瞬、相手の力が緩んだ。ぐいと力を込め、あいつの方へ腕と一緒に刃を滑らせる。しかし力が緩んだと思った次の瞬間には、また元の力が戻ってきてしまった。あいつは僕の右手を手前に引き、一撃をかわした。


 その時、柔らかいものに何かを刺し貫いたような感触があった。それと同時に、彼女の体がふっと視界から消えた。


 ――彼女は、どこへ消えた?


 視線を下へ落とすと、そこにはカッターナイフが首に突き刺さり、激しく全身を痙攣(けいれん)させている彼女がいた。首には紅の一文字が引かれていた。見たことのないくらいに綺麗で、真っ赤な血が、小さな池を作っている。激情がすうっと引いていくのを感じた。火照(ほて)った体が清冽(せいれつ)な湧水に浸かったような、心地良い冷たさを感じた。


「ア」


 それ以上の言葉が出ない。彼女が死んだ。正確に言えば、今、生きようと必死に藻掻いている。誰がやった? 僕か? 違う。あいつが邪魔をしたから、結果としてこんなことになってしまったのだ。僕は悪くない。


「ど、どうすんだよ、これ。気持ち悪い!」


 震える声で、あいつが言う。気持ち悪いという言葉に、(はらわた)が煮え繰り返るようだった。醜くなってしまえば、もう必要ないというのか。お前の彼女への想いは、所詮その程度だったというのか。僕は違う。こんな姿になっても、彼女が好きだ。あいつなんかに、あの子を愛する資格はない。


「お、お前の所為だぞ! こいつは、お前を好きだったんだ。お前が責任とれよ! 俺はあいつのことなんて好きじゃなかったんだ。だからお前の所為だ!」


 論理が破綻している。結局、あいつのあの子を想う気持ちは、その程度のものだったのだ。あまりにも安く、脆く、醜い。あの子が死ぬことによってあいつと結ばれることがなくなって、不謹慎ではあるが、心の隅で安堵した。


 あいつの目は泳ぎ、取り巻きたちは黙って色を失いつつある死体を見おろしている。どうやら、どうして良いか解らずに相当狼狽(ろうばい)しているようだ。それはあいつだけではない。僕の敵である取り巻きも、死んだ魚の目のように白濁した眼をして、顔はこの空のように鈍色だ。彼女から噴き出した血液は相当な量だが、幸い服に少量が付着しただけで済んでいる。砂地に溜まった鮮血が美しい。


 僕が無視したことに(ごう)を煮やしたのか、


「くそ! 運ぶぞ。お前、手伝え! お前ら、誰かに話してみろ。ただじゃおかないからな。良いな、このことは忘れるんだ。それと、お前は飛び散っている血に砂を被せておけ。良いな!」


 角張った顔をした男に命令すると、あいつは長髪の男と、カッターナイフが刺さったままの彼女を担いでそこから去って行った。


 彼女が死にかけているというのに、不思議と、僕は冷静だった。それどころか、あのようになっても尚、生きようとする生物の神秘を垣間見たことを、心のどこかで喜んでいた。まだ彼女が息絶えていなかったから、そう思ったのかもしれない。いや、これは夢だと心のどこかで思っていた。だからこそ冷静でいられたのだ。もしこれが夢ではないと悟っていれば、発狂していたに違いない。取り巻きの一人が砂を蹴る音を背にして、これは夢だと言い聞かせ続けた。


 しかし、彼女の血液にゆっくり触れてみると、それが夢でなかったことを思い知らされた。生温い感触に、紅に染まる手。それらがまざまざと現実を見せつけた。震えが止まらなかった。だが、どうしても現実を受け止めることはできなかった。ちっぽけな僕に、この現実はあまりにも大きく、負を(はら)み過ぎている。


 いや、まだ、彼女が死んだと決まったわけではない。もしかすればまだ生きているかも知れないではないか。あいつらは、急いで病院へ連れて行ったかもしれない。そうだ、まだあの子は死んでいない。きっと生きている。明日になれば、元気に挨拶をくれるに決まっているんだ――。


 そんな荒唐無稽(こうとうむけい)なことに一縷(いちる)の希望を託し、正気を保った。


 狂気に沈んでいると、空が涙を流し始めた。冷たい、大粒の涙だった。


 涙は血を洗い流し、全てを打ち消す。


 だが、彼女の死は消えてくれなかった。


 僕はただ、有りもしない希望に(すが)りつき、茫然として涙に打たれ続けた。


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