2
2
周囲から大きく離された席に、あいつがへらへらと嗤いながら近寄ってくる。目的は分かっている。どうせ僕を侮辱するだけなのだから、関わり合うだけ無駄だ。
僕はすぅっと肺一杯に空気を吸い込み、表情を殺し、死んだふりをする。
「お前って、本当に気持ち悪いよな」
やっぱりだ。こいつは毎日、開口一番にそれを口にする。僕は、意識的にただ真っ直ぐに黒板を見て、何も見ておらず、聞こえていないふりをする。意思とは無関係に、記されている文字が見える。理解に及ばない数式が隅々に記され、左下に日直の名前が、丁寧な字で書かれている。これを書いたのは優等生のあの子。今日の日直は、目の前でにやついているあいつだ。
「無視すんなよ」
彫刻刀で差別用語が彫られた机に両手をつき、いやらしい笑みを浮かべながら僕を見下す。知ったことじゃない。あいつと関わると、碌なことがない。いつも、いつも、いつも。僕のような弱者をいたぶっては、悦に入る。悪趣味なことこの上ない。
「無視すんなって言ってんだろ!」
勢い良く机を前に引き、埃や紙屑が散乱した床にそれを倒し、逆さまにした。道具箱から、シネと柄に彫られたカッターナイフや糊、セロハンテープ、さっき使ったばかりの算数の教科書に、次の授業で使われる道徳の教科書が散らばり、細かい埃が宙に舞った。
「アッ…………」
あいつが嗤う。不愉快だ。厭だ。死ねば良い。その笑窪から、顎までをカッターナイフで切り裂き、二度と嗤えないようにしてやりたい。あの雑言ばかりが吐き出される口に、有りっ丈の糊を流し込み、唾液と混じらせて、二度と口が開かないようにしてやりたい。
黙々と散らばった教科書や道具を拾い集め、机を立てて、それらを道具箱に仕舞って、元通りにした。だが、次の瞬間に、あいつは同じように中身をぶちまけさせた。その行為に、思わず涙が滲み出した。目の前が霞んでいく。
僕が何かをしたのか。していない。するはずもない。あんな汚らわしい人間と関わりたいと思う人間はいない。圧倒的な力だけでのし上がった独裁者なんかと、言葉すら交わしたくない。
――しかし、そう思っているのは僕だけのようだ。周囲の人間もまた、あいつと同じように嗤っている。冷徹な視線を頭上に注ぎ、誰も僕を助けてくれようとはしない。何故助けてくれないのか、解らない。あいつらに、僕は何もしていない。何もしていないのだ。いや、何もしていないから助けてくれないのか。だとすれば、何故あいつらは、あいつと同じように僕を攻撃する。あァ、そうか、弱いからだ。弱者は、弱者を見下すことでしか自分を強く見せられない。なら――僕は弱者なのか。それは嫌だな。
もう一度それらを拾い集めようと教科書を手に取った瞬間、あいつの鋭い足が、腹に突き刺さった。声も上げられない。みっともない。情けない。僕は呻きながら、ダンゴ虫のように埃と消し粕に塗れた床へ転がる。明滅している電灯が目に入った。眩しい。窓の外を覗き見る。鈍色をした天を見て、一層不愉快になる。空すらも、本当の笑顔を見せてはくれないようだ。
あいつらの見せる笑顔は、笑顔ではない。嗤ってはいるものの、笑顔ではないのだ。もし、それを笑顔だと言うのならば、そんなもの、この世から滅びてしまえば良いと思う。
――じゃあ、僕のは笑顔なのか。笑ってみる。あいつよりは、きっと綺麗な顔になっているだろう。
「こいつ、何笑ってんの。笑うなよ、気持ち悪い」
亀が引っ繰り返ったように無防備な腹に、あいつは両足で飛び乗った。それが、二度、三度と繰り返された。堪らない激痛と屈辱が、体と精神を蹂躙していく。僕は抑えきれず、嘔吐する。黄色い、胃液の混じった吐瀉物が道具類に付着した。周囲から、気持ち悪い、という聞き飽きた言葉が刃となり刺さる。
「もう、いい加減にしなさいよ!」
脳が軋みながら、回転する。瞼を開き、充血した眸であいつの方を見やる。すると、麗しいあの子が、あいつを僕から遠ざけていた。それでもあいつは嗤う。あの子は、呆れた顔をしてあいつを見送っている。あいつの向かう先は、給食の配膳場所。そうか、今は給食時間だった。
「君、大丈夫?」
オルゴールが奏でているかのような、綺麗な声。そして、本当の笑顔。つくづく、耳は完全に閉じることができないことを、神に感謝しなければと思う。彼女こそ、救いだ。あの子が僕だけに捧げてくれる声を聞く為だけに、虐めに耐えていると言っても過言ではない。もし、虐めがなく完全な黙殺であれば、きっとあの子は声すらかけてくれないだろう。虐めは、僕とあの子が関わり合う為に重要なものだ。もっとも、虐め自体は喜ばしいものではないし、暴力行為を加えるあいつが大嫌いだ。
「あいつ、本当に酷いね」
その通りだ。濁すことなく、あいつに反抗の刃を向けるのは、この子しかいない。その他の奴らは、皆、隷属、いや、金魚の糞同然の存在だ。あいつが何か命令して従わないクラスメイトはいないし、いつも何人も連れて歩いている。あいつにとって、クラスメイトは従順な駒なのだ。だから、あいつらは寄ってたかって僕を攻撃するのだ。一度刃向かえば、僕のようになってしまう。良い見せしめとなっているのだ。
あの子はトイレットペーパーで汚物を手早く拭き取り、
「早く給食を持って行ってあげてください!」
と叫んだ。するとあいつが、分かりましたァ、と間抜けな声で返事をした。あいつの持ってくる飯なんて、いらない。けれども、この子が持ってきてくれるのであれば、それが例え毒であろうとも、体の一部であろうとも、唾液であろうとも、糞尿であろうとも、何の躊躇いもなく食すことができるだろう。僕は、彼女が好きだ。彼女がいなければ、生きていけない。しかし、言葉を交わしたことは数えるほどしかない。
彼女だけは、何の差別もなく、僕に接してくれている。一緒にいれば、彼女もまた虐めの対象になるというのに、そんなことは関係ないようだ。給食を一緒に食べてくれ、遠足では一緒のグループになってくれ、先生から質問を受けた際には、吃音症があるから見逃してやるようにと頼んでくれた。
あの長く、艶やかな黒髪。ワンポイントの白い花の髪飾り。少し丸い鼻にある雀斑。清流のような、透き通った肌。類稀なる頭脳。あの黒板に書かれている丁寧な字も、彼女が書いたものだ。この子は、僕の希望であり、容姿、性格、どちらをとっても憧れだ。クラスの女子も彼女には一目置いており、誰もがああなりたいと願っているようだが、それと同時に少々疎まれる存在でもあるようだ。どこでもそうだと思うが、嫉妬とは恐ろしいものだ。
「そいつ、お前のこと好きなんだぜ! 気持ち悪ぃ! 諦めろ。その子はお前のことなんて、これっぽっちも好きじゃない!」
クラスメイトからお椀を受け取りながら、あいつが嘲笑った。周囲が俄ににざわめき始め、口々に気持ち悪いと僕を罵った。しかし、そんな中でもあの子は顔色一つ変えずに、吐瀉物を片付け、道具類を拾い集めている。その健気な姿に、どうしようもなく胸が痛む。
笑いの渦巻く中、やっとの思いで起き上がり、潰れて叫びをあげる肺一杯に彼女の匂いを取り込む。甘い、良い匂いがした。ずっと、嗅いでいたい。どこから香るのだろう。
――どうやら、あの子の髪から香っているようだ。まるで、髪飾りが本物の花のように思えるくらいに、はっきりとした芳香を感じる。この香りさえあれば、僕はいつまでも、どんな目に遭っても生きていける。これからずっと、あいつと関わっていくのなら、これが欲しい。彼女の甘い芳香を放つ髪が、欲しい。頼めば、一本くらい譲ってくれるかもしれない。意を決して言葉を発す。
「髪」
聞こえていないのか、彼女は黙って道具類を拾い集めている。
「髪」
少し、声を大きくする。反応はない。苛立つ。
「髪」
「何?」
聞こえた。彼女と言葉を交わすなんて、久しぶりだ。自分からとなると、これが初めてだ。心臓が生きているかのように跳ね回る。血管が蚯蚓のようにうねり、体の至る所に青く浮き出てくる。額から、ぬめぬめとした脂汗が流れてくるのが、はっきりと分かる。
「髪」
「何? 聞こえないよ」
嘘だ。聞こえているはずなのだ。しかし、怪訝そうな顔を見ていると、どうも嘘とは思えない。僕は頭を掻き毟り、純粋な心を持つ彼女に、もう一度チャンスを与える。この思考が傲慢であることは自覚するが、どうにもそれ以外の、適切な言葉が見つからない。
「髪」
「カミ? ああ、神様ね。そんなのいないわよ。誰も君を助けてくれないもの。非道いったらないわ」
神はいる。君だ。
――いや、そんな話ではない。僕は、君の程良く油の塗られた、艶やかな髪が欲しいのだ。何故伝わらない。何故解ってくれない。もどかしい。腹立たしい。むらむらと、腹の底から怒りと憎悪が込み上げてくる。好きなはずなのに、この感情は何だ。
胃が、鉛を呑みこんだかのように、ずぅんと重くなる。――もしかして、彼女までも僕を無視しようというのか。嫌だ。やめてくれ。僕を見放さないでくれ。仮に、見放されたらどうなる。二度と、この甘い芳香を嗅ぐことはなくなるのではないか。救いがなくなる。嫌だ。耐えられない。なら、いっそのこと。……
――その時、僕の頭で、ぷつりと音がした。ぴんと張った糸が、勢い良く切れたような……。具体的に例えるなら、ギターの弦が切れたような音がしたのだ。
「いやァ!」
空を裂く叫びが、教室中に響き渡り、木霊した。きっと、教室内の全ての生徒が、虫たちが、僕らに視線を突き刺しただろう。それもそうだ――。
僕は、彼女の髪の毛を力一杯に引き千切っていたのだ。抵抗する彼女を無視して、何度も、何度も、何度も。綺麗に整えられていた髪は乱れ髪となり、可愛い白い花の髪飾りが埃を纏いながら床を滑っていった。
彼女は力の限り暴れた。何度か、頬を打たれた。嬉しかった。抵抗されればされる程、何かが燃え盛り、もっと引き千切れと、悪魔が囁いた。それに従い髪を千切り続けたのだが、どうにも効率が悪い。もっと、ばっさりと、大量に手に入れたい。周囲を見回す。銀色のトレイを持ったまま、茫然と立ち尽くしているあいつらの顔が、視界に入る。無視。そうだ、カッターナイフがある。ちきちきと錆びた刃を伸ばし、力づくに彼女を抑え込んで、髪に手をかけた。
しかし、そこで邪魔が入った。あいつだ。僕の給食が乗せられたトレイを放り投げ、飛びかかってきた。あいつの必死な形相からは、容赦などという甘い意思が内包されているとは思えない。
「何やってんだ、やめろ!」
その時、僕が何を言ったのか判らない。覚えていない。ただ、とんでもない、狂人のような奇声を発していたことだけは覚えている。
僕はあいつと暫くもみ合った後に突き飛ばされ、掃除用具箱の角で頭を強く打った。鮮烈な痛みが、僕を正気に戻した。その時見た教室の光景は、モノクロだった。誰もが表情を失い、凍りつき、空気や時間までもが動きを止めていた。
何故こんな奇行に及んだか解らない。いくら見放される恐怖に押し潰されそうになっていたとしても、この行為は許されるべきことではないだろう。しかし、僕は手に入れたのだ。彼女の、あの髪を。もっと欲しかったが、仕方ない。彼女さえいれば、また手に入る。彼女さえいれば、元気な彼女さえいれば――。
――エッ……。
泣いている。彼女が、しんしんと泣いている。
衝撃的な光景に、掴んでいた髪の毛を全て落としてしまった。
――僕は、何てことをしてしまったのだ。そこで初めて、重い罪悪感に僕は押し潰された。あの子は、僕を助けてくれたのだ。なのに、この仕打ちは何だ。僕は、なんて愚か者なのだ。
謝罪の言葉を述べようと思ったが、あの子は無言で去っていった。クラス全員の視線が頭上に注がれ、突き刺さる。言い訳が思い浮かばない。明らかに僕が悪いのだ。なのに、謝るべき対象はどこかへ行ってしまった。どうすれば良い。廊下から入ってくる風だけが、声を発する。ざまあみろ、と。
無言の時がどれだけ続いたか分からないが、暫くの後に担任教師が教室へ入ってきた。どうやらあの子には会わなかったようで、何も知らない風な顔だ。彼が自分の机に座ったのを境に、クラスメイトも何事もなかった風に装って給食を食べ始めた。
あいつは僕に向かって舌打ちをして、紙に何かを乱暴に書き殴ってこちらに投げつけた。その中には、放課後に体育倉庫裏に来い、とそれだけ書かれていた。酷い字だった。その字からは明確な怒り、憎悪、疎ましい気持ちが内包されているように思えた。
あいつと同じように、クラスメイトは顔にこそ出していないが、その背中からは明らかな僕に対する敵対心や、猜疑心が感じ取れた。元より誰からも信用を置かれていないし、今さら信用を得ようとも思わないからどうでも良いが、あの子だけが気がかりだった。きっと、保健室にでも行っているのだろう。今よりも、あの子のこれからが心配だ。僕に関わったばかりに、これから虐めを受けやしないだろうか。この暴力行為に、か弱い女の子が耐えられるとは思わない。何とかしてやらねば――。
床に散らばった給食をかき集めていると、ふと、あの子の白い花の髪飾りが目に入った。これは、出会った時からずっとあの子が身に着けていた物だ。そういえば、以前あの子から一方的に、これは施設の人から貰ったプレゼントだと言っていた。ならば、きっと大切な物だろう。届けてやらなければならない。いつか返そう。そう思った僕は、それを手に取りポケットに押し込んだ。
結局、あの子は帰りの会になっても帰ってこなかった。担任教師が言うに、気分が悪いと言っているらしい。事実は精神的なショックだろうと思う。
衝動的に襲ってしまった以上、もうあの子は守ってくれない。そこに悪意はなくとも、現実としてそれは罪以外の何物でもない。ならば僕はどうにかして、あの子の手を借りずにこの現状を打破しなければならない。打破するにはどうすれば良いか。――消してしまえば良いのだ。問題となる核さえなくなれば、きっとこの忌まわしい現実を崩すことができるはずだ。それに加えて、あいつさえいなくなればあの子は虐めを受けなくて済むかもしれない。虐めのない、平和な世界が広がるのだ。あいつを殺すこと。それは僕にとっても、あの子にとってもプラスになる。実行に移さないなんて愚かだ。
ああ、どうしてこんな簡単なことを思いつかなかったのだろうか。僕は本当に馬鹿者だ。
髪を切ろうとしたカッターナイフをそっとポケットに忍ばせ、そして今にも泣き出しそうな天の下へ繰り出した。
あいつの消えた世界を思うと、自然と破顔した。