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最良の一日  作者: 要徹
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 罪人の行き交う夜の街であいつを見つけた時、今日が人生で最良の一日になると確信した。血の涙と糞尿を垂れ流し、待ちに待った時が今、ようやく訪れたのだ。ここまでの道程は決して容易なものではなかった。苦痛と憎悪に押し潰されそうな日々に耐えながら、そして死んでしまいたい思いに駆られながら、この日をずっと待ち望んできた。今の喜びは、とても言葉で言い表せるものではない。


 僕は吐瀉物(としゃぶつ)の酸っぱい臭いに包まれ、腐敗した死骸の一つでも転がっていてもおかしくないと思われる薄汚れた路地裏から、これまた薄汚れた(はこ)を持って出ていき、あいつの後ろをついて行った。


 あいつの向かう先は分かっていた。あいつの目指す目的の店まではほんの数分で到着するのだが、その間、僕は抱えた匣の中身が飛び出してこないか、心配でしようがなかった。我慢できずに飛び出してこられては、元も子もない。もっとも、それは杞憂だったようで、あいつと僕が店に到着するまで匣は暴れなかった。


 店の扉には『CLOSE』と記された札がかけられている。それに構わず、あいつは店内へ入っていった。僕も、暫く間を置いてから入店した。


 店内は暖色系の明かりで包まれていて、クラシック音楽がかけられていた。天井ではシーリングファンが静かに音もなく回っている。入口から右手側にカウンターがあり、その奥には色とりどりの酒瓶が並べられている。そして店の一番奥のテーブル席に、琥珀色をしたウイスキーとグラス、氷が置かれている。あいつはそこでウイスキーをちびちびと飲みながら、閑散とした店内を見回していた。


 僕は黙ってあいつのテーブルへ近づいていった。すると、僕が口を開く前にあいつの口から嗤いとともに、汚らしい言葉が飛び出した。


「気持ちの悪い男だな。ここはお前のような奴が来る場所じゃないぞ。さっさと出て行け」


 そう言うとあいつは眉毛を吊り上げ、出口の方へ(あご)をしゃくり、グラスに入ったウイスキーを一気に飲み干して(おくび)をした。それでも出て行かない僕に怪訝(けげん)そうな顔で鋭い眼差しを向け、さらに言った。


「まさか、こんな所へまで宗教の勧誘か? お断りだ」


 宗教か。確かに、この格好ならそう見えるだろう。夏なのにも関わらず、暗幕にも似た分厚い布を全身に(まと)って、顔を半分隠し、さらには怪しげな匣を抱えているのだから、そう勘違いされてもおかしくない。だが、僕は決して宗教の勧誘なんて低俗なことで、あいつを追っていたわけではない。もっと高尚な理由がある。


 白々しくも、恭しく僕は答えてやる。


「いや、何だかおかしいなと思いまして。このお店、今日は私が貸し切っておいたはずなのですが。店長から何も聞いておりませんか?」


「何だと?」


 草臥(くたび)れた黒いスーツを綺麗に着込み、長い髪を後ろに撫でつけたあいつは、生ごみを見るような目でこちらを見た。いつになっても変わらないものが、そこにあった。


「あなたは、どうしてここに?」


 突然の質問に面食らったらしく、眉根に皺を寄せた。


「俺は今日ここで友人と会う約束をしている。しかし、お前の貸し切りならば仕方がない。俺の方が出て行こう」


 あいつは鞄を抱えて出て行こうとした。僕はあいつの背を目がけて呼び止めの言葉を発す。


「ちょっと待ってください。別に、この一角程度なら問題ありませんよ。どうぞ、ここでお待ちください」


「ん? そうか。それはありがたいな」


「その代わりと言っては何なのですが――」


 あくまで謙虚に、()びるような声を取り繕った。


「是非、私の連れが来るまでお話の相手をしてもらえませんか?」


 あいつは少しの間悩み、僕の提示した条件を受け入れた。


「話くらいは聞いてやっても良い」


 ふん、と鼻を鳴らし、元いた椅子に腰掛けた。僕もそれに従って座り、わざとらしく店内を見回した。


「それにしても、初めて来ましたがここは良い店ですね」


「そりゃあそうだろう。何せ、俺の友人がやっている店だからな。こういう店を持つことが、友人の夢だった。長年努力して、やっとこの店を構えたんだ」


 ――長年の努力か。僕は思わず吹き出しそうになった。店主があの時のことを少しでも覚えているならば、こんな所でのうのうと酒を注ぐ仕事になんて就けるはずがない。店主の天職は、地獄の業火に焼かれることだけだ。そして、それはあいつも同じことだ。


「そうだったんですか。それは失礼」


「しかし、何で店主がいない。それにこの臭いは何だ?」


 二杯目をグラスに注ぎながら、あいつが問う。やはり両方に違和感を覚えるか。仕方なく、適当な言葉を吐いておく。


「どうも、店主さんは裏口で作業をしていたようですが。それと、この臭いは多分私ですね。体臭が酷いもので」


「そうか、なら良い」


 僕もあいつと同じように、琥珀色の液体をこくりと飲む。喉元が焼けるような感覚だ。僕がこいつに抱く憎しみと同じような、熱い、感覚があった。


 暫く無言が続いたが、その間あいつは何度も携帯電話を弄っていた。開いては閉じ、開いては閉じを繰り返し、その行動を目の前を飛び交う蝿のように鬱陶しく感じた。しかしこの行動があるということは、計画が上手くいっている証拠だろう。安心して話を進められる。


「何か、ご用がありましたか?」


 わざとらしくそう問うと、あいつは携帯電話を乱暴に閉じ、


「暫く連絡を取れない友人がいてな。最近まで返事をしてくれていたのに、今はないんだ。だから少し心配なだけだ」


 と、柄にもなく不安げな表情をした。こんな顔を見るのはいつ以来だろうか。――そうか、あの子がいなくなったあの時以来だ。


「それで、話はしないのか? こちらとしては、お前のような奴の話は聞きたくないから、話さないならそれで良いんだが」


 あいつは顎鬚を摩りながら、もう片方の手で煙草を取り出し咥えた。


 予想以上に早く、本題に入ってきたことに少々面食らった。まあ、いつかは話し始めるのだ。タイミングは別に重要ではない。問題は、匣の中のものが大人しくしてくれているかどうかだ。話し終わるまで、ちゃんと我慢してくれと、心の中で強く念じた。


「ちょっとした、昔話です。話したくて仕方なくて」


「面白ければ良いんだが」


 煙草に火をつけ、紫煙を吐き出す。


「きっと、興味深いお話だと思います」


 あいつはどかりと両足をテーブルに乗せ、三流悪役のような格好になった。そして、話を始めろと目で言った。


 僕は、咳払いを一つして、物語を始めた。


 匣が、くつくつと嗤った気がした。


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