硝子の瞬き-間宮響子-
夜は、気づかないうちに“こちら側”へ滲み出してくる。
橘充希がその人形を受け取ったのは、二十歳の誕生日の夜だった。
白い箱。古びた革の紐で結ばれ、まるで棺のように静かだった。
「海外のアンティークらしいよ。すごいでしょ?」
そう独り言を呟きながら軽く笑ったが、充希は箱を開けた瞬間、言葉を失った。
そこにいたのは――“人形”だった。
否、そう呼ぶにはあまりにも精巧すぎた。
硝子のような瞳。光を反射するたび、ほんのわずかに焦点が揺れる。唇は薄く、血色があり、まるで呼吸しているように見えた。頬にはかすかな陰影があり、触れれば温もりすら感じられそうだった。
「……ミア、って呼ぼうかな」
充希はそう言って笑い、すぐにスマートフォンのカメラを回した。
彼女は配信者だった。日常を切り取り、誰かと共有することが、生きている証のようだった。
その夜の配信は、いつも以上に盛り上がった。
「ねえ……ミア、今日からずっと一緒だよ」
本来は無機質なはずの人形に話しかける充希。
コメント欄は歓声と冗談で溢れていた。
《本物みたい》
《ちょっと怖い》
《瞬きした?今》
充希は笑いながら、ケーキを切り分けた。
「ミアにもあげるね」
フォークで小さくすくい、人形の口元へ運ぶ。
当然、食べるはずがない。
だが――
そのときだった。
ほんの一瞬。
ほんの、わずかに。
人形の唇が、触れたケーキに“吸い付いた”。
「……えっ?!」
コメント欄が一瞬で凍りついた。
《今動いた》
《今の見た?》
《やばい》
《加工?》
充希は笑った。
「やだ、みんな怖がりすぎ」
だが、その笑顔は引きつっていた。
その夜から、配信は変わった。
ミアは、時折“動く”。
カメラの死角で、首の角度が変わる。
目線が、明らかに充希を追う。
誰も触れていないのに、椅子から床へ落ちている。
コメント欄は騒然となった。
《やめた方がいい》
《それ、持ってちゃダメなやつ》
《誰かに見てもらえ》
ある視聴者が、こう書き込んだ。
《間宮響子って霊能力者がいる。そこに行け》
数日後。
間宮響子は、事務所の中でいつになく静かな目をしていた。
充希は人形を抱えたまま、彼女の前に座っていた。
「……あなた、もう触られてるわね」
第一声が、それだった。
「えっ?!」
「人形じゃない。これは“器”よ。中身が、もうあなたを選んでる」
充希は笑った。
「そんな、冗談ですよね?」
響子は何も言わず、人形の顔を覗き込んだ。
そして、ほんのわずかに眉をひそめた。
「……遅かったかもしれない」
その瞬間。
人形の瞳が、ゆっくりと動いた。
充希ではなく、響子を――まっすぐに見た。
それからの記憶は、充希の中で断片的にしか残っていない。
響子が何かを唱えていた。
部屋の空気が、異様に重くなった。
鏡に映る自分の顔が、なぜか“笑っていた”。
自分は笑っていないのに。
人形が、床に落ちた。
音がした。
割れる音。
だが、何も割れていない。
なのに、確かに“何かが壊れた”。
気がつくと、充希は自室にいた。
カメラは回っていた。
配信は、続いていた。
「……あれ?」
コメント欄は流れている。
《さっきの何》
《戻ってきた?》
《充希?》
充希は安心して笑った。
「大丈夫、大丈夫だよ。ちょっと変な夢見てただけ」
彼女は振り返った。
そこに、人形はなかった。
「……ミア?」
視界に入る範囲を視線で探す。
床。棚。ベッドの下。
どこにもいない。
何故か……ほっとした。
「よかった……」
そのとき、コメントが一斉に流れた。
《後ろ》
《後ろ見て》
《振り返るな》
《逃げろ》
充希は、ゆっくりと首を動かした。
カメラに映る、自分の背後。
そこに――
“もう一人の自分”が立っていた。
同じ顔。
同じ服。
同じ笑顔。
ただ、目だけが違った。
ガラスのように、光を反射していた。
そして、その“充希”の腕の中には――
あの人形が、抱かれていた。
配信はその瞬間、途切れた。
だが動画は残っている。
今でも視聴できる。
再生すると、最初は普通だ。
誕生日。
ケーキ。
笑顔。
だが、ある地点から、何かが“ずれる”。
映っていないはずのものが、映り込む。
音声に、誰かの囁きが混じる。
そして最後。
画面が暗転する直前。
ほんの一フレームだけ――
視聴者の“こちら側”を見ている、ガラスの瞳が映る。
間宮響子は、その動画を最後まで見た。
そして、静かに呟いた。
「……もう、外に出てる」
彼女はスマートフォンの画面を伏せた。
だが遅い。
“それ”は、画面の向こうではない。
もう、こちらを見ている。
あなたの、そのすぐ後ろを。
夜、部屋の電気を消したあと。
ふと、何かの気配を感じることがあるだろう。
振り返るな。
決して、振り返るな。
なぜなら――
それはもう、“あなたの顔を知っている”から。
――(完)――




