忘れられない初恋のあなたに婚約者がいた件について~傷心令嬢、前を向きます〜
わたしの胸の奥深くには、今もなお大切にしまわれた宝石のような思い出がございます。
幼い日の、陽光きらめく庭園で交わした言葉、その微笑み、そして小さな胸を高鳴らせた淡い恋心。
それは、リリアンタール王国の伯爵令嬢、クラリス・フォン・ローゼンベルクであるわたしが、初めて抱いた特別な感情でございました。
お相手は、隣国エルドラード公国の上級貴族であられたエリオット様。
外交のため我が国を訪れた父君に同行されていた、わたしより少し年上の少年でいらっしゃいました。短い期間ではございましたが、共に過ごした日々は夢のように楽しく、彼の優しさ、聡明さに、幼いながらもわたしの心は強く惹かれたのでございます。
いつかまた会える日を、と淡い期待を抱き、指切りを交わしたあの日の温もりは、今も手のひらに残っているかのようでございます。
それから幾年月。
わたしも十八歳となり、そろそろ婚約者を定めなければならない年頃を迎えました。多くの殿方が夜会で声をかけてくださいますけれど、わたしの心には、いつもエリオット様の面影がございました。
成長されたあの方は、今どのような殿方になられているのでしょう。一度で良いからお会いしたい、そのお声を聞きたい――叶わぬ願いと知りながらも、そう願わずにはいられませんでした。
周囲からは、いつまでも夢見がちな娘と見られているのかもしれません。けれど、初恋という名の細い糸は、わたしの心をそっと繋ぎ止めて離さないのでございます。
そんな折、エルドラード公国との合同の交流会が、我がリリアンタール王国の王都にて開催される運びとなりました。両国の友好を深めるために数年に一度の華やかな催し。わたしの心は、期待と不安で心が揺れ動いておりました。
もしや、エリオット様もいらっしゃるのでは…?
けれど、もしお会いできたとして、わたしを覚えていらっしゃるかしら。成長されたあの方を前にして、平静でいられる自信がわたしにはございませんでした。
―・―・―
交流会の初日、王城の大広間は煌びやかな光と華やかな音楽、そして着飾った紳士淑女の賑わいに満ちておりました。父と共に会場へ足を踏み入れたわたしは、無意識のうちにエルドラード公国の方々が集う一角へ視線を送っておりました。
そして――わたしの心臓が、大きく跳ねたのでございます。
そこに、あの方…エリオット様がいらっしゃいました。。
幼き日の面影を残しつつも、背は高く、逞しく成長されたそのお姿。落ち着いた物腰、知的な眼差し。
わたしが夢に見ていたよりもずっと、ずっと素敵な殿方になられていました。胸が高鳴り、頬が熱くなるのを感じました。声をかけたい、けれど、あまりの眩しさに足がすくんでしまいます。
その時、エリオット様がふとこちらに気づき、軽く会釈をくださいました。わたしのことを覚えていてくださった…! そう喜びで胸がいっぱいになりかけた、その瞬間。彼の隣に寄り添う美しい女性の姿が目に飛び込んできたのでございます。
豊かな金の髪を優雅に結い上げ、エメラルドのような瞳を持つ、絵画から抜け出たような貴婦人。
彼女はエリオット様に親しげに微笑みかけ、エリオット様もまた、優しい眼差しでそれに応えていらっしゃいました。周囲の囁き声が、残酷な真実をわたしの耳に届けます。
「まあ、グランヴィル侯爵令息のエリオット様と、婚約者のイザベラ様ですわね」
「お似合いのお二人ですこと…」
婚約者……。その言葉が、冷たい楔のようにわたしの胸に打ち込まれました。頭が真っ白になり、立っているのもやっとでございました。
エリオット様の隣には、わたしの知らない方が、わたしがずっと焦がれてきた場所を、当然のように占めている。それが現実なのだと、否応なく突きつけられたのでございます。喜びも束の間、深い失望と、どうしようもない寂しさが、わたしの心を覆い尽くしました。
その夜の記憶は、ひどく曖昧でございました。どのように挨拶を交わし、どのように踊り、どのように食事をしたのか。ただ、エリオット様とその婚約者であるイザベラ様の輝くようなお姿だけが、焼き付いたように脳裏から離れませんでした。
交流会は数日間にわたり催されました。わたしは、努めて平静を装い、笑顔を絶やさぬよう心がけましたが、胸のうちは嵐のようでございました。
ある日の午後、庭園での茶会で、思いがけずエリオット様と二人きりでお話しする機会がございました。
「ローゼンベルク嬢、お久しぶりです。覚えていらっしゃいますか、幼い頃、この庭で迷子になった私の手を引いてくださったことを」
穏やかなバリトンの声が、記憶の扉を優しく叩きます。
「ええ、エリオット様。もちろん覚えておりますわ。あの頃は、わたしの方が少しだけ背が高かったのですよ」
そうお答えするのが精一杯でございました。懐かしさと、すぐ隣にいる喜びと、けれど決して手の届かない方なのだという悲しさが、織り交ぜになって込み上げてまいります。
「ふふ、そうでしたね。あの頃のあなたは、とても勇敢なお姫様のようでした」
エリオット様の瞳が、優しく細められます。その眼差しは、幼い日にわたしに向けられたものと変わらないように思えて、けれど、その優しさはもはやわたしだけのものではない。
ああ、この方はこんなにも近くにいらっしゃるのに、なんと遠い存在なのでしょう。
「イザベラも、あなたのことを素晴らしい方だと申しておりました。よろしければ、今度改めてご紹介させてください」
「……ええ。喜んで」
心の奥がズキリと痛みました。彼の口から、婚約者の方の名前が、ごく自然に紡がれる。それは、わたしの淡い期待を打ち砕くのに十分すぎる響きを持っておりました。
夜ごと開かれる舞踏会では、エリオット様とイザベラ様が手を取り合い、優雅に踊る姿が人々の注目を集めました。
お二人は、まるで物語の中の王子様とお姫様のよう。誰もが羨む、理想的な一対でございました。わたしは、壁際に佇み、その光景をただ見つめることしかできません。心の中で、幼い日のエリオット様との思い出が、繰り返し再生されます。
『大きくなったら、また必ず会いに来るよ』そう言ってくださった言葉を、わたしはずっと信じておりましたのに。
諦めなければ。そう頭では理解しているのです。けれど、一度再燃してしまった恋心は、そう簡単には消えてくれません。彼のお姿を見るたび、そのお声を聞くたびに、胸が締め付けられるように苦しくなるのでございます。
「なぜ、わたしではなかったの…?」
「もう、何もかも手遅れなの…?」
答えの出ない問いが、頭の中を巡ります。誰にも気づかれぬよう、バルコニーでそっと涙を拭いました。
そんなある夜のこと。いつものように、エリオット様とイザベラ様の仲睦まじいワルツを遠くから眺めていたわたしの心は、鉛のように重く沈んでおりました。
わたしは、この交流会が終わるまで、この苦しみに耐え続けなければならないのでしょうか。そう思った時でございます。
「ローゼンベルク嬢、どうかされましたか? 少し顔色が優れないようにお見受けしますが」
不意にかけられた声に顔を上げると、そこにはリリアンタール王国の若き騎士、アーサー・ナイトレイ様が心配そうにこちらを見つめて立っていらっしゃいました。彼は、実直な人柄で知られ、騎士団の中でも将来を嘱望されている方だと伺っておりました。
「アーサー様……いいえ、何でもございませんの。少し、夜風に当たりすぎたのかもしれませんわ」
取り繕うように微笑むわたしに、アーサー様は柔らかな眼差しを向けられました。
「無理はいけません。よろしければ、少しあちらで休憩なさいませんか? 温かい飲み物でもお持ちしましょう」
その飾り気のない、けれど心のこもった言葉遣いに、張り詰めていたわたしの心が、ほんの少しだけ解きほぐされるのを感じました。彼が差し出してくださった手を、わたしはためらいながらも取りました。
アーサー様は、わたしを騒音が少ないテラスへと誘い、温かいハーブティーを手に戻ってこられました。
「エルドラードの方々との交流は、いかがですか?」
「ええ……とても、勉強になりますわ」
当たり障りのない返答しかできないわたしに、アーサー様は無理に話させようとはなさいませんでした。ただ、静かに隣に座り、夜空の星を眺めていらっしゃいます。その沈黙が、不思議と心地よく感じられました。
「星が綺麗ですね」
ぽつりと、わたしが呟くと、アーサー様はにこやかに頷かれました。
「ええ。どんなに曇った夜でも、雲の上ではこうして星が輝いているのだと思うと少し勇気づけられます」
その言葉は、まるでわたしの心を見透かしているかのようでございました。
エリオット様への想いに囚われ、目の前が真っ暗になっているように感じていたわたしに、別の光があることを示してくださっているように。
「……わたし、ずっと過去ばかり見ていたのかもしれません」
思わず、本音が漏れました。アーサー様は驚かれたご様子でしたが、すぐに優しい表情に戻り、
「過去を大切に思うことは、素晴らしいことです。ですが、未来に目を向けることも、同じくらい大切なのではないでしょうか」
そう、静かにおっしゃいました。その言葉は、すとんとわたしの胸に落ちてまいりました。このままではいけない。わたし自身の未来を見つめなくては。いつまでも、叶わぬ恋に心を痛めている場合ではないのだと。
交流会の最終日。閉会の挨拶が行われる前、わたしはエリオット様とイザベラ様のもとへ歩み寄りました。胸中はまだ微かに揺れておりましたが、心は決まっておりました。
「エリオット様、イザベラ様。この度は、素晴らしい交流の機会をありがとうございました。お二人の末永いお幸せを、心よりお祈り申し上げておりますわ」
わたしは、精一杯の笑顔でそう申し上げました。エリオット様は少し驚かれたような表情をなさいましたが、すぐに穏やかに微笑み、 「こちらこそ、ローゼンベルク嬢。またお会いできる日を楽しみにしております」 と仰ってくださいました。
イザベラ様も、優雅に会釈を返してくださいます。
もう、思い残すことはございません。あの日の幼い約束と淡い恋は、わたしにとってかけがえのない、美しい宝物。けれど、それは大切に胸の小箱にしまい、わたしは新しい道を歩き出さなくてはならないのです。
会場を後にするわたしの隣には、いつの間にかアーサー様が寄り添ってくださっておりました。
「クラリス様、少しお顔が晴れやかになられたように見えます」
アーサー様は、いつの間にかわたしのことを名前でお呼びになるようになっていました。
「ええ、アーサー様。長い間見ていた夢から、ようやく覚めたような心地ですの」
そうお答えすると、アーサー様は安心したように微笑まれました。その笑顔は、エリオット様の華やかな輝きとは異なる、けれど太陽のような温かさを持っているように感じられます。
わたしの心には、新しい光が差し込んできたのかもしれない。まだおぼろげで小さな灯火のようなものだけれど、この光を大切に育んでいきたい。そう、強く思いました。
馬車に乗り込むわたしを、アーサー様が優しい眼差しで見送ってくださる。その眼差しに、わたしは未来への確かな希望を感じながら、静かに微笑み返したのでした。
初恋は終わりました。けれど、わたしの物語は、まだ始まったばかりなのでございます。
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