第2話「貴族の娘とエチオピア産モカの香り」
王都ルーンハイトでは、貴族の間で紅茶文化が広く浸透していた。
南方の地で栽培された希少な茶葉を使い、銀のティーポットで丁寧に淹れる。
貴族たちにとって紅茶は、上品で洗練された嗜好品であり、格式の象徴でもあった。
そんな王都で、最近になって妙な店の噂が広まっていた。
「黒い液体を売る店」
「庶民が飲む苦い薬草茶のようなものらしい」
「貴族の嗜みには程遠い代物」
そう揶揄されていたのは──Kichijoji Coffee。
***
「……ここね」
店の前で足を止めたのは、一人の女性だった。
金髪に青い瞳。エリザ・フォン・アーデルハイト。
王都の名門貴族、アーデルハイト伯爵家の令嬢である。
「ふん……これが噂の『黒い液体』を出す店?」
エリザは店の造りを見回した。
木の温もりを感じるシンプルな佇まい。紅茶を提供する貴族のサロンとは違い、質素で飾り気のない店構えだった。
(貴族の嗜みとは程遠いわね……)
そう思いながらも、エリザの鼻をくすぐったのは、甘く華やかな香りだった。
「……何かしら、この香り」
紅茶とは違う、フルーティーで芳醇な香り。
気がつけば、彼女は店の扉を開いていた。
「いらっしゃいませ」
カウンターの向こうから、店主の藤倉 陽翔が微笑む。
「初めてのお客様ですね。どうぞ、お入りください」
「……ふん」
エリザは静かに店内へと足を踏み入れた。
***
「コーヒーを試してみますか?」
カウンター席に腰掛けると、エリザは店主を見据えた。
「あなたが、この店の主人?」
「ええ、そうです」
「コーヒー、と言ったかしら? 貴族の間では紅茶が主流よ。そんな飲み物が、本当に美味しいのかしら?」
興味はあるものの、どこか試すような口調だった。
陽翔は穏やかに微笑むと、ゆっくりと豆の入った袋を取り出す。
「こちらはエチオピア産のモカです。紅茶と同じように、華やかな香りが特徴ですよ」
「エチオピア……聞いたことのない産地ね」
エリザが興味深そうに袋を覗くと、ふわりとフローラルな香りが広がる。
「これが……?」
「試してみますか?」
「……いいわ」
エリザは小さく頷いた。
***
エチオピア産モカの香り
陽翔はミルを手に取り、ゆっくりと豆を挽く。
ゴリゴリ……ゴリゴリ……
挽かれた豆から、さらに濃厚な香りが立ち上る。
「この香り……紅茶とはまるで違うのね」
「そうですね。エチオピア産モカは、ベリーやワインのような風味を持っています」
やがて、お湯を沸かし、ドリッパーにセットしたフィルターへと注ぐ。
ふわっと膨らむコーヒー粉。
蒸らしを終え、ゆっくりとお湯を注ぐと、芳醇な香りが店内に広がった。
「……紅茶とは違うけれど、これはこれで上品ね」
陽翔はカップを差し出した。
「お待たせしました。エチオピア産モカのドリップコーヒーです」
エリザは慎重にカップを持ち上げる。
湯気とともに立ち上るのは、甘く華やかな香り。
「……紅茶のダージリンのような香りね」
そう呟きながら、そっと口をつける。
──滑らかで、ほのかに甘酸っぱい。まるでフルーツのような味わい。
「……っ」
エリザの目が驚きに見開かれた。
「どうですか?」
「……思ったよりも、ずっと飲みやすいわ」
「良かったです」
エリザは小さく息をつきながら、再びカップに口をつけた。
***
貴族の娘、新たな世界を知る
「これは……悪くないわね」
カップを置いたエリザの表情は、最初よりも柔らかくなっていた。
「コーヒーも、意外と奥が深いのね」
「ええ。産地や焙煎によって、まるで違う味わいになりますよ」
「……ふん。紅茶だけが高貴な飲み物だと思っていたけれど、少し認識を改めるべきかしら」
エリザは微かに笑い、銀貨を置いた。
「代金よ」
「ありがとうございます。**5ルクス(銀貨1枚)**になります」
「思ったよりも高くはないのね」
「コーヒーは嗜好品ですが、誰でも気軽に飲めるようにしたいので」
「……なるほど」
エリザは静かに立ち上がると、店の出口へ向かう。
「また来るわ」
「お待ちしています」
扉が閉まった後、茜がぽつりと呟いた。
「最初は冷たい人かと思ったけど、最後は少し雰囲気が柔らかくなりましたね」
「コーヒーが、彼女の世界を少し広げたのかもしれないな」
陽翔はそう言いながら、次の客を迎える準備を始めた。
***
エリザは店を出た後、もう一度唇に残る味を確かめるように、そっと舌でなぞった。
(……こんな飲み物があったなんてね)
高貴な紅茶だけが、すべてではない。
コーヒーという新しい世界を知った彼女は、ゆっくりと微笑んだ。