第1話「エルフの冒険者と初めてのブラックコーヒー」
東京都 吉祥寺。
公園通りの角にある、小さなコーヒースタンド「KICHIJOJI COFFEE」。
木の温もりを感じるカウンターと、シンプルな手すり。カウンター越しにお客と直接会話しながら提供する、温かみのある店だった。
「おはようございます、店長」
朝の準備をしていた藤倉 陽翔が顔を上げると、アルバイトの佐々木 茜が入ってきた。
24歳。大学卒業後に就職するも、激務で体調を崩し退職。
偶然ここで飲んだ陽翔のコーヒーに救われ、働くことを決めた女性だった。
「おはよう。今日もよろしくな」
「はい!」
明るく返事をしながら、茜がカウンターを拭き始めた、その瞬間──
カウンターの外の風景が歪んだ。
「……え?」
強烈な光が店内を包み込み、景色が一瞬で白に染まる。
次の瞬間、二人の視界に広がったのは──
石畳の道、木造の建物、異国情緒あふれる街並みだった。
「……ここ、どこ?」
***
目の前に広がるのは、ヨーロッパ風の街並み。
陽翔は落ち着いて周囲を見渡し、茜は呆然とした顔で立ち尽くす。
「店長……ここ、吉祥寺?」
外を馬ではない動物に引かれた馬車が通り過ぎる。
通りを歩く獣人や、革鎧を着た男。
まるでゲームの世界のようだ。
「流石に無理があるだろ」
「ですよね…異世界…?転移した?」
「……どうやら、そうみたいだな」
陽翔はカウンターに置かれたエチオピア産イルガチェフェの豆に目をやる。
変わらずそこにある。つまり、店ごと異世界に転移したのだ。
「とりあえず、コーヒーを淹れようか」
「ええっ!? そんな冷静でいられるんですか!?」
「店があるなら、お客さんも来るだろ?」
不思議なことに、コーヒー豆が減らない。使っても、元の量が保たれている。
「……これは便利だな」
「え、そういう問題……?」
茜のツッコミがむなしく響く中、「KICHIJOJI COFFEE」の異世界営業が始まった──。
***
「……ここか」
「KICHIJOJI COFFEE」が転移して数日後。
店の前に佇む長身の女性──エルフの冒険者、エレイン・シルヴェリス。
銀の髪、碧眼。冒険者装備に身を包み、腰には細身の剣を下げている。
異世界の住人たちが珍しげに眺めるこの奇妙な店。その香ばしい香りに、エレインもまた興味を引かれていた。
「奇妙な店だ……」
呟いた声は低く、抑揚がない。表情も乏しく、まるで感情を押し殺しているようだ。
エレインは無言のままドアを押し開けた。
***
「いらっしゃいませ」
カウンターの向こうにいたのは、落ち着いた雰囲気の男性──陽翔。
「……何の店だ?」
「コーヒーを出すお店です」
「コーヒー?」
聞き慣れない単語に、エレインの眉がわずかに動く。
「試してみますか?」
「……一杯」
「ブラックでお作りしますね。5ルクス(銀貨1枚)になります」
エレインの目がわずかに細まる。
「……なかなかの値段だな?」
「この国には無い特別な飲みものですから」
「……ふむ」
納得したように銀貨を置き、エレインは椅子に腰掛けた。
***
エレインの視線が、店主の手元に集中する。
細長い器具の中に、黒く細かい粉が入れられた。湯を沸かし、ゆっくりと円を描くように細い口のポットで注いでいく。
「……香ばしい香りだな」
コーヒーが膨らみ、ゆっくりとカップへと滴り落ちていく。
「お待たせしました」
黒い液体が注がれたカップが、エレインの前に置かれる。
エレインは慎重に口をつけた。
そして──
「……苦い」
思わず眉をひそめる。
「ええ、ブラックでお出ししたので。でも、その奥にある風味を感じてみてください」
もう一口、ゆっくりと飲み込む。
苦味の奥にある、ほのかな酸味と甘み。喉を通る感覚が心地よい。
「……悪くはない」
短い言葉だったが、その目には確かな満足の色があった。
「お仕事帰りですか?」
「……ああ。依頼を終えたところだ」
「お疲れ様です」
その言葉に、エレインの指がかすかに震えた。
誰かに「お疲れ様」と言われたのは、どれくらいぶりだろうか。
***
カップの底が見えた頃、エレインはそっとカウンターに置いた。
「……ふむ、これは良いものだな」
「ありがとうございます。またどうぞ」
エレインは微かに頷き、静かに店を後にした。
***
店を出たエレインは、ふと自分の口元に触れた。
(……自然と、力が抜けていた)
気が付けば、身体の疲れが少し軽くなっている気がする。その上、今日の魔物討伐で受けた傷が治っている。
「……まさか、ポーション並みの効果があるとはな」
思わず呟くと、エレインは静かに歩き出した。
それが、彼女のコーヒースタンド通いの始まりだった。
***
「店長、買い出し行ってきますねー」
「うん、気をつけてね」
転移から数日、2人はなんとか異世界に馴染んでいた。
店内にあるものは電気やガス、水道なんでも使えたが、不思議と通信はできなかった。
また、食料はあまりなかったため、早々に異世界に食糧を購入することになった。
店の2、3階は住居スペースになっており、茜に3階部分を貸すことにした。3階はもともと家具付き賃貸物件として貸す予定だったため、トイレ、シャワールーム、簡単なキッチンがあった。
陽翔はあらためて、なぜ自分たちが転移したのか考えたが、きっかけや理由もわからず、やがて考えを放棄した。
「ま…いいか…異世界のコーヒー屋というのも、面白いし」
藤倉 陽翔
佐々木 茜
エレイン・シルヴェリス