5. 回想――イシリアという人物
入学から二日目。
初回講義を受けた後、私は散策に出た。
前世とウラクス騎士学園の様相は変わりない。
権力が渦巻く重苦しい空気、鼻をつく貴族たちの香水の匂い。
何をするにも自由だ。
研鑽を積むもよし、勉学に励むもよし、遊び呆けるもよし。
遺憾にも大半の生徒は遊惰放蕩に溺れ、何も学ばぬまま卒業してしまうのだが。
前世の戦争でも使い物にならない卒業生のなんと多かったことか。
仮にもここは騎士としての経験を積むための場所だというのに。
便々と歩いていると図書館に着いた。
私は特に理由もなく足を踏み入れる。
ウラクスの蔵書は国内屈指。
ここに収まっていない書物を探せ、という方が難しい。
「…………」
前世でよく通った魔術書の書庫に向かう。
見慣れた本がいくつも棚に入っていた。
いまさら読み直しても意味はないだろう。
私の十八番は魔術。そして精霊術。
魔術はともかく、精霊術は契約した精霊の声を聞いて行使しなければならないため、先行研究がほとんど見当たらない。
後進の精霊術師のために、精霊と付き合う秘訣でも記して図書館に寄贈しておこうか?
……などと、くだらないことを考えて歩いていると。
閑散とした机に向き合う生徒がひとり。
入学の翌日から図書館で勉強とは、ずいぶんと熱心なものだ。
私と同じ学級の生徒なのだが。
セフィマ伯爵令嬢イシリア。
白い長髪を帳面に垂らし、紫紺の瞳で熱心に専門書を見つめている。
集中していて私には気がついていないようだ。
邪魔をするのも気が引けるし、話しかけないでおこう。
読んでいるのは魔術書……ではない。
恋愛指南書……!?
いや、まさかそんな。
彼女の性格を鑑みれば、恋愛などに微塵も興味を示さないはずなのだが。
――冷静になれ、私。
そうだ、前世でのイシリアを思い出そう。
私の印象が間違っているのかもしれない。
***
"トレッシャの遠雷"
セフィマ伯爵令嬢イシリアにつけられた二つ名だ。
ここトレッシャ大公国において、彼女の魔術の腕は極めて優れていた。
群を抜いて高い魔力、騎士学園で培った精度。
イシリアの辣腕は戦争でも遺憾なく発揮されることになる。
彼方より雷を呼び寄せ、敵兵を処理する姿はまるで作業。
長弓すらも凌駕する射程距離に、敵の帝国兵たちは戦慄していた。
こうして物語ると、さながら鬼のように聞こえるが。
その実イシリアは非常に繊細な人物でもあった。
表面上は抜かりのない人物で、非常に勉強熱心で……常に向上心を持ち続ける模範的な人物のように思われたのだ。
しかし彼女の勤勉は一種の「妄執」からくるものであったことを、私は戦争が始まってから知ることになった。
「わたしは死ぬのが怖いです」
いつごろだったか。
帝国に重要な拠点が落とされ、窮地に陥ったとき。
イシリアは夜の天幕で唐突に打ち明けたのだ。
――"死ぬのは誰でも怖いだろう"
私は当たり前の返答をした。
彼女が抱く懊悩など知りもせず。
「ま、誰でもそうですよね。安全地帯から魔術で大量殺人しているわたしが、死への恐怖を語るなんてお笑い種です。聞かなかったことにしてください」
――"無理だ。いつもは強気なイシリアがそんなことを言うなんて、少し意外だったから"
「はぁ……相変わらずあなたは意地が悪い。わたしだって多少は心が擦り切れているのですよ。できることなら、あの人と一緒に逃げてしまいたい……」
あの人……というのはレグウィフ・エラードのことだろう。
詳細は私も知らないが、いつしかイシリアとレグウィフは婚約者になっていた。
馴れ初めを聞くような度胸は私にはない。
伯爵令嬢と平民の恋……さすがに無理がある。
……無理があるのだが、異なことに戦争のおかげで実現しそうだ。
公国の君主となったアルトンが、同じ学級だったよしみで二人の婚約に目をかけてくれた。
二人の婚姻を成就させるため、戦争が終わったらレグウィフに爵位を授けるというのだ。
イシリアは逃げたいと言ったが。
レグウィフは絶対に戦争から逃げるなんてことはしないだろう。
その点で彼女は悩んでいるのかもしれない。
――"レグウィフに一緒に逃げてくれるように相談したらどうだ。この敗戦濃厚な旗色、逃げてもアルトンも文句は言わないだろう"
「彼は戦う友を捨てて逃げるような人じゃありませんよ。それに私とレグウィフは公国の主要戦力にもなっています。逃げようとしても許されないでしょうね」
――"イシリアも友人たちを見捨てることが怖い?"
「いえ、それはレグウィフに限った話です。公国や帝国の未来、戦争の勝敗に興味はありません。ただわたしは静かに、幸せに未来を生きたい……残り少ない命を彩りたい。ただそれだけで」
利己のためでも、他己のためでも戦争に参加する理由は問わない。
イシリアは己のため、彼女の婚約者は他人のため。
その狭間で彼女は悩んでいるのか。
しかし、ひとつ気になる言葉の節があった。
「『残り少ない命』とは?」
イシリアはしまった、と言わんばかりに口元を手で覆った。
やがて観念したようにかぶりを振る。
「……この際、話しても構いませんか。あなたのことは信頼していますし。わたしには持病があって、残された寿命は少ないのです」
唐突に打ち明けられた友の病。
予想だにしない宣告に私は面食らった。
こういうとき、何か言葉をかけてあげられるのが友の正しい在り方か。
されど私は言葉を紡ぐことができなかった。
「急にこんなこと言われてもびっくりしますよね。私は他人と比べて魔力量が非常に多い。それは血による天賦ではなく、『魔力中毒』という魔力を過剰に吸い込んでしまう難病のせいなのです」
魔力中毒。
聞き覚えはある。
どれだけ手を尽くしても治せない薬石無効の病。
「魔力を過剰に摂取すると体に負荷がかかり、次第に寿命は削られていきます。わたしの体は魔力を限界を超えて吸収してしまい……過剰な魔力が際限なく体を破壊していくのです。わたしがウラクスに入学したのも、図書館で『魔力中毒』の治療法を研究するためだったのですが……残念ながら治療法は確立できませんでした」
――"……それで熱心に勉強を"
「ええ。べつに勉強熱心な生徒だったのではなく、死にたくなかっただけ。失望しましたか?」
――"いや、失望などしない"
「……残る寿命はわかりません。いつ死ぬか、明日にでも死ぬか……恐怖に駆られながら私はずっと生きています。今にもくるってしまいそうで、死にたくないって心の底から思うのです」
……ああ、そうか。
イシリアにとって平時も戦時も変わらないのか。
常に明日に"死"が迫っている。
私たちが命の奪い合いをしてから感じ始めた恐怖。
それは筆舌に尽くしがたく、ひとたび脳裏に焼き付けば拭えないもので。
彼女はずっとソレを味わってきたのだ。
せめて残り少ない日々を幸福に。
そんな些細な幸福を願うことの、何がいけないのだろうか。
彼女は一切の罪過を背負う必要がない。
今まで誰にも打ち明けず、孤独に戦ってきたのだから。
――"レグウィフは持病を知っているのか?"
「はい。彼にだけは伝えています。さっきレグウィフと一緒に逃げたらどうか……なんて話をしましたが。たぶん本気で頼み込めば、彼はわたしと逃げてくれるかもしれません。残り少ないわたしの人生を彩るために、わたしのことを考えて。けれど、わたしは彼に『友を裏切って逃げる』ことを強要したくありません。レグウィフは彼らしく、正義のために在るべきですから」
――"…………"
何も言えなかった。
私のような蒙昧が、仲間のことにすら気を配れぬ愚鈍が、かける言葉があるだろうか。
今まで近しい友の悩みに気づけなかった……私のような人間に。
その日から私は『人を疑う』ことを覚えた。
しかし覚えた習性は猜疑ではない。
本質を疑うことだ。
どのような人にも腹を明かさぬ渇望と密事とがあり、そこに寄り添う者こそが本当の友だと。
私は騎士学園では得られなかった学びを、欲望に燃える戦火の中で得たのだ。