すてあ・りん
・・・・
「アリン……!」
――真っ赤な血。
倒れた地面。
誰かの声がしていた。
あたし、死んだ?
ぼんやりそんなことを想う。
あたしはアリン。
――巣亭亜 りん。
ごく普通に、中学生だった。
ただ、いろんなことがあって。
だから、いろんなことが耐えきれなくて身体中を切っていたけど、今回はやばいかも?
血は、結果だった。
この頃はただ、冷静になれるような痛みがほしかったんだ。
・・・・・・・・・・・・・
――エチル編じゃないの?
――たぶんあたしの『願い』を反映したからだろ
――それがなん年前だったかなんてわかんない。
気付いたら家族はばらばらで、あたしもぐしゃぐしゃ。
楽しかった頃のあたしなら『ああいう』の、バカじゃないかと思っていたし、わざわざ余計に傷を作るなんてって考えてたのにな。
『現実』は違った。
ストレスが極限に達したら、皮膚の方から、切れるんだ。
身体を切るようになる前から、逆剥けから沢山血が出るようになったり、口から血が出たりする。
身体が、血を流して欲しがるんだ。
――あたしもやっぱりそう。
数年ごとに、血を吐きやすくなり、あちこちが逆剥けになって血が出たり、転んだ痛さもなかなかわからなくなった。
きっと、人間は脳内に、自力で血を流せるようなプログラムされてるんだろう。
だから。数年前のあたしは、あの『自傷』が、あわれで愚かなアピールではなくて、本当に自然の摂理、ごく当然な人間の行動原理だったのだということを知った。
体感しなければ、わからないだろう。
追い詰められ、涙さえ枯れたときに、血は、自ら流れたがる。
無意味に流しているわけではなく、皮膚自身から切れていく。
ぴりりと、指先の逆剥けのような切れ目から始まり、爪は、ぼこぼこに横線を乱れさせる。
だんだんそれが目に付きだした頃、あたしはとうとう、それほどまでに身体が切望するのだという理由で、皮膚を切った。
「……これが、あたしの血」
ぽた、ぽた、と落ちていく赤を見て、感激していた。
本を読むより明らかな、スッと頭に入り込む、言葉が出来る以前の、原始的な知識の体験だった。 切ろう、なんて明るい思い付きどころか、あんなの馬鹿げてると思ってたあたしでさえ……
意思じゃなくて身体の方から、流れたがるんだって、知ることができた。あれは仕方ないのだ。
始めて腕を切りつけた日。特別な遊びを知ったみたいな、うきうきした気持ちになった。
「おはよう、母さん」
朝。
血を垂らした腕をハンカチで巻きながら、あたしは母さんに声をかけた。
正確には母さんは仕事だから、電話の向こうに。他愛ない話をして、そのあと
「おはよう、父さん」
父さんは、ジョウハツしてるから、窓の奥、空の向こうに。
それと……
「姉ちゃん、また学校に行かないの?」
姉ちゃんは、引きこもっている。
「私を生んだのがいけない! あのババアが悪い!」
ドアの向こうから聞こえる典型的な台詞。
「う~ん…… 姉ちゃん、そんなこと言ったって、いつまでも親のせいにしてる場合じゃないぞ」
あたしは、というと、姉ちゃんが引きこもるからと、先生と親と世間の板挟みだ。母さんたちは、仕事があるからどうしようもないけど……
姉ちゃんが引きこもるだけで、なぜあたしが、周りからあれこれ言われなくてはならないんだろうか?
引きこもるのはいい。
ただし、迷惑をかけるな。
それが母さんたちが言ったこと。
別に間違っちゃいない……
「あたしもう学校行くけどー」
「とっとと行けよぉっ! 私なんか、私なんか!」
変な絶叫を聞きながら、母さんが「食べなさいね」の紙と一緒にテーブルに置いていた『二人ぶん』の皿の『一人ぶん』のトーストを口にくわえる。
姉ちゃんは『二人ぶん』が、そしてあの紙の言葉が見えないのだろうか?
生んだのが悪いとしたって、あたしには関係ない。だって、悪いからなんだというんだ?
じゃあ死んじゃえばいい。
あたしは焼き加減が微妙なトーストをかじりながらいつもの靴を履いた。
「成長しないなぁ~」
じんじんと痛む腕からは、まだ血が伝っている。
10万のパソコン買ってもらったら勉強する、
とか言ったくせに、
さっさと折れてネトゲと逆ギレしてる姉の気持ちなど、あたしにはわからないよ。
え?
あたしの不満の理由?
――さきほどまでの一連をクラスに相談したらいじめられているのだ。
先生も含めての批難の嵐。
『世界よ、これがリアル日本だ』
ってカンジ。「引きこもったことあんのかよ?」
というやつまで庇護する不思議ワールドである。
そんな教室に、意気揚々と乗り込むのにはもう慣れた。
「あぁ~ら。アリン、おはよう!」
高橋なんとかが、わざとぶつかって来たのをめんどくさいのでスルーして席に着く。
「かわいそうなお姉さまの様子はどうかしら」
……あたしは、パソコン買えとか請求したことないぞ。
やっべ、つい考え事をしてた。
ハッとして顔を上げて聞き返す。
「ん、バカハシさん何か言ったー?」
「ばっ……!?」
あ、本音が。
「本当に! 教育がなってないんじゃなくって!?」
まだホームルームまで時間あるな……。あたしは時計を確認しながら机に頬杖をつく。
後ろの方でひそひそと声がしていた。
・いじめられるやつは心が優しい
・言いたいことが言えない
・我慢している
・気をつけてやればいいのに
あたしが言われないことばっかりだなぁ。
そしてお前ら、『この』あたしによく言うな。――あぁ。
このように、 気づかれないし、心優しいあたしだからいじめられんのか。
そしてそれを口にしたら余計いじめられる、と。
ここ、テストに出るよー。
鞄を手に教室から出て、あたしは廊下を歩く。
行き先は保健室。
腕が、さすがにハンカチじゃきつくなったからだ。
――なんで腕を切ってるかなんて理由はない。
最初に伸べたように、身体がだんだんと、
『そう変化する』それをあたしは目撃してきてる。
保健室に行く。
中は運動会とか体育の後じゃない限りは大抵静かだ。
さて先生は、と辺りを見渡していたらちょうど中に居た白い子とぶつかってしまった。
「あ、お客さ……きゃっ!」
みたいな感じな声をあげながらそいつが硬直する。
「あ、わりい」
「う、うぅ……」
頭を押さえながらぷるぷる震えていたが、そいつはすぐにがばりと顔をあげた。
「あら、巣亭亜さん!」
ただ今いじめられっ子中のやつに、こんな明るく話しかけてくるやつはそういない。
「おぉ」
だからちょっとびっくりだ。
「あんたは……えとぉ……」
「私?私はEthyl・芽知留。みんなからはエチルって呼ばれてるわよ」
少し舌足らずな話し方で少女が答える。
「はぁ……」
「それより、熱? 怪我? 仮眠? 早退?」
「エチルにはかんけーないっ」
腕を切ったことなんか、エチルに言ってどうなる。
「少しはあると思うけどな」
エチルは少し拗ねたような表情を見せた。
「はい、座って!
私も暇だから、手当てしてあげる!」
そして強引にあたしの腕を引き、近くの椅子に座らせる。
それから少しずつ、エチルとは知りあうようになった。
そのくらいからだ。
あたしは謎の発作に見舞われるようになった。 血がほしい。
血が……!
身体がいうことを聞かずバクバクと心臓が暴れる。
それが授業中でも、ご飯のときでも、構わず現れるようになったのだ。あたしはもちろん吸血鬼でもヒルでもないから、血吸いなどしない。
頭がぼーっとしてくるといつもあたしは血のにおいを欲して、階下に行き身体中を切りつける。
なんだこれ、やばいやつじゃんか。
そう思いはするのに、血が、無くちゃ……血、が。
頭はそれしか浮かばない。
――授業中、人が居ないのは必然的に下の階だ。階段をヒョイッと飛び越えていく。あたしは身軽な方だしせっかちなので、よくこうやって窓や階段から飛び降りる。
……死なない程度に。
スタッ、と着地出来ると結構気持ちがいい。
おとなしく段が降りられないのかって?
降りようと思えば降りるが、隣の手すりを滑る方がわくわくしてしまうし、数段くらいなら逆に足が絡まりそうだから飛ぶのが早い。
体操選手とか超楽しそうに見えてしまうくらいなんだが、残念ながら身体は柔らかくはない。
ピョン、ピョン、と階段を降りていくと最後の踊り場に階下に……人が居た。
「ちっ。飛べないじゃねーか」
白銀髪の子。
Ethyl メチル だっけ?芽、知、留。
外国から来たのかな。
「あら~、すごい、身軽!」
「あたしの理想は、昔見た活劇みたいにくるくる回ってからスタッ! なんだがな」
なんかバカにされた気分になりつつ、照れ隠しに低い声で言う。
「でも、充分すごかったよ!」
彼女は、にっこりと笑顔を見せた。
「あたしは急いでんだよ」
そう。急いでいる。
昇降口の隅とかに行き、血を流さないと落ち着けない。
その日、その時間はちょうど授業中だったもんだから、あたしたちはサボりとなってしまう。
「エチルは、サボり?」
彼女は寂しそうに笑った。いちいち笑うやつ。
「そんなとこね」
「あなた、身体がおかしくならない?」
通り過ぎようとしてたあたしの耳が、その言葉を拾い上げた。
――は?
「私はなるのよ。病院じゃ、思春期特有とか言ってるけど」
「おかしくってなんだ」
「そうね。健康で正常値な範囲で元気になりすぎる、とか。今みたいに、身軽になりすぎる、とか」
「っ……」
まるで自分のことを言われたようだった。
あまりにも、正常。
なのに、あまりにも、血が欲しかった。
病気? 障害? ちがう。そうじゃない。
そんなんじゃない。
それは。
「「まるで、自分のなかに、既に 何かが存在するみたいな」」
エチルとあたしは同時に口を開く。
「エチルも、まさか」
「私も、そう。血はほしくないけど、たまに時間が止まったみたいに感じられるの。うまくいえないけど」
「時間?」
エチルは頷きつつも言った。
「私の時間は壊れた」
そのときは意味がよくわからなかったけど……ただ、とても悲しい目をしていた。