忙しない町
僕らの目的地は、山の麓にある大きな町だ。そこには多くの店屋が立ち並び、食料や雑貨、娯楽品等大抵の物はここで揃えられる。牛車や物売りが忙しなく行き交い、人通りも多く、僕らの住む場所とは全くの別世界である。僕らはそんな栄えた町を目指し、荒れた細道を下って行った。
孤児院から町までは細い一本道で、迷うことはない。近くに民家等が無い為、僕ら以外殆ど人が通らない道だ。その所為で道のあちこちが陥没していたり、酷く泥濘んでいたりしていてとても歩きづらい。ただでさえ長く辛い坂なのに、この悪路が更に負担を大きくしている。帰りは地獄だ。
山を下りると、それまで生い茂っていた草木は姿を消し、頭に被る日除け笠だけが唯一の日陰となった。白く光り輝く太陽は、まるでその存在を天下の総てに誇示するかの如く中天に座し、じりじりと照り付ける眩い陽射しが容赦なく体を熱した。
町に着いたのは昼頃だった。凹凸無く綺麗に均された太い道が真っ直ぐに伸び、その両側にはずらりと店屋が建ち並んでいる。その道に沿うように、暑さの象徴がゆらゆらと立ち上っていた。人も物も家も遠くの景色も、それら全てを幻のように揺らす陽炎は、見ているだけで気が滅入りそうだ。
この噎せ返るような暑さの中、僕らは荷車を引いて歩いた。あちこちで物売りが客を引き、店屋の店主も負けじと大声で客を呼び込んでいる。賑わう客の中には、面倒な物売りに捕まって迷惑そうにしている者もいた。そして道の真ん中では、時折、鈍鈍と牛車がごった返す群衆を割いて通った。この暑さだというのに、よくもまぁ賑わっていられるものだと常々思う。
ここの町へ来る度、僕は何とも形容し難い感覚を覚える。ここは確かに、僕の住む国と同じ国である。だが人や物が目紛るしく行き交うこの町は、まるで異界にでも来たかのような新鮮で不思議な刺激があるのだ。山を下りれば、これ程までに環境が変化する。山奥で生まれ育った僕にとっては、こうして買い出しにでも来ない限り、知ることのなかった世界である。
この世には、僕の知らないことがまだ沢山あるのだと感じた。
「そこの坊ちゃん達、お使いかい?」
まずは軽い物からと、紙や墨を求めて歩いていたところを、後ろから男に声を掛けられた。桶を吊り下げた天秤棒を担いでいる物売りだった。
「そんなところです」
「あぁ、ちょっと頼まれてな」
「そうかいそうかい、そりゃ偉いねぇ。ところで、その大層な荷車には何を乗せるんだい?」
「米とか運ぶんだよ。台一杯に乗せてな」
「へぇ、この炎天下にそりゃ大変だ。どちらまで?」
見たところ、この物売りは文具を扱っていない。求めている物ではなかったので、立ち去ろうとそのまま歩き続けたのだが、物売りはお構いなしに付いてくる。
「あの山の向こうだよ」
と、慶祐は明後日の方向を指差した。意味のないやり取りに、答えるのが面倒になったのだろう。だが方角は違えど、山の向こうと言う表現はあながち間違ってはいない。僕らは遠くから来たのだ。
「成程ねぇ、田舎に住む家族の為にここまで出向いて来たって次第かい。どうだい、その家族に一つ、油を買って行くってのは」
「......ふむ、油か」
「おうよ、天麩羅用に行灯用、髪油までございやす。他んとことは違って質のいい油で、臭い煙なんて出やしねぇ。黒く汚れる油とはおさらばでい」
「......それはいいな」
「お、早速お買い上げで?」
突然、慶祐が立ち止まった。文具ではなかったが、油は元々買う予定だったので今買うか悩んでいるのだろう。
「辰巳、今買っても平気か?」
「別に大丈夫だけど」
「そうか。油屋さん、菜種はいくらなんだ?」
「一升五十銭だ」
「よし辰巳、別の所にしよう」
「そうだね、僕らは安い油でいいや」
「待て待て待て、悪かった。四十五銭ってのはどうだい?」
「......それでも随分高いな」
油屋は慌てて売り値を改め、立ち去ろうとする僕らを止めた。成程、この人は僕らが子供だからと、高い言い値で銭を巻き上げるつもりだったのか。親切そうに振舞っておいて、全く油断も隙もない。
でも、何度も買い出しに来ている僕らを甘く見ないでもらいたい。いつもお世話になっている所では、三十銭ちょっとで買っている。こんな倍近くするような箆棒に高い値段に食い付く程間抜けではないのだ。物の相場は把握している。
「もう少し何とかならない?」
「僕らそんなに裕福じゃないです....」
「......いやぁ参ったねぇ、こっちも商売なんでよぉ....」
僕らは値引きを要求した。このお金は、院長が汗水流して得た大切な物だ。節約して、少しでも長く持たせなければならない。安く多く買うのが僕らの役目、一厘足りとも無駄にはできない。
僕らは真っ直ぐに油屋の目を見据え、彼の中の善心が揺れ動くのを待った。
「......わかった、苦労してるあんたらを労って最後の大値引きだ。四十銭なら文句ねぇだろ」
すると、やれやれといった感じで五銭引いてくれた。これが、この人の言う労いなのだろう。
僕らは、これ以上の値下げは期待できないと見切りをつけた。ここで買う必要はない。
「なんだ、それじゃあ平戸屋の女将さんの所で買った方がいいな。あそこならお茶も出してくれるし」
「そうだね。悪いね油屋さん、僕ら別の所で買うよ。こんなに高いとは思わなかった!じゃあね!」
「あっ、ちょっと......!」
最後の煽り文句を言い放ち、僕らは去ろうとした。それが効いたのか、油屋は吹っ切れたように大値引きをしてみせた。
「えい畜生っ、ここまで値切る客は初めてだぁ!もう儲けなんて要らねぇ!二十銭で持って行きやがれ泥棒ーっ!!」
「おぉ、流石だぜおっちゃん!」
「ありがとう!」
普段よりもかなり安く買えた僕らは大満足だった。油屋の方はというと、あまり気分がよろしくなさそうであった。
(「おいおい聞いたか、一升二十銭だってよ」)
(「本当か!?そりゃ安いな!」)
(「俺ちょっと桶とってくる」)
油屋の渾身の安売りを聞きつけ、町の客達がぞろぞろと集まって来た。こんなに込み合っている通りだ。特別大きな声を出さなくとも、僕らのやり取りは周りに筒抜けである。
「そこの油屋さん、俺にも売ってくれ!」
「俺は菜種二升買うぞ!」
「私にもおくれよ~」
「どけどけ、俺が先だぁ!」
あれよあれよという間に人集りになり、我先にと油を求める客で溢れ返った。よかったじゃないか、町一番の客引き名人だ。
「......いやぁ~、その、これは違ってよぉ。今回限りのもので......」
「おいおい、贔屓は良くねぇぜあんた。誰にでも平等に売るのが商売人ってもんだろ?」
「そうだそうだ!」
「......いやぁだから、これは..........くそっ!これじゃあ商売上がったりだ!この油屋甚兵衛、これにて閉店と致す─────さらばだっ!」
「あぁっ、待ちやがれい!」
「逃がさんぞぉ!」
不利を悟った油屋は、脱兎の如き逃げ足で駆け出した。そして押し寄せた人群れも、その後を追って去っていった。全く騒がしい町だ、何度来ても飽きやしない。
僕らはそんな喧騒を背に、買い出しを続けたのだった。