蝉の声より大きな言葉
今日は、蝉の声が聞こえてきた。
日が軽く照り付けているお屋敷の縁側。そこに、少女が一人座っていた。庭師が手入れをしている庭を一望できるその場所に座って音を聞くのが彼女の楽しみの一つだった。
彼女はこのお屋敷の娘さんで、ずいぶん昔に目を悪くされてから、こうして音を聞くのを楽しみしていると聞いている。自分は、そんな彼女が危ないことをしないようにと呼ばれているお目付け役のような物で、本来なら女性が呼ばれるべきなのだが、昔馴染みという事で自分が彼女の世話役に選ばれていた。
とはいっても、彼女が行きたい場所への送迎をしたり、勉強の補佐をする程度で特別なことは何もない。何もなくていいのだが、そんな日常の中でも、彼女が音を聞くタイミングが密かな楽しみになっていた。
なんというか、穏やかな時が流れるのが好き、というべきか。
今日もこうして彼女の後ろで音を聞いて――。
「どうかしましたか、××さん」
ふと、蝉の声に耳を傾けていると彼女が振り返らずにそう言ったので、動揺する。
振り返らなかったことにではなく、彼女の楽しみを邪魔するつもりはなかったので、音一つ立てなかったのに気が付かれてしまったからだった。
「い、いえ。申し訳ありません。お邪魔でしたか」
そう答えると、彼女は耳をこちらに傾けて、聞きやすい体制をとってくださる。
「いいえ。音を聞いていただけですから。××さんはどうしてこちらに?」
「申し訳ありません、お嬢様。お声がけするべきでしたね。もうすぐ日が照ってしまう時間になりますので、部屋にお戻りなってください」
「はい、ありがとうございます」
五月蠅い蝉の声で彼女の声を阻害されそうになりながらも、行くと返事を返されたので静かに待つ。しかし、いくら待っても彼女が部屋にもどろうとする気配はなく、彼女もこちらに耳を向けたままほとんど静止していた。彼女の首筋に、大きな汗が一筋流れていた。
体が弱いわけではないのは知っているが、このままここに座って体調を崩されてしまってはいけない。
そう思って再び声をかける。
「あの、お嬢様」
「はい?」
「お言葉ですが、そろそろお戻りに……」
「××さん。ここにきてくださいませんか?」
突然彼女はそう言って、ご自分の隣を触り始める。一瞬彼女の意図を理解できなくて、理解した瞬間にも意味が分からなくて、思わず「は」と返してしまう。
「隣に、来てください。××さん」
「どうして、でしょうか」
「どうしてもです。来てくれないと、私はここから動きません」
「しかし……」
「来てくださらないんですか?」
「……分かりました。そういうのはこれきりにしてください」
彼女にしゅんとされながらもそう言われてしまって、今の自分はきっととても苦い顔をしていたのだろう。彼女の隣に自分がいていいはずがない。そう思ったからだ。しかし、このままここに留まられてしまったらもっと困る。
渋々、彼女の隣に腰かけると、彼女はくすくすと嬉しそうに笑われた。
「これでよいでしょうか」
「ふふっ、よいです。でもお部屋に戻る約束はできません」
「お嬢様……」
「戻ったら、もったいないじゃないですか」
またどこか嬉しそうにそうおっしゃられたので、彼女の様子をうかがうと、耳をこちらに向けられて、手入れをの行き届いた髪が揺れ、柔らかそうな唇と閉じたままの瞼が見えた。
「もったいない、ですか」
「はい。私はここで音を聞くのが好きなんです」
「存じています」
「はい。今日は特に戻りたくない理由が出来てしまいましたので」
「お戻りになられない理由、ですか」
「はい」
「お聞きしてもよろしいでしょうか」
「だって――」
彼女の声に耳を傾け続けていて、気が付いたら蝉の音など、聞こえなくなっていた。