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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

夜に喰われる

作者: 春風駘蕩

「ねえ、どうする?」


食べ残しの青椒肉絲がダイニングテーブルの白い陶皿の上、暖色の光を受けて、てらてらと艶を見せている。

床には子どもの出したミニカーが整然と並べられたまま、旅客機のミニチュアを飛ばす主が戻るのを静かに待つ。

夫は食事をとっくに終えて、椅子に座ったままテレビを見ている。

私は夫の隣で使い終えた食器を重ねながら、そんな夫に尋ねたのだ。


「裕也の療育の面談が来月の二日にあるんだけど、どうする?平日だけど、来る?」


夫は答えない。

顔をテレビに向けたまま、こちらを見ない。

テレビ画面からは、連続絞殺魔が未だ捕まらないとアナウンサーが渋面を見せる。

私は少し薄くなってきた夫の頭を見つめながら、溜め息を呑み込んだ。


もうすぐ五歳になる息子の裕也に軽度の知的な遅れと自閉症スペクトラムの診断がついたのは、去年のことだ。

発語がほとんどなかった一歳半の健診の時から、もしかしたらとは思っていた。

それでも、成長が少し遅いだけだと、そのうち他の同年代の子ども達に成長が追い付くと、そんな淡い期待を持っていた。

しかし、彼の成長の歩みは遅かった。

できることは増える。

片仮名や平仮名などはあっという間に読めるようになった。

簡単なアルファベットや漢字も読めるし、車や家電製品の種類も詳しい。

しかし、コミュニケーションは一方的で、あまりお友達には興味がないようで、一人で遊んでいる。

あまり目も合わない。


聞いていた発達障害の特徴と一致する。

これはやはりそうかもしれないと、保育園の担任の先生と相談し、専門機関を受診したのだ。

結果は思った通りのものだった。

いや、杞憂であって欲しかった。しかし、やはりそうであった。

その時の心を正確に言い表す言葉を、私は持たない。

衝撃、不安、悲観、そしてそれを抑え込もうとする理性がごちゃ混ぜになって、私は曖昧な笑みを顔に貼り付けて、担当医師の話を聞いていたと思う。

それでも、私が冷静でいられたのは、裕也の存在があったからだ。

一番大変でこれから困るのは、彼なのだ。

私が混乱してどうするのだ。

私は心を麻痺させた。

悩むより、ベストを尽くさねばならない。


その日の夜、夫に結果を伝えた。

夫は私の話を黙って聞いていた。そして、こう言った。


「まあ、まだこれから他の子と同じレベルまで成長が伸びるかもしれないしなあ」


その日の話は、それで終わった。

それから、私は保育園や専門機関と連携を取り、同じような発達に問題を抱える子ども対象の教室に通った。

子ども達が教室で活動をしている間、保護者は別室で互いに子どもについて話し合う。

毎回、誰かのお母さんが語りながら泣く。

教室は平日開催だが、お父さんが休みをとって代わりに来る所、夫婦で来る所、様々だ。

そんな中、あるお母さんが泣く泣く話し始めた。


「他の皆さんは、お父さんが関心をもって来ているのに、うちの夫は誘っても来てくれない」


……どうしよう。うちも夫が来ていない。

そういえば、お父さんが来ていないのは、その人とうちだけだ。

そもそも、どうせ平日は仕事で来ないだろうと思っていたので、誘いもしなかった。

いや、断られるのがわかっているから、それを聞きたくなかったのかもしれない。

でも、もしかしたら……。

私は、夫を教室の面談に誘うことにしたのだ。



「ねえ、どうする?行く?」


返事はない。

いつものことだ。

声をかけても、大体返事はない。

難しいのだ。

返事がないから声をかけ続けると、「聞こえている」と不機嫌になる。

かといって、聞こえているに違いないと放置すると、「聞いていない」と言い出したりもする。

面倒だ。責めて詰っても余計面倒が増えるだけ。

言いたいことを呑み込んで、もう一度聞く。


「行くの?」

「……ああ、いつだっけ?」


返事が返ってきた。


「来月の二日よ。平日」

「行かない」

「……あ、そう」


話は、終了。

わかっていたけれどね。

わかっていたわ。

溜め息を呑み込む。

心を麻痺させて、目を逸らす。

食器を片付けようと立ち上がると、足元に子どもに放置された仮面のヒーロー。

打ち捨てられて、忘れられて、今、私に踏まれた正義の味方。

いっそ、全てを捨ててしまいたい。

きっと、清々しいでしょうね。何も落ちてない部屋の中、目線を上げてズカズカ歩き回るの。


「裕也!おもちゃを片付けなさい。踏んで壊しちゃうわ」

「ええー、バカなことをいうなー!」

「バカなことは言ってないわよ。ここにおもちゃを置かないで。片付けて」

「バカ!片付けない!ダメ!」


最近裕也は「バカ」を覚えた。乱暴な言葉を使いたがる。

癇癪を起こしたら手も出る。

苛立ちと溜め息を呑み込んで、食器を置いてミニカーを移動させる。

夫に言葉遣いを叱られて、裕也が癇癪を起こしている。

心を麻痺させて、食器を片付ける。

その後は、お風呂の用意をしなくちゃ。

洗濯物を畳んで、お風呂が沸いたら夫に知らせて、返事がなくて呑み込むの。

あ……。


「明日のパンがない」


買いに行かなくちゃ。




裕也が寝た後片付けを終わらせ、食パンを買いに車を走らせた。

二十四時間営業のスーパーの看板が、午前一時の夜の闇にぽとりと浮かぶ。

今夜は雲で月が隠れているから尚更暗闇が深い。

郊外の住宅街のスーパーは、平日の深夜ともなれば閑散として、人もほとんどいない。

駐車場に車を停めれば、車は私の他に誰も停めておらず、いつもは狭く感じる駐車場がひどく拡がって感じられる。

エンジンを止めて車外に出れば、秋の涼やかでしっとりした空気が肌にまとわりつく。私はそれを深く吸い込んで肺を満たし、長く吐いた。


心地よい。

国道を走る車の走行音が、遠い沖合いから打ち寄せてくる波音のようだ。

闇の中に灯る明かりの下、この何もないだだっ広い場所で、時間に追われることもなく一人の夜を満喫する。

ゆっくりと店内を見て回る。

生鮮食品は流石に品薄だ。

スカスカの陳列棚に、一枚二枚、キャベツの青い葉だけがくたりと寝そべる。

すれ違う他の客はいない。

レジの向こうに一人、人影が見えたと思えば、警備員の格好。

店の関係者なのだろう。店員と談笑している。

彼らも暇なのだ。


もっとこの贅沢な時間を楽しみたいが、平日の中日。次の日も仕事だ。

残念だけど、現実に帰らなくちゃ。

私は、カゴの中に食パンを一つ入れると、入れていない時のほとんど変わらない重さのそのカゴを、レジ係のおじさんの前に置いた。



会計を終え、足早に駐車場を横切った私は、気づかなかったのだ。

店舗の明かりが照らし出す闇の淵に、人の形をした闇が潜んでいたのを。



車のロックをキーレスで解除し、パンの入った袋を助手席に放り投げて運転席に滑り込んだ私は、ワンテンポ遅れるように助手席側から乗り込んできた男に喉を押さえ込まれていた。


「ここで死ぬか、俺を運ぶか」


驚愕と恐怖で声の出ない私に、男はそう言った。

男は左手で私の喉を掴み、私の頭をヘッドレストに貼り付けている。

首から上が固定されているため、目だけを動かし男に目を向けると、男の右手からジラリと光が目を刺した。

刃物だ。

大きさからいって、ナイフだろうか。

こんな時は、下手に逆らうべきではない。

私は固められた頭をできるだけ頷く形に、小さく曲げた。

男は喉から手を離し、同時に刃物を私の首に突きつけると、低く抑えた声で命令した。


「人の来ない場所へ行け。人の姿が見えたら、あんたを殺す」


私は、震える手で、エンジンスイッチに手を伸ばした。




どれほど走っただろうか。

人家の近くはどこへ行っても人や車が通りそうで、結局私達は衣雄山の中腹にある小さな駐車場に車を停めた。

この駐車場から続く階段を上ると、古い墓所があるらしい。

こんな時間にそんな所に行く人間など皆無だ。

確かにここなら人は来ない。

しかし、何か起きた時に助けも来ない。

どうするのが正解だったのか。

私は、ここで死ぬのか。


エンジンもライトも切らずシートベルトを外さぬまま、助手席の男に目を向けた。

若い男だ。

痩せ気味の、取り立ててそんなに特徴のない男。

着ている服も、シンプルなパーカーに黒のパンツ。

髪はボサボサで、数日は洗っていないのか油っぽさがある。

一重の瞼は真黒の瞳を半分覆い隠しているが、その目は私をじっと観察している。

品定めをされているようだ。


「あの……聞いてもいいですか?」

「エンジンとライトを切れよ」

「切ったら、話をしてくれますか?」

「……ああ」


よかった。少し話は通じるようだ。

私は約束通り、エンジンとライトを切る。

途端にあたりは闇に包まれた。

男の姿も見えない。だけど私のものではない息遣いと据えた汗のような匂いが、男がすぐそこにいることを伝えてくれる。


「これから、どうするつもりですか?」


私は男にこう切り出した。

闇が、私に答えた。


「殺す」


ひく、と喉が鳴った。

やはり、という思いと共に、恐ろしさで身体が強ばる。

男はそんな私の緊張を感じ取っている。そう思えた。何も見えないけれど、男は私からきっと目を離していない。彼の視線が私の中まで透過しているように感じられる。


ああ、それでも、男が私の反応を愉しんでいるうちは、まだ殺されないだろう。

私は男に尋ねた。


「どうして、私なんですか?」


キィィィン。

悲鳴のような静けさが耳に響く。

夜の闇の底で二人きり。心臓の音が体を驚かす。

今はまだ生きている。この鼓動が証明だ。


長いような短いような時間の後に、闇が震えた。


「そこにあんたがいたから」

「だからって、どうして、私を殺すの?あなたは何故、殺すの?」

「あんたかもしれないから」


私かも、しれない?

どういうことなの?

この人は、誰かを探している?


「私は、普通のおばさんです。もうすぐ四十になるんですよ?そもそも、あなたとは会ったこともない。私なんかがあなたの探している人とは思えませんけど」


逆上させないように、努めて穏やかに話を進める。

しかし、次の瞬間、闇の中からぬるりと手が飛び出してきた。


「ひっ……」


五本の指が私の喉を掴み、頸動脈のあたりを指の腹でなぞる。


「ここをな、絞めるんだ。すると、そいつは途端に俺だけにしか見せない顔になる。月明かりの下で見せるその表情、その瞳には俺しか映らない。俺はそれが堪らなく愛しくて、俺を宿したまま時を止めてしまえばもう……」


随分と闇に目が慣れたもののほとんど見えぬ視界の中、全ての感覚が開かれている。愛しむような指の動きと熱が、思いの外心地よい。

私は、いつしか、男の肌と熱を目を閉じて味わっていた。

男性の肌が私に触れるのは、いつぶりだろうか。

子どもとは違う骨張った硬い指が、ざりざりと表面を引っ掛けるように肌の上を蠢いている。

私は、リラックスしていた。

この指になら絞められてもいいような、そんな気さえしていた。


その熱がふいに消えた。


「だけど、足りない」

「足りない」

「そう。唯一じゃない。どこか違うんだ。俺は唯だ一人を探している。それさえみつかれば、満足して死ねるんだ」

「あなた、死にたいの?」

「底の抜けた泡沫のようなこの世界に、生きる価値はあるのか?確かなのは必ず訪れる死だけだ」

「泡沫……」


そう。そうね。

何もかも泡沫だわ。全てが夢のようよ。

私は生きているの?私は何なの?足りることなんて、あるの?

何もかもがあやふやで、私は……私が欲しいものは――――。


「そこに、いるの?」

「いるさ」


ああ、いたわ。

どうか、私に……。


「ねえ、ちょうだい」

「何が欲しい」

「熱を」


私を求める熱が欲しい。それがあれば、


「死んでもいい」


その時、闇が晴れた。

白く世界が塗り替えられる。

同時に、私の首にしなるように男の骨ばった手が伸びた。

熱。首が燃える。

ギリギリと凝縮されて、彼の中に閉じ込められる。


苦しい。

焼けつく痛み。

息が、できない。


手足が男を求めるように踊る。


嫌。

死にたい。

生きたい。

生。

死。

お願い。


もう、終わらせて。


白く染まった男の顔が見えた。

私を求める人。

こんなにも、力強く。

あなたを。


男と目が合った瞬間、彼はとても幸せそうに、嗤った。


視界が歪んで、

全て、

消える。


もう……。



……ゃ…………。








「そう、ですか。彼は……まだ……」

「はい。山の中を捜索しているのですが、今のところ山の中でみつかったのは、車中の指紋と一致する指紋のついたナイフだけです。あの男、一体どこへ消えたのか」

「……」

「何度も聞くようですが、本当に男は行き先については何も?」

「はい……。唯だ一人を探している、とだけ」

「連続絞殺魔め……」


刑事さんが苦々しく吐き捨てた。


私は、生きている。

目が覚めたら病院で、夫と子どもが心配そうに、祈るように、上から私を覗き込んでいたのだ。

私は発見されてから二日ほど寝ていたらしい。

絞められたせいか最初は出なかった声も、少しずつ出るようになり、目覚めるやすぐに駆けつけた刑事さんとも、今ではスムーズに受け答えができるようになった。


「しかし、あの男、何故あなただけを助けたのか」


刑事さんが呟いた。

あの夜、私のスマホから男の声で「××墓所の駐車場の車中で、女が倒れている」と119番に通報があったらしい。

後に私のスマホは鑑識に回され、車中に残された男のものと同じ指紋が検出された。

指紋の位置から、通報したのはあの男でほぼ間違いないようだ。


「どうして……」


どうして私を殺してくれなかったのか。

あの時彼は、確かに幸せそうだった。

ならば、私の瞳にそんな彼が映っていたはずなのに、どうして。


「刑事さん、そろそろ……。これ以上は妻も疲れてしまいますし」


夫が、刑事さんに聴取の終わりを促した。

刑事さんは、「また伺います」と言って、病室を出ていった。


「毎日刑事が来て、疲れただろう?何か、甘いものでも買ってこようか?」

「いいえ、お腹はそんなに……やっぱりお願いするわ。プリン。プリンをお願い」

「わかった」


夫も病室から去った。

私は、一人、息を吐く。

別にお腹は空いてない。プリンが欲しいわけじゃないの。

本当に欲しいものは……。


彼はどうなったのだろう。

夜の闇に喰われてしまったとでもいうのか。

いいえ。あの夜、喰われたのは私の方。

体も自我も、全てが闇に溶け出して、沈んで消え去るはずだったのに、私は生かされた。

体はここに。

私自身は今も消化されぬまま、あの夜の底に留まっている。

彼の行方は月しか知らない。


「死んでいればいい」


電動ベッドの背もたれに寄りかかり、空を見上げた私の言葉は、病室のガラス窓をすり抜けて、泡沫の如く天高い薄青に溶けて消える。

ガタリ。

反対側のドアが開いた。

保育園にお迎えに行ってくれた義母が、裕也と共に現れる。


「お母さん」

「あら、裕也、来てくれたの?」

「お母さん!」

「ふふ、重たいわ、裕也。保育園は楽しかった?」

「体調はどう?」

「問題ないですよ。お義母さん、いつもありがとうございます」


そのうち、夫も戻ってくるだろう。

いつもの日々が、また始まる。


あの夜を、置き去りにしたまま。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 立ち止まってしまわないように、何とか動けるように、繰り返し繰り返し、自ら心を麻痺させる主人公は強いと思います。 また恐ろしい予感から逃げるどころか、心構えをつくっていたことに感服します。 …
[一言] 面白かったです。 夫の子への無関心さと……。 なんと表現すればいいか分かりませんが、やはりあの時、二人は通じあったような……。 だけど結局日常に戻り、最後の一行。 本当に面白かったです。
[気になる点] これ連載じゃないんですかね??? ね??? [一言] 夫婦関係の描写がすごすぎる… スペクトラムの子を抱えた夫婦、わたしの周囲の少ないサンプルだと似たように夫が無関心、もしくは妻への…
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