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思い出、売ります

作者: 村崎羯諦

「こちらが今回ご紹介させていただく商品、『旅先でのアバンチュール』となります」


 対面に座った女性店員が分厚いアルバムを机の上に置いた。俺はアルバムを手元に持ってきて、最初のページを開く。中には異国情緒溢れる写真が綺麗に収められていた。石造りの建物が両脇に並ぶ大通り。外国人カップルがお喋りを楽しむオープンカフェ。街の中心を流れる運河。俺は一枚一枚を食い入るように観察する。逆光で全体的に暗い写真も、少しだけ角度がおかしいアングルの写真も、どれもが旅先の息遣いをリアルに感じさせるようなものだった。


「これは提供者が大学三年の長期休み、ヨーロッパを一人旅した際の思い出となっております。七泊九日の旅の中で、提供者はイタリア、ギリシア、ドイツなどの各国を民宿に宿泊しながら巡ったようです。今ちょうどご覧になっているのは、ちょうどイタリアのベネチアを観光している最中の写真ですね」


 俺は店員の説明を聞きながら、次のページをめくる。同じような街並みを撮った写真が並ぶ中、右端に一人の可愛らしい日本人女性が写った写真が貼られていた。写真の女性は大学生くらいの年で、ぎこちないピースサインとはにかんだ笑顔をカメラに向けていた。


「お気づきになりましたか?」


 俺が写真の中に映る女性を見つめていると、店員は少しだけ声の調子を上げて言った。


「この女性がこの旅での恋のお相手となります。この女性は分子生物学を専攻している関西の大学院生で、提供者と同じく、長期休みを利用してヨーロッパの一人旅をしていた方なんですね。旅先のバスで偶然隣の席に座り、趣味が同じ読書ということもあって、意気投合。その流れで残りの旅程を二人で回ることになったようです」


 次のページをめくると、女性の姿が写った写真の比率がぐっと増していた。土産物の前で、売り物の民族帽を試着している彼女。支柱に手を置き、好奇心に満ちた目で神殿を見上げる彼女。移動中のバスでウトウトと微睡む彼女。彼女の膝の上には、読みかけのフランツ・カフカの『審判』が、裏返しの状態で置かれている。


「旅の中で色んな話をして、同じものを見て感動して、宿代がもったいないからという理由で二人部屋のホテルに泊まって、それから……まあ、やることをやったというわけです。その写真がその時のホテルで撮った写真です」


 店員がアルバムの中の一枚の写真を指差した。半裸姿の彼女がダブルベッドの上に仰向けに寝転がり、眠たげな視線をこちらに向けていた。女の色気を帯びたその瞳は少しだけ濡れているような気がした。


 俺はページを黙々と捲りながら店員の説明を聞き続けた。女性とそういう関係になったことも、外国に行ったことも、ましてや大学にいったこともない自分にとって、それらはおとぎ話みたいなものだった。俺は

一枚一枚ページをめくり、写真の中の彼女の姿を目で追った。ページが進むにつれて、彼女とカメラとの距離は近づいていき、そして彼女は綺麗になっていった。


「これを……私の思い出にできるということなんですか?」


 俺は顔を上げ、店員に尋ねる。その通りです、と女性店員は頷き、説明を続けた。


「この思い出は私達がすでに買い取り済みでして、元々の提供者もこの思い出に対する権利を放棄しています。そのため、今日契約のサインをしていただければ、その時点からこの思い出はお客様のものとして法的に認められることになります」

「でも、この女性については……」

「その点についてもご心配なく。すでに我が社から彼女とコンタクトを取り、正当な価格で、思い出に対する権利を買い取ってあります。そのため、彼女から思い出に対する権利確認訴訟が提起されることもありません。で、肝心のお値段なんですが……」

 

 女性店員は一呼吸置いた後、机の引き出しから見積書を取り出し、俺に差し出した。俺は見積書の上に記載されている思い出の買取価格を確認する。フリーターの自分にとって決して安い金額ではない。それでも、この思い出が自分のものになるという可能性は抗いがたい誘惑だった。


「弱い人間であるならば、自分を誇れる人間でないならば、縋りつける思い出を一つでも多く持っておくべきだと思いますけどね」


 俺は目を閉じ、色彩を欠いた自分の過去を振り返ってみる。その中に、今の自分の生活を精神的に支えてくれるような思い出は見当たらなかった。この思い出さえあれば。この思い出さえあれば、罵倒される毎日も、嘲笑される毎日も、少しは楽になるのかもしれない。


「買います」


 俺が震える声でそうつぶやいた。店員は満足げに微笑み「お買い上げありがとうございます」と機械的に言葉を唱える。俺の意思が変わらぬうちにと、彼女はすばやく契約書を引っ張り出し、俺にサインをするように促した。俺は分割払いで支払うことを告げ、店員にクレジットカードを手渡す。そして、机の右に置かれたボールペンを手に持ち、手の震えを抑えながら、契約書にサインをした。


 店員は契約書を受け取り、その控えを俺に渡す。その後、思い出に対する権利うんぬんの事務的な説明を一通り行った後で、手続きはこれで終わりだということを淡々とした口調で告げた。俺は店員からもらった手提げ袋に契約書とアルバムを入れ、立ち上がる。店員も立ち上がり、先回りして店の扉を開けてくれた。俺は軽い会釈をした後で、ふと脳裏によぎった考えを店員にぶつけた。


「あの……高いお金を払ってはいるんですが、本当に俺がこの思い出をもらって大丈夫なんでしょうか?」

「というと?」


 店員はキョトンとした表情を浮かべながら聞き返す。


「いえ、元々の持ち主に少しだけ申し訳ないと言うか……。だって、こんな素敵な思い出を手放すわけですから……」


 俺がとぎれとぎれにそう説明すると、店員は手を口元にあて、おかしそうに笑った。そして彼女は、悪意の一切ない、穏やかな微笑みを浮かべながら言った。


「アハハハ、大丈夫ですよ。元々の持ち主の方は、他にもたくさん素敵な思い出を持っていますから。お客さまとは違って(・・・・・・・・・)


 またのご来店お待ちしております。店員は無邪気な笑顔を顔に貼り付けたまま、ゆっくりと店の扉を締める。俺は呆然とその場に立ち尽くしたまま、右手に持った手提げ袋へと視線を落とした。俺は袋の中からアルバムを取り出し、感情のままにそれを持っている手を振り上げた。しかし、俺はその態勢のまま固まり、ゆっくりと振り上げた腕を元に戻した。俺はアルバムを両手で抱え、力強く抱きしめる。俺はざらざらとしたアルバムの表紙をそうっと手でなでると、写真の中の彼女の姿がまぶたの裏に浮かんだような気がした。そのまま俺は背中を丸め、誰にも盗られないように強く強く抱きしめたまま、思い出を売る店を後にした。

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