認識の差
今日は何だか気が乗ったので、珍しく教室に居残って勉強をしている俺だったのだが……何やら前方の席からただならぬ視線を感じる。
「ね、ねえ、ちょっといいかな」
本来そこに座っている筈の彼は先程、部長の立場からか無線部に筋トレをしに行ってしまった。であれば、席は空いていなければおかしいだろう。
「夢の国っていうテーマパーク、知ってるでしょ? あれのペアチケットが偶然……そう! 偶然当たっちゃって! それでね、その……一緒に、い、行かない?」
しかし、俺の視界の端には映るのだ──何者かの姿が。
「も、勿論嫌なら良いの! でも、もし良かったらなぁ……なんて」
俺は相手と目を合わせると死ぬ呪いを持っている。間違っても顔を上げる訳にはいかない為、八割脳内補完頼りの断片的な情報しか分からないが、髪が長く、薄いベージュのベストを着ていて、身長がそれ程高くないという事が判明した。
これらの事から、その何者かは本校に在籍する女生徒ではないかと考えられる。
「で、どうかな!?」
では何故、仮称“暫定的女生徒”は無線部部長の彼の席に腰をおろし、少なくとも前方に身体を向けていないのだろう。そして、何もありはしない虚空に向かって独り言を喋っているのだろうか。新手の宗教か? 世も末だ。
「……もしもーし?」
ああいや、一昔前に書籍化し存在が明確化された、所謂“エア友達”がいらっしゃるのかも知れない。だとすると納得がいく。こと友達との会話において、女子高生は他の追随を許さないのだ。それはこの三年間で学んだ知識である。だからこそ、俺は何もしない。嵐を前にした時、耐え忍ぶ事こそが最も賢い判断なのだ。
謎は全て解明した。さあ、勉強の続きを──
「ねえ、佐藤君ってば」
──瞬間、全ての動作が停止した。鼓動や呼吸もである。
素早く再起動しペンを走らせる。何事も起きなかったと相手に錯覚させる技術を遺憾なく発揮し、同時に混迷を極める思考を整理する。
もう暫定ではなく断定するが、彼女は今、一体何と言った?
俺の他に佐藤という姓名の生徒は本校に在籍していない。いや一年生や二年生の中にはいるのかも知れないが、それは俺の知らぬ所であるし、わざわざ上級生の教室に上がり込む勇者はいくら本校であってもそうはいない筈だ。もしいるのであればその蛮勇を讃えてやろう。何処かに名前を彫ってやってもいい。
……いやそうすると俺のでもある名前が証拠として残ってしまうのか。それは不味い。そんな事をしたら特別指導まっしぐらである。就職が差し迫った今、尚更避けなければならない事だ。止めておこう。
話が逸れた。そうだな、残る可能性は先程の“エア友達”が佐藤という名前を持って生まれたという事か。であれば俺は何も出来ないばかりかする必要もなくなり、話は全く別のものにな
「ヘァッ!?」
「きゃっ」
何だ! 何が起きた!?
思考を加速しつつ紙の上で滑らせていたペン、使い慣れたそれを握る右手に何かが触れた。柔らかく、瑞々しく、しかし得体の知れない何かが!
事態を探るべく、重々しく机から顔を上げると、やはりと言うべきか、そこには黒髪の女生徒がいかにも驚いたと言わんばかりの表情をしてこちらを凝視していた。勿論俺は彼女の目を見ていないが。精々が鼻か口周辺である。
「びっくりした……ご、ごめんね? いきなり触っちゃって。でも佐藤君凄い集中してたし、もしかしたら聞こえてないのかなーって思って」
佐藤は俺だ。
こんな成りでも考えながら手を動かすくらいの事は出来る。自分で言うのもあれだがそこそこ集中していた。
そして、女生徒はこちらを見ている。振り返って見ても、後ろの席の髭仲間の彼もいない、いや、何時の間に帰ってしまったのか、この教室にいるのは俺と女生徒のみだった。
色々と恐ろしい状況だが、まずは確認をしなくてはならない。
「ぼ、ぼぼっ、僕の事ですか……?」
「さっきからそう言ってるよ?」
「し、しゅみましぇん!」
「い、いや怒ってるわけじゃないから! そんな謝らないでよ」
これはあれか。口下手に対する神の嫌がらせか。そうに違いない。何故俺を、他でもないこの俺を女子と会話させたのだ? 意味が分からない。
「でさ!」
「ハヒィッ」
「行かない? と言うか、行こ!?」
「ゔぇっ!?」
話が飛びすぎている。行くって何処にだ。地獄か。今まさにそこに居るのだが。
「……ダメ、かな」
「ぇゃ、だ、大丈夫れす」
「ホント!?」
なんて口だ。十年来の友人はいとも容易く俺を裏切った。この地獄から生きて帰れたらもぎ取ってやる。
「やった! あのね、これ今日から使えるの!」
今なら分かる。出荷される歌の家畜は、こんな気分だったのか。諦めと悲しみが胸に去来した。
「行こう! 今すぐに! ほらノートなんてしまってさ!」
またもや手に何かが触れる。今度は握り締められているようだ。その感触すらも何処か他人事だった。
かくして、俺は生き地獄を三時間程味わう羽目になる。ああ、俺が何をしたと言うのだ。