O.Z.からの話
「進行は思ったより遅いようだね。うん。上々、上々」
ジジジ、と耳障りな音を立てながら印刷された検査結果表にざっと眼を通し、報告する。
少し長い前髪の間から見える彼の瞳に、僅かな安堵を感じた。普段あまり表情を変えない彼の、珍しい瞬間だ。
カルテに"経過診察継続"と走り書きを残す。ごちゃっとした棚から個人ファイルを取り出して綴じる。
ゆっくり診察台から身体を起こした彼に、少し咎める意を込めて叱る口調を当てる。
「ちゃんと定期的に来なきゃ駄目だよ、これからは」
上着を羽織っていた患者は動きを止め、伏し目がちにぼそりと呟いた。
「…すみません」
その謝罪に続けて言い訳じみたことを続けないところが、彼の良さの一つだと思う。
純粋さではなく、素直さだ。
さて、せっかくここに来てもらったのだから、他愛の無いことでもお話ししたい気分である。
彼はきっとそんなこと望んでいないだろうしすぐに帰るつもりなんだろうけれど。
訪問のノックが鳴るまで続けていた文献資料探しを再開しながら、喋りかけることにした。
頭の中の書庫を漁って検索する。彼が所属する小隊の他三名は、確か。
「リナルド君は相変わらず重度の喫煙を続けているのかな?」
すらりと背が高い体型。切れ長の眼に泣きぼくろ。狙撃兵らしからぬ、いい具合に力の抜けた雰囲気は、
色男と呼ぶに相応しい立ち居振る舞い。その瞳が戦場でどれほど冷酷に輝くのか、一度見てみたいものである。
答えは返ってこないが、それを勝手に肯定と判断し続けていく。
「この間会った時も本数を減らすように強く注意しようとしたんだけどねぇ…また上手くかわされてしまったよ。
せっかくの良い素材なのに、自ら寿命を縮めるだなんて信じられないんだが、ね」
あ、俺が言えた立場じゃないか、と湿気た紙巻煙草をくわえながらへらりと笑う。
精神的身体的ストレスの多い"前線の兵士"達にとって、気持ちを紛らわし忘れさせる物は必要不可欠だ。
麻薬に走る連中も少なくない中、そっちに逃げなかった彼とその仲間を称えたいと思う。
「それと、…ティーゼ君か」
並ぶように背が高くがたいの良い身体に、狼のように睥睨する鋭い目つき。
眼鏡の奥からでも滲み出る頑強さは、ちょっとやそっとじゃ折れることは無い彼の心その物のである。
「彼の心配は最初からしていない。あの奇跡的なまでに強靭で壮健な体は、まさに素晴らしいの一言だね。
そのエネルギーの源は何なのか、是非一度、細かく検査させてもらいたいものだ」
そういう人間は大半、"病院"という場所を嫌う。"医者"という存在も嫌う。出来るだけ無縁でいたがる。
でも、そういう人間だからこそ興味が湧いて手にかけたいと思うのは、研究者の端くれである性なのだろうか。
「あのエニルマ君も至って元気だろうなぁ。彼も健康体その物、だから」
ふわふわの猫っ毛に人懐っこい丸い瞳。自由奔放ながら、その眼には状況把握の才が宿る。
いつも柔和な表情の裏に、強大な暗闇と逸した残忍さを併せもった、この四人の中では一番の曲者かもしれない。
「兵士が皆、彼くらい人当たりが良ければ、もうちょっと会話の弾んだ
楽しい日常生活が送れると思うんだけれども、それは求められていない幸せ、なのだろうなぁ」
あの"特別実験体"は、自分程度の人間じゃ診させてもらえない。"変人"と褒め称えられている自分からしても、
もっともっと薄気味悪く危ない人らによって、堅く守られ監視されているのだ。そうっと外部から視察するに限る。
ここまで患者の反応はほぼ皆無である。語りかけたはずの言葉たちは物の見事に独り言となって辺りにばら撒かれた。
何も言わないことで関与を拒否しようと目論んでいるかどうかは知らないが、それを逃がす自分ではない。
「君も君で、大変興味深い人間だ」
形ばかりの整頓中である手を止めて、きちんと彼を見据えた。
ベッドに腰掛けた彼の目線に合わせるようにかがむ。ずい、と前に出て距離を詰め、濃く青い瞳を覗き込んだ。
「一体どういう心情で、今この立場に居続けているのか。
祖国の違う一癖二癖ある彼らを、どうして仲間と慕い命を預けられるのか。
その覚悟は実に興味深い」
分からない、という点では、彼ほど内側の読めない人間に会ったのは久し振りである。
兵士としては小柄なその矮躯に、容量過多なくらい重々しい過去を詰め込んで固く閉じられている。
耐えかねたのか、彼はふと横へ視線をずらすと、顔を背けたまま話題を変えてきた。
「先生は、最近忙しいんですか」
ようやく開かれた彼の口からは、予想を少し外れた自分への問いかけが返ってきた。
身体を起こしそのまま後ろへ反って伸ばす。腰に手をあてゆっくり捻る。
「俺かい?うぅん、そうだねぇ、少し前までは作戦からの帰投が重なって立て込んでいたかな。
あとはまぁ、個人的な研究で日々忙しくはあるけれど」
こみ上げてきたあくびを噛み殺しながら返答を続ける。
「唯一の救いは、こっちに来てからは精神病棟を任されてない、ってことだろうな。
あそこに居続けたら、例えこの俺でも一週間で滅入るんじゃないかと予測している」
人手が足りないから来てくれないか、彼らの話を聞いてあげるだけで良いんだ、と
同僚の軍医に何度か応援を頼まれたことがある。のらりくらりと有りもしない理由でかわして結局関わらずにきた。
廃れて使い物にならなくなった玩具を見るより、軋みながら狂う生ものを観察する方が断然甲斐がある。
中央に在籍していた時に、嫌と言うほど"人間の心"を見せられてきた。もう、いい。もういらない。
怪訝な顔をしてこちらを見る患者へ、救いようのない慰めの言葉を贈った。
「大丈夫、安心したまえ。俺からすれば、君達は全員"精神異常者"だよ」
もちろん、俺も含めて、ね。眼鏡を押し上げ自虐的な笑みを浮かべるのも忘れない。
懐疑の色が困惑に変わった。そう、よく眼を見れば、彼の感情はそこに映し出されている。
もしかしたら彼は、この上なく澄みきった精神を持っているからこそ、
くすんだ自分では透し視ることができないのかもしれない。つくづく楽しませてくれる人間だ。
「…ふむ、長らく引き止めて悪かった。常務に戻ってくれて構わないよ」
頭を掻きながら促す。彼にも彼の仕事がある。さすがにいつまでも場から外れてもらうのは忍びない。
彼はこくり、と頭を下げ、ベッドから立ち上がった。
「次はいつ、出るんだい?」
ドアを開けた患者の背中に、何気なく問うてみた。
立ち止まってちゃんと教えてくれる。
「明後日です」
「おや、これまた随分と余裕のないスケジュールだね。この間帰ってきたばかりじゃないか」
「普段と変わりませんよ」
そう言って振り向いた彼は、微かに笑ったように見えた。
俺にとっての日常は、彼らにとっては非日常であり、彼らにとっての安寧は、俺にとっての余暇である。
同じ一つの軍に所属する身だと言うのに、息づいている世界は同じのはずなのに。
どうしても差異が生まれるのは、歩んでいる道が寄り添っていながらも平行線を描くからだ。
自分が銃声飛び交う戦場に立たなくなって、何年経っただろうか。
非力だと思い知らされるあの現場に無理矢理居続けたならば、俺は今よりも多くの知識を得られているのだろうか。
自分の中の"興味"の意が、"羨望"だと知るのはまだ先の話だ。
「仲間の三人にも、よろしく伝えといてくれ。たまには、怪我して来なさいってね」
「…はい」
会釈と共にドアが閉められる。彼の場合、冗談抜きに伝えかねないな、と苦笑しつつ、古ぼけた回転椅子に腰掛ける。
今度はちゃんとのびのびした大きなあくびを一つ出して、冷めきったホットコーヒーを啜った。
…つづく
2013/9/11