第四夜
2025.6.10 大幅改稿
「姫様……沙夜姫様!」
自分の名を呼ぶ声に沙夜姫は目を覚ました。
どれくらい眠っていたのだろうか。うっすらと目を開けた途端、眩しい日差しが差し込んできた。どうやら朝を迎えたらしい。
「沙夜姫様!……どうか目を覚まして下さい!」
その声の主は十兵衛だった。今にも泣きそうな顔で、沙夜姫の身体を必死に揺すっていた。
「い、痛い。十兵衛。もう目は覚めておる!」
「本当にご無事ですか?その出血はどうされたのですか?」
沙夜姫は喉元に手を当てた。不思議なことに傷跡は綺麗に消えている。しかし身につけていた着物は血に染まり、いたる所が破れて肌が露出していた。沙夜姫は肌を見られまいと咄嗟に身体を丸めた。
「大丈夫だ。ちょっと首に怪我したが……うん、全く問題ない」
「いいえ、駄目です。早く手当をしないと」
十兵衛は沙夜姫の方へと手を伸ばした。一瞬、昨夜のことを思い出した沙夜姫はその手をはたき除けると、一人で立ち上がった。
「本当に大丈夫だと言っておる。かすり傷だ!」
「そうですか……良かった。本当に良かった!」
十兵衛は沙夜姫が元気だと分かると、力なくその場に崩れ落ちた。そしてうつ向くと肩を震わせ始めた。
「お前……泣いているのか」
「こんなところで仰向けになって、お召し物も血に染まっていましたので、私はてっきり……」
沙夜姫は思い出した。幼い頃、木登りの最中に脚を滑らせて転落しかけたことがあった。そのとき十兵衛は腕に大きな傷を負いながら助けてくれた。だが十兵衛は自分の怪我をよそに、沙夜姫を抱きしめ大声で泣いたのだった。
(あのときも私より大きな声で泣いていたな)
十兵衛の泣き崩れる姿を見て、沙夜姫は安堵すると同時に嬉しくなった。
「十兵衛は相変わらず泣き虫だな。ところでどうして私がここにいると判ったのだ? 」
「夢を見たのです」
「夢?」
沙夜姫はすこし呆気にとられて目を丸くした。
「はい。馬鹿げた話かもしれませんが、夢に真っ白な狐が現れて、姫様を救って欲しいと私に申したのです。どうしてそんな夢を見たのか最初は不思議に思いましたが、今朝から姫様の行方が分からぬと城内が大騒ぎになりまして、それで狐が教えた通りにここまで馬を飛ばしたのです」
「なるほど……」
「……姫さまは何か心当たりがあるのですか?」
十兵衛の問いかけに、沙夜姫は少し戸惑った。
「い、いや、なんでもない。皆も心配しているだろう。城に戻るか」
「はい。すぐに戻りましょう」
十兵衛は涙を拭うと、沙夜姫の手を取り馬に向かおうとした。しかし次の瞬間、十兵衛は血相を変え、腰の太刀に手をかけて叫んだ。
「お主……姫では無いな!一体何者だ!」
思いもしない言葉に、沙夜姫は驚いて振り向いた。
「十兵衛、急に何を言い出すのだ。沙夜に決まっておるだろう」
「嘘をつくな!ならばお前の尻に生えているものは何だ」
「尻に生えているもの?」
尻に手を伸ばすと、確かに指先に違和感を感じる。
(これは何だ?どうしてこのようなものがついているのだ)
それは自分の意志に関わらずゆらゆらと揺れていた。生えていたのは狐の尾だった。
「半妖め!俺を騙して何をするつもりだ!」
(半妖......そうか、あれは夢ではなかったのか。ならば天狐の弓はどこだ?)
天狐の弓は十兵衛の足元に落ちていた。だが昨夜のような輝きはなく、至って普通の弓と同じように見える。沙夜姫は弓を拾い上げようと十兵衛の方へと歩みを進めた。
「待て!そこから動くな! 」
十兵衛は太刀をおもむろに抜くと、剣先を沙夜姫へと向けた。
「さてはお前の狙いは姫様か。そうか、それで邪魔な俺をここまでおびき寄せたか。ならばここで返り討ちにしてやる!」
「ち、違うのだ十兵衛。本当に私は沙夜姫だ。決して妖怪変化などではない。お前なら分かってくれるであろう?」
沙夜姫は誤解を解こうとして気持ちが高ぶり、思わず十兵衛の方へまた一歩踏み出した。
「動くなと言ったはずだ。それ以上近づけば最後、命は無いぞ!」
そう言って十兵衛は腰を据え、太刀を上段に構えた。
「何故だ……十兵衛。どうして私だとわかってくれぬのか」
あまりの絶望と悔しさに沙夜姫はその場に膝から崩れ落ちると、大粒の涙をぽろぽろとこぼした。
(そうか……十兵衛の目に映るのは、私の姿をした化物。ならばこれ以上醜い姿を晒すより、いっそ化物としてここで斬り捨てられよう)
ひざまづいた沙夜姫の目の前には純白の花が咲いていた。
(ああ、これは……竜胆)
沙夜姫は竜胆の花を見つめながら言った。
「十兵衛、覚えておるか。昔から私が泣いた時、こうやって花を摘んでは贈ってくれたことを」
そして沙夜姫は目の前の竜胆に手を伸ばした。
「動くな!言うことを聞けぬなら本当に斬るぞ!」
しかし沙夜姫は竜胆を一輪を摘むと、十兵衛にすっと手向けた。
「私が母を亡くして泣いていた時、お前はこの花を摘んできてくれた。そして泣き止んだ私にお前は言った」
沙夜姫は十兵衛を瞬きもせず見つめ、ゆっくり立ち上がった。
「泣き顔より花を見て笑う顔のほうが好きだと」
そして瞳に涙をうっすらと浮かべて微笑んだ。
「今の……私の顔は嫌いか?」
その笑顔は朝露に濡れたひなげしのように、儚く可憐で眩しかった。十兵衛ははっと表情を変えると、太刀をその場に投げ捨てた。
「姫様!愚かな私をお許しください!」
沙夜姫は細い指先で涙を拭った。
「良いのだ十兵衛。そうやって信じてくれただけで私は嬉しい」
「一番お側にいながら、姫様を妖怪変化と疑うとは!私は大馬鹿者です」
「実はな、私も一瞬だけお前のことを疑った。昨夜はお前に騙されて酷い目にあったからな」
それを聞いて十兵衛は顔をあげると、驚いた表情で聞き返した。
「私が姫様を騙した? 酷い目にあったとは、一体どう言うことです?」
「いや、正しくはお前が騙したわけでは無いのだ」
沙夜姫姫は苦笑いをしながら落ちていた天狐の弓を拾い上げた。すると弓はまた白く光りだした。
「狐につままれたような顔をしているな。やはりまだ私を疑っておるのか?」
「い、いえ、そうではないのですが、頭が混乱していてまだ整理できないのです」
「そうだろうな。私も正直混乱している。詳しくは城に戻りながら話そう」
「はい。大殿も城内のみんなも心配しております。早くお城へ戻りしょう」
十兵衛が馬に跨ると、沙夜姫は何も言わず背後に乗った。
「落ちないようにしっかり掴まっていてください」
「わかっておる。もう離すものか」
まだ朝霧がうっすら立ち込める静寂の中、城に向けて馬を走らせた。