第一夜
2025.6.10 大幅改稿
昔あるところに、誠実で民にとても慕われたお殿様がいた。殿様と奥方はなかなか子宝には恵まれなかったが、仲睦まじく暮らしていた。
ある日、殿様が狩りに出かけたところ、一匹の狐を見つけた。それは全身がまるで雪のように白く美しい狐だった。
あまりの美しさに心を奪われた殿様は弓を構えたが、その白狐が動けず弱っていることを察すると張っていた弦を緩めた。
「おお、可哀想に。罠にかかったのか」
殿様が馬から降りて近付こうとすると、白狐は唸り声をあげて身構えた。
「なぁに、心配するな。手負いの狐を殺めるなどわしはせぬ」
そう言うと殿様は白狐の後ろ足に食い込んでいた罠を外した。
「何もしてやれることはないが、これでも食べて養生しなさい」
殿様は部下に命じて、仕留めていたキジを持って来させると白狐のそばに置いた。白狐はキジを咥えると後ろ足を引きずりながら茂みの中へと向かい、一度殿様の方を振り返った後に山奥へと消えて行った。
その夜のこと。殿様は不思議な夢を見た。
どこまでも続く暗闇の中にただ一つのまばゆい光。その中心にいたのは白い狐だった。狐は赤く鋭い目で殿様を見つめると言った。
「今日の昼間、弱った白狐を助けてくれたのはお前だな」
「いかにも儂だが、狐がなぜ人の言葉を話すのだ?さては……妖狐か?」
「左様、私は妖狐だ。我らは千年を生きる事ができるが、満月を百回迎えることでようやく力を得て妖狐になる。今日お前が助けてくれたのは、まだ力を得ていない幼い我が子だった。その礼として願いを一つだけ叶えてやろう」
殿様はきっと狐につままれているに違いないと思ったが、藁をも掴む思いで一つだけお願いをした。
「儂は子供が欲しい。男子でも女子でもいい。健やかな子供を授かりたい」
妖狐は頷くと、赤い目を大きく見開いた。
「その願い聞き入れた。ではそなたらに授けよう。美しくを」
殿様は夢であることも忘れてたいそう喜んだ。
「我ら妖狐は千年を生きるが、生まれる子には人と同じ寿命を与えよう。ただし生まれてくる子は妖狐の血をひく特別な子供だ。齢が十八になるまではその体には大きな妖力が宿っておる。妖狐はその力故に怪異なる者から狙われやすいが生まれてくる子も同じ。大人になるまで決して目を離さぬことじゃ。ゆめゆめ忘れぬようにな」
そう言うと狐の体はますます輝きを増し、ついに光そのものとなって消え去った。
眩しさのあまりに殿様が目を覚ますと、寝ていた奥方の腹の上に眩い光の球が浮いていた。殿様が目を擦って光を見つめると、その光はだんだんと強くなり、やがて寝所を昼間の様に照らしていった。
そして殿様が触れようとした途端、その光の球は弾けるようにして一瞬で小さくなり、奥方の体の中へすうっと吸い込まれていった。
「これは夢か。それとも……」
殿様は一瞬の出来事で信じられずにいたが、その後妖狐が言った通り夫婦はついに女の子宝に恵まれた。
殿様はあの夜の不思議な体験と、透き通るような赤子の白い肌から、姫の名を紗夜とした。
姫は夫婦の願い通り、すくすくと元気に育った。快活な姫は幼い頃から琴や習字の稽古よりも、乗馬や弓などの武芸を好んだ。殿様も妖狐の言いつけを守り百姫を城の外へ出すことはなかった。
ある春の日のこと、百姫が城内の暮らしに退屈している様子を見た殿様は、奥方と大勢のお供を連れてお花見に出かけた。しかし花見の最中、桜の木の上から大きな蛇が沙夜姫目がけて襲いかかってきた。奥方は咄嗟に姫をかばったが、その時噛まれた傷が元で亡くなってしまった。姫が八歳の時であった。
それ以来、殿様は姫を城から出すことも、他人に会わせることもなくなった。
天真爛漫で笑顔の絶えなかった姫も、感情を無くしたかのように笑わなくなり、やがて部屋でふさぎ込むようになった。心配した殿様は気晴らしになればと年の近い武家の娘を連れてきては遊ばせようとしたが、姫の心は頑なに閉じたままだった。
ある日、中庭で小姓が掃き掃除をしながら歌を口ずさんでいた。
寝所で歌を耳にした姫はそっと障子を開けた。
「そこのお前」
小姓は驚いてすぐに両手をついてその場に伏せた。
「その歌をなぜ知っておる?」
「私を育ててくれた和尚様が教えてくださいました」
「お母上も枕元でいつもその歌を歌ってくださった……もっとこちらに来て聴かせてくれぬか」
「はい! 喜んで」
小姓の名は十兵衛と言い、姫より二つ歳上の気性の穏やかな少年だった。こうして百姫と十兵衛は毎日中庭で話すようになった。初めは彼の純朴な気性に触れて、次第に笑顔を取り戻していった。それを知った殿様は十兵衛を世話係として姫に付けることにした。
さらに十兵衛はその学才を認められてやがて学友となった。姫は弓の腕が達者で、庭に実った杏の実が落ちるのを矢で射て皆を驚嘆させるほどであった。一方の十兵衛も槍の扱いに長け、若くして免許皆伝の腕前となった。
やがて年頃となった姫は、美しい女性へと成長した。初雪の様に透き通った白い肌と絹糸の様に艶やかな黒髪。姫の美しさはいつしか諸国に知れわたり、婚姻を申し込む殿方は後を絶たなかった。だが妖狐の言いつけを守り続けた殿様はそれをすべて断った。
しかしある年、ついに殿様は縁談を承諾した。十八歳を迎えたのちに、隣国の若君を婿として迎え入れることを決めたのだった。
婚礼までひと月を切ったある日のこと。弓庭では沙夜姫が矢を放っていた。放たれた矢は二十間先の的の中心に、吸い込まれるようにして当たっていく。すでに日も傾き何かに取り憑かれたようにひたすら打ち続けた。
「姫様、日も暮れて参りました。そろそろお止めくださいませ」
側に控えていた十兵衛が何度も進言したが、沙夜姫は全く耳を貸す気配はない。
大人になると城の外へ出られると聞いていたが、婚姻すればまた籠の中の鳥のような日々が続くのだろう。何より見ず知らずの男と仲睦まじくやっていける自信もない。だが断ればきっとお父上は悲しむ。
沙夜姫の胸には不安と失望が渦巻いていた。けれど自分ではどうにもできないと言う歯がゆさ。そんなやり場のない思いを射的で紛らわしたかったのだ。
「十兵衛、良いではないか。婚姻すればこのように矢を射られるかもわからん。せめて今くらい私の好きなようにさせておくれ」
十兵衛は膝をついたまま深いため息をついた。
「これからは武芸より奥方としての立ち振る舞いを学ばれてください。婚礼の儀までひと月というのに、姫様がそのような心構えでは困ります。せっかくの縁談を無駄になさるおつもりですか?」
十兵衛の諫言に心を乱された姫の矢は姫は射の構えを解くと、横で跪く十兵衛を見下ろした。
「お前は私が嫁ぐことがそんなに嬉しいのか?」
「勿論です。隣国の若君は高貴で聡明な方とお聞きしております。大殿もこれほどの良縁は滅多に無いと……」
「わかった!もうよい、退がれ!」
沙夜姫は語気を強めると、矢を再び番えて力一杯に弦を引いた。勢いよく放たれた矢は的の中心を大きく外れると土壁に突き刺さった。沙夜姫は眉間にしわを寄せると十兵衛に言い放った。
「聞いた私が馬鹿であった。そなたの望み通り、顔も知らぬその賢い殿とやらに嫁いでやろう。それで文句はあるまい!」
姫のあまりの気迫に押されて一瞬怯んだ十兵衛だったが、すぐに姿勢を正すと無言で頷いた。
「はい。無論文句などございませぬ」
沙夜姫はその返答を聞くと唇を強く噛みしめて口を真一文字にし、早足で弓庭を立ち去ってしまった。
十兵衛は呼び止めようと声が喉まで出かけたが、それをどうにか飲み込んだ。
たとえ自分が嫌われようとも、姫が幸せになれるのならこれで良いのだと。