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結晶の結界  作者: 茅原
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最後の戦い。そして。

「醜悪だな。やはりお前はただの悪霊だ」 


 応急処置はしてあるが、蓮は左手首に傷を負っている。だが、これしきでは何の問題もない。蓮は悠然と嘲笑った。


 その次の瞬間、ケルベロスの右前足が蓮へ向かって振り下ろされた。蓮は咄嗟に背後へ飛び退き、それをかわす。ケルベロスはその床を打ち砕いた右前足も抜かぬまま一歩踏み出し、中央の頭を突き出して牙の剥き出る大口を開いた。


「っ!」


 その口へ向かって、蓮は小刀を投げる。そして、ケルベロスが鼓膜を破るような悲鳴じみた鳴き声を上げてその口を天井へ向けようとするもより早く、再び背中から抜いた小刀をその舌へ、顎へ突き刺し、頭を床へ打ち留めた。


直後、ケルベロスはその上顎を閉じ、口の中へ入っている蓮の上半身を噛みちぎった――が、その蓮の体は霧となり消える。


「自信過剰? いや、違うな。やはりこの世界では俺が最強だ。なぜだか解るか、悪霊。それはな、俺がお前たちの持っていない確かな意識を持っているからだ、考えることができるからだ。ゆえに、お前たちは絶対に俺に勝てない。場当たり的な行動しかできないお前たちは、永久に俺には敵わないのさ」


 ケルベロスから充分な間合いを取った位置に立ちながら、蓮は言った。するとケルベロス――苦しげな雪彦の声が、ホールに灯された蝋燭の火を揺らしながら低く響いた。


「どうやらそのようだ。……しかし、無駄だよ。ここにいる僕を『喰』い殺しても、僕は死なない。僕は琴音ちゃんの中に永遠にあり続けるよ」

「ああ、それでいい。お前はいつまでも残り続けるべきだ。琴音が苦しみながらも乗り越えた困難の象徴としてな」


 言って、蓮は再びその背から小刀を抜いた。


「だが、いい機会だ。琴音に教えるためにも、今ここにいるお前には死んでもらう。誰がどう見ても死んだと思える無残な姿でな」


床を蹴り、蓮はケルベロスへ飛び込んだ。そして叫ぶ。


「琴音、よく見ていろ! この世界には、お前を疎ましく思っている奴だけじゃない! 命に代えてでも守ってやりたいと、そう思っている奴もいるってことを思い知らせてやる!」


 床へ打ちつけていた中央の頭を踏み台に、反応の早かった右頭の鼻先に小刀を突き立て、その勢いを利用して前回転しその頭上へ乗った。腰の裏から右手に拳銃を握りその装填している全段を高速で脳天に撃ち込む。


 力を失ったその頭が床へ落ち切る前にこちらへ噛みかかって来た左頭を上への跳躍でかわし、そのままその頭上に乗ると、そこへ三本、連続で小刀を突き刺した。


 直後、不意にケルベロスの臀部から飛び出して食いかかってきた大蛇の攻撃を瞬間移動でかわし、丸太よりも太い蛇頭を三度の斬撃で、闇色の血潮を体に浴びながらその本体から切り落とす。そして呟くように言った。


「お前に『思い上がりだ』って言われたとおり、姉さんの言っていたとおり、俺にはお前を救えない」


 その胴体へ飛び乗り、床に固定され苦しげに唸っている中央の頭へと向かって背中の上を歩きながら、


「ああ、そのとおりだ。所詮、自分は自分自身でしか救うことができないんだ。なら俺にできるのは、そのお前を救うお前自身を、何があろうと守ることだけだ」


 蓮は背中の中央で足を止めた。その右手に小刀を抜き、背中へと横薙ぎに斬りつけ、その闇色の傷口を見下ろしながら、


「じゃあな」


 手袋を剥ぎ取り、傷口と同じ闇色の掌を剥き出しにした左手をその中へ突っ込んだ。そして、『喰』った。ケルベロスの体、そしてホールまでもが一瞬にして傷口の中へ収束した。周囲は静かな闇――そこに様々の景色が映し出されるシアターへと戻る。すると、


「ほら、ね……」


優しく微笑む琴音の声が耳に届いた。蓮は琴音と、小さな琴音のいるほうへと足を踏み出す。


 小さな琴音を抱き寄せ、その額と額を優しく合わせながら、


「あと何年かすればあなたの前に、あなたと一緒に笑ってくれる人が、あなたのために涙を流してくれるような人が現れてくれるから……」


 そう言って、琴音は小さな琴音から体を少し離して微笑みかけ、呆然とした顔で涙を流している小さな琴音を――自分自身を、その胸へ抱き締めた。


「だから……大丈夫。あなたは世界の全てから嫌われているわけじゃないわ。あなたのことを大切に思ってくれる人だってちゃんといてくれる。だから、今は辛くても、ちゃんと前を向いて歩いてみよう? あなたはそんなに簡単に挫けるような、弱い子じゃないはずよ?」


 うん――


 と、小さな琴音が、涙に濡れた顔に無垢な笑みを輝かせて頷いた。


 その瞬間だった。


 世界が輝く白に弾けた。琴音の胸に抱かれた小さな琴音が眩い白い光となり、周囲の闇を純白の光で満たした。




 が、間もなくその光は再び闇へと戻った。


 と思うと、跳ね起きるような勢いで琴音がベッドから身を起こした。


 カーテンから透けた淡い月明かりの中、蓮と琴音の――目が合った。すると琴音は、月明かりですらやや眩しげにその目を細めた。


 唐突に目が合ったことに加えてのその仕草に蓮は思わず呆然となりながらも、ここが現実であることにすぐに気づき、


「お、お前……目が、見えてるのか……?」


 おずおずと腰を上げて琴音に顔を寄せ、震える声で尋ねた。


「…………」


 丸くした目で蓮を見つめて、琴音は何も答えない。だが、その白い両手をゆっくりと差し伸べてきて、その手で包むように蓮の頬へ触れた。何も言わず、いつもと違うやけに焦点の合った瞳でひたすら蓮の瞳を見つめながら、その眼前の光景が本物であることを確かめようとしているようにその手で蓮の頬を撫でる。


「――――」


 不意に、蓮を見つめるその澄んだ大きな目が綺麗に輝いたかと思うと、その目から大粒の涙が零れ落ちた。そしてその目が優しく閉じられて、気づくと二人の唇は重なっていた。琴音の甘やかな香りが鼻をくすぐり、伏せられた白い瞼と長い睫毛がすぐそこにあった。


 蓮は驚き、否、驚くことすらできずにただ呆然と固まった。固まっていると、


「蓮さん、お気持ちは解りますが、じきに明るくなると思われます。どうやら全て上手く行ったようでもありますし、蓮さんは一旦お帰りください」


 という平坦な椿の声がして、蓮は驚きながら琴音と同時に素早くその身を引いた。見ると、そこには、痛々しい様子で壁に手をつき立ち上がりながら、口から血を滴らせこちらを睨んでいる椿がいた。その、夢で見た獣を凌ぐ並々ならぬ殺気を放つ椿に蓮は思わずうろたえながら、


「ね、姉さんは……」

「わたしはここの血の後始末をして、そのまま急患へ行かせていただこうと思います。ようやく治ったらしい琴音をどうにかしようなどとは思っておりませんので、ご安心を」

「え……?」


 琴音がそう不安げな声をもらす。が、蓮は椿の指示に抗う気にもなれず、いつも以上に正確に自分を追ってくるような気がする琴音の目に見送られながら病室を出た。


 病室を出て、蓮は呆然としたような頭のまま廊下に立ち尽くす。そして、夢よりも夢のように曖昧に溢れ出してくる喜びの感情に、思わず震えた。


 俺たちは、やり遂げたんだ――

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