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結晶の結界  作者: 茅原
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深淵へ。再び。part2

そして――ようやく辿り着いた。


 眩いほどの月の光が、カーテンをまるで白い光のベールのように輝かせる夜の病室。ここが、今の琴音にとっての『真実』が始まった場所だ。


「ここからだな」


蓮は淡々と言った。不安はほぼなかった。ここに来るまでの間、落ち着いていなければならないはずの自分よりもむしろ落ち着いていた琴音を見て、自らの過去と向き合い整理するための充分な心の強さを琴音が持っていることを確信していた。


「ええ、大丈夫。わたしが自分でなんとかするから」


 ベッドから身を起こした小さな琴音を見つめながら、琴音はそう言った。


「ああ――と、言いたいが、そういえば一つ問題があった。ここには見えない壁があって、ベッドに近寄れない。どうすればここを通れるか、お前、解るか?」


 やはりベッドへ行く手にあった透明な壁に手を触れながら蓮は尋ねる。


「大丈夫。問題ないわ、たぶん」


 琴音はそれだけ答えて、まるで観察するような真っ直ぐな瞳で幼い自分を見つめ続ける。その絶対の自信を持った口振りに、蓮はさらに尋ねる気にはなれなかった。琴音がそう言うのだからそうなのだろうと納得した。


 小さな琴音がベッドから降りて、カーテンを開けた。その小さな体と、それを見つめる琴音の顔が、冷たくも柔らかい月の光に照らされる。


 小さな琴音がベッドへよじ登り、腰かける。


 もうすぐ――


 夜の空から目を下ろして、噛み殺した泣き声をもらし始めた小さな琴音を見つめて、蓮は見えない壁へ押しつける拳の力を強める。


「じゃあ、行くわね」


 琴音が柔らかく微笑みながら言った。


「けど、あなたはここで待っていて。ここからはわたししか入れないし、わたししか入ってはいけない。あの子のことを理解しているのは――あの子のことを救えるのは、わたしだけだから。だからあなたは、ここで待っていて?」


 そう言って、琴音は蓮の手を離して小さな琴音へと顔を向け直した。が、再びこちらを向き、


「ちゃんと返事をせぬか、無礼者」


 いたずらっぽく不機嫌にした目で蓮を睨み上げてくる。蓮はその余裕のある琴音の様子にまたも驚かされていたが、思わず軽く表情を綻ばせて、


「保留、にしておいてくれ」

「保留?」

「ああ。夢から覚めて落ち着いたら、手紙で返事してやるよ」

「手紙……?」


 琴音は訝しげな顔をして、やがてふっと微笑み、


「そう。それは楽しみね」


 と前を向き、壁へと足を踏み出した。その足は、何にも邪魔されることなくベッドへと歩み進む。が、蓮は琴音を呼び止めた。


「ああ、一つ言っておく」

「……? なに?」

「お前は自分のことだけに集中すればいい。こっちのことは俺に任せろ」

「ええ、ありがとう」


 初めからそのつもりでいてくれていたのだろう。琴音は微笑みながら小さく頷いて、止めていたその足を再び動かした。そして、そのまま淀みない歩調でベッドへと歩き、月明かりの下で肩を震わせながら自らの指先を見つめていた琴音の小さな手を――掴んだ。


 驚いた表情で、小さな琴音は琴音を見上げる。琴音はその目を真っ直ぐに見返しながら言う。


「ダメよ。まだ、あなたが世界を捨てるには早いわ」

「で、でもっ……でも、わたしなんて……!」


 小さな琴音はその目から涙をこぼしながら声を絞り出す。


「ううん。『いないほうがいい』なんて、自分をそんなふうに思わないで」

「でも、でもっ……!」


 二人は見つめ合って言葉を交わす。


 二人の容姿は違うが、これは琴音の自問自答に外ならない。琴音の中にある未来を見ようとする自分と、未来から目を背けようとする自分の思いのぶつかり合い。琴音の中で今、その本心と本心が文字どおり面と向かってぶつかり合っているのだ。


 琴音は小さな琴音を見つめながら微笑み、頷いた。


「ええ、そうね。確かに今のあなたは、この世の誰からも幸せに生きることを望まれていない。お前なんかいなければいいのにって、みんなから疎まれて、嫌われている。でも――でもね、もう少しだけ、待ってみて? そうすれば、ほら……」


 琴音はベッドの柵へ手を置いた。すると、まるで緩やかに目を閉じていくように病室が暗闇へ包まれた。そしてどこからともなく様々な声が聞こえてきて、どこからともなく様々な映像が周囲に映し出され、そして消えていった。音と映像のうつろう速度は速い。しかし耳をすまさずとも、目を凝らさずとも、それがなんのかを蓮はすぐに理解できた。


 自分と琴音の声。自分と琴音の映像。いま周囲を包んでいるのは、蓮と琴音が夢と現実とで過ごした時間の断片たちだった。蓮と琴音、そして小さな琴音を残して暗闇へと落ちて、周囲に様々の景色を映し出す光景は、まるで球状のシアターの中にいるようだった。


「…………」


思わずはにかんだり微笑まずにはいられないようなそれらの記憶を、蓮もまた琴音と同じように思い返しながら見ていると、不意に、自分だけが赤絨毯の上に立っていることに気がついた。驚いて周囲を見回すと、暗闇の中で記憶を再生させる琴音たちはいつの間にか離れ、闇の中に浮かぶ洋館のホールのような場所に蓮はひとり立っていた。


 と、蓮の正面、やや縦長のホールの奥にあった大きな階段の踊り場に、上階からとある人物が現れた。


 蓮は口角を吊り上げ、背中から小刀を抜いた。


「ああ……お前が来ることはなんとなく解ってたさ」


殺気を露わにした蓮の眼に微塵も怯む様子もなく、その人物――黒瀬雪彦は無言でゆったりと階段を下り、フロアまで下り切った所で足を止めた。


「君は……確か、呼倉蓮くんだったね。なぜ、君がここに?」

「琴音を守るために決まっている。あいつに自由になられては困るらしいお前の手からな」

「へえ、そうか。それはマズいなあ」


雪彦は悠然と微笑みながら言う。


「でも、不思議だ。どうしてだろう? どうして僕はこんな所に? 琴音ちゃんはなぜ自分を解き放ちたいこの時に、僕をここに思い浮かべたのだろう?」

「そんなものは決まっている。琴音は気づいているんだ。ベッドに縛りつけられるような術をお前にかけられていたことにな」

「……そうか。まあ、そうだろうね。頭のいい琴音ちゃんなら感づいて当然だ」


 雪彦はこともなげに言ってしかし、その目にどこか力を込めて尋ねてきた。


「しかし、本当にこれでいいのかい、蓮くん?」

「何がだ」

「琴音ちゃんは本当に病室から出ることを望んでいるのかな。彼女はあの場所を気に入っている。一生出たくないとさえ思っていた。そんな彼女をどうやって説得したかは解らないが、本当にそれは彼女の望んでいることなのかい? 君はただエゴで、自分が彼女に惚れているから、あの体を、あの美しい肉体を解き放って我が物にしたいと思っているんじゃないのかい?」

「ふん」


 と、蓮は軽く一笑に付した。


「くだらないな。た、確かに、俺が手助けをしている理由の一つにそれはあるかもしれない。だが、その願望は小さな一面にしか過ぎない。それにそもそも、あいつを解き放つのはあいつ自身だ。俺の意思とは関係がない」

「しかし、彼女が自由を望むに至ったことに君の意思は深く関係しているじゃないか」

「関係はしている。だが、俺はあいつに無理強いをしたことなど一度もない。願望を意図的に誘導するような接し方をした憶えもない。確かに初めは俺の意思が先走ってしまった。だが、それから俺の意思は常に琴音の意思の後ろにあった」


 蓮は言って、まくし立てるように続ける。


「というか、わざわざこんなことなど言う必要もない。お前はもう浮いた存在――力を失った存在なんだ。お前、さっき自分がこう言ったのを憶えてるか? お前は言った。『彼女は、あの場所を気に入っている。一生出たくないとさえ思っていた。』と。この意味が解るか?」

「…………」

「解っているんだろう。そうだ。『出たくないと思っていた。』――もう今はそう思っていないということだ。つまり、お前はもう琴音から必要とされていない。ベッドに縛りつけ、病室に閉じ込めることで琴音を守るお前は、もう力の根源を失っているのさ。今のお前は、言うなればただの悪霊だ。執念深く琴音に取り憑き、琴音の体を呪縛しているだけの存在だ」

「……僕を、殺すのかい?」

「いいや。言っただろう。お前はもう『浮いた』存在だ。琴音が自分を救ったなら、お前がどうもがこうが全く関係ない。琴音は自由を得る。そうなればお前は、いよいよ無力な悪霊になる。ただそれだけだ」


 蓮はそう言って笑う。すると、


「そんなことは……させない」


 雪彦はうめくように言った。崩れるように手を床へついた、白目の剥いた目で蓮を睨みつける。


「琴音ちゃんを、病室から出すわけにはいかない。外は……危険だ。汚い。臭い。病室を出れば、傷付いてしまう。汚れてしまう。琴音ちゃんをそんな目に遭わせることは、許さない」


 獣のうなりごえを混ぜたような声で言うと、雪彦の体が膨れ上がった。全身を黒い毛が覆い、口から堅強な牙が伸び、巨大な一匹の獣になった。三つ頭の黒犬――ケルベロスだ。

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