深淵へ。
夜――である。
辺りを包むのは静かな夜の暗さのみで、つい今まで周囲を支配していたはずの炎は周囲から全く姿を消している。
だが、その暗さの中、前方に一筋の細い光が見えた。それで蓮は気がつく。どうやらここは先程までと同じく琴音の家である。自分はいま、場面変わって夜の琴音の家、その夜の廊下に立っているのだ。
琴音は――と琴音の姿を捜して、蓮が後ろを振り返った瞬間、足元を小さな陰が横切った。ん? とそれを目で追って、小さく息を呑む。
まるで四歳か五歳くらいの姿をした、琴音だった。
かなり暗いせいで見にくいが、間違いない。その少し眠たげな横顔には、明らかに琴音の面影がある。長いストレートの黒髪も見慣れているものだ。と呆然と思いながら眺めていると、トイレに起きたらしいそのパジャマ姿の小さな琴音は、ゆっくりとした歩みで居間の扉のほうへと向かっていく。
――一体なんなんだ……?
蓮はこの状況に困惑しながら、本来の琴音を捜して辺りを見回す。だが、やはりどこにも振袖姿の琴音はいない。いるのはパジャマ姿の小さな琴音だけである。改めてそれを確認して、すぐに思い当たる。
――まさか、あの琴音に、今の琴音の意識も入ってるのか……?
充分に考えられる。先程の病院と同じように、また自分だけがどこか別の場所に飛ばされたという可能性も否定できないが、それはないと思っていいはずだ。
なぜなら、トラウマの核心から離れた場所に、この――火事に遭った時点と近い年齢の琴音が現れる可能性は低いはずだ。ほぼ間違いなく、自分たちはいま琴音の根幹へと迫っている最中なのだ。そう確信して、蓮は小さな琴音の後をつける。と、
「どうしてなのよっ!」
不意に、居間のほうから女性の大きな声が聞こえてきた。
居間へ背を向け階段へと足をかけていた琴音は驚いた様子でそのほうへと顔を向けて、忍び足で居間の扉の前へと向かっていった。どうやらこの琴音には蓮の姿が見えていないらしいことを再確認しつつ、蓮は琴音について居間へ向かう。
扉に付いた細長いガラスから琴音とともに居間を覗くと、中には中年の男性と女性がいた。座卓を挟みながら、男性はソファに腰掛け、女性は床に座っている。そしてどうやら、中々に深刻な話をしている最中らしい。二人の間には沈鬱な空気が漂っている。男性が言った。
「はぁ……。父さん、琴音のことがえらく気に入ってたからなあ……」
女性は深刻な顔で頷いた。
「そうね。――でも、でも、おかしいでしょ!『病院を経営するのは琴音が十八になるまで。琴音が十八になったら病院経営に関わる財産も全て琴音に譲る。』なんて! 長男のあなたにも、弟の雪彦さんにも、たったの一円すら渡さないなんておかしいわよ!」
「ああ……。まあ父さんは、俺たちが父さんの遺産に目を付けて『早くクタバレ』って思ってるのに気づいてるみたいだったからなあ……。はぁ……でも、それにしてもなあ……」
「そうよ。おかしいわよ。わたしたちは――何? 後見人? あの子が成人するまでお金を守ることだけしかできないんでしょ? どうしてわたしたちがそんなことをしなくちゃいけないの? どうせ全部あの子のものになっちゃうのに……。ああ、忌々しい。こんなことなら、もうさっさと死んでくれればいいのに、あの子」
「な……」
蓮は、子を持つ母親の口から出るとは思わなかった言葉に愕然とする。そして、それは琴音も同じだったらしい。琴音は、四歳の子がするようなものではない緊迫の表情で息を呑んだまま固まっている。おそらく琴音の両親である男女の会話は続く。
「フッ。死んでくれればいい――か。お前も酷いことを言うな」
「だって、そうでしょ? あなたはそう思わないの?」
「ん? 思うさ。思うに決まっているだろう。何せ、あの金がなけりゃ俺たちはこのまま遊んでいられなくなるだろう。というか、生活するのすら危うくなる」
「ええ、そうよね……。――ねぇ、なら、やっぱり、やっちゃわない?」
「やっちゃう……? ふむ……いや、殺すのはマズいだろう。色々と疑われるかもしれないからな……。それに、やるとしてもどうやってやるんだ」
「さあ。あなたも考えてよ」
「ん? うーん、そうだな……」
と、男性が暢気に呟いたところで、琴音は静かに身を翻し、足を忍ばせながら階段のほうへと引き返していった。声は届かないと知りつつも、蓮は居ても立ってもいられずに琴音を追って足を踏み出した。すると、再び景色が変わった。
琴音の部屋である。ついさっき振袖姿の琴音と訪れた、幼い頃の琴音の部屋だ。
その部屋で、今度はパジャマ姿ではなく普通の服を着た小さい琴音が、一人ママゴトらしき遊びに興じていた。
だが、様子は明らかにおかしい。
小さな琴音は、どこをみているかも解らない虚ろな目をしながら、プラスチックのニンジンを、プラスチックの包丁で切ってはくっつけ、切ってはくっつけ、それのみを延々と繰り返していた。その動きに生気は感じられない。唐突に、
「琴音」
と、下の階からどうやら琴音を呼んでいるらしき先程の中年女性の声が聞こえてきた。
琴音は驚くというよりも恐れるといった様子で顔を上げて部屋の扉を見る。
扉からもれて部屋に響き続ける、琴音の名を呼ぶ母親の優しげな温かな声。琴音はじっと床に座ったまま扉を見つめて、やがて諦めたようにママゴト道具を置いて立ち上がり、扉の前へ行くと、数秒、逡巡するように俯いて立ち尽くしてから扉を開けて階段のほうへ歩いていった。
明るい母親の声に呼ばれて琴音は廊下を歩き、階段を下り――ようと、その一段目に足を踏み出したその時だった。
「……?」
蓮の体を透き通って、何かが前へ駆け抜けていったと思うと、その何か、琴音の父親は、勢いそのまま、おそらく力の限り琴音の背中を突き飛ばした。
どんっ。
という音が響くほどの衝撃で押し出された琴音の体は、ほとんど飛ぶようにして階段の下へ落ちていった。一瞬の空白を置いて、蓮からは見えない階段の下から鈍い大きな音が連続して聞こえてきた。
「――――」
何が起きているのか理解できない。声が出ないどころか体も動かせず、蓮はその場に立ち尽くす。が、琴音の父が階下へ駆け下りていったのを見ると、ハッと我に返って同じく階下へ駆け出した。
琴音の父は、ただの穴を避けるようにして、頭を下にしながらうつぶせに階段に倒れている琴音の横を駆け下りた。
「上手く行った!?」
居間のほうから女性の上ずった声が聞こえてくる。
「ああ! 早く火を点けろ!」
「わ、解ったわ! あなたも手伝って!」
「ああ!」
男女のやり取りを聞きながら蓮は階段を駆け下りて、階段の曲がり角に俯せに倒れていた琴音の傍へ屈み込み、その腕に琴音を抱きかかえた。
「お、おいっ、琴音! 琴音!」
しかし、琴音から返事はない。力なく垂れる首とともに顔はだらりと廊下を向き、静かに涙を流す目は何を見るでもなく、ただ虚ろに開いていた。
「おい! 何をやってる! 急げ!」
「え、ええ!」
と、廊下から男女の声がしたと思うと、やがて玄関の扉が開け閉めされる音がした。そして、微かな煙臭が臭ってきた。
「そう、だった……」
蓮の腕の中で身体を弛緩させたまま、琴音が言った。だが、
「…………」
その後に言葉は続かなかった。再び景色が変わった。




