夢の中の、その中へ。再び。part2
しかし、
「いっこうに出口が見える気配がないわね……」
トンネルはどこまで進んでもただ真っ直ぐに続いていくのみ、ただ等間隔に設置された橙色の電灯を後ろへと流していくのみで、いつまで経っても空を見せる気配がない。
「……もう、体感時間的には十五分くらいは走ったな」
速度メーターとその横にあるフロントボードのデジタル時計は、幾何学模様のような文字を繰り返し明滅させるだけでその機能を果たしていない。
が、蓮は退屈と焦燥の入り交じったような気分でそれらを見やりつつ人差し指でハンドルを軽く叩く。
琴音の記憶の防御が、意外なほどに分厚い。それだけ、あの記憶は触れられたくないものということだろうか。それとも前回、もう手の届くほどにその核へ迫っていたということだろうか……。
「あっ」
蓮がふと考え込んでいると、不意に琴音が驚いたような声を上げた。
「どうした?」
「え? いや、その……」
と、琴音はどこか気まずそうな上目遣いの苦笑いでこちらを見て、
「なんていうか……ね。こういう時って、『急に後ろから大量の水が押し寄せてくる』っていうパターンが映画ではあったりするなー、って……ふと思っちゃった、っていうか……」
「……思うな、そんなことは」
「……うん」
琴音が従順に頷いて、その数秒後、後ろから低くうなる地響きのような音が車の床を伝ってきた。琴音は座席から顔を出して、蓮はバックミラーへ目をやって後ろを見て、
「うむ……やはり来たようじゃな」
「そうだな」
意外と冷静ではあるらしい姫にそう返事をして、蓮はアクセルペダルを一気に踏み込む。バックミラーに映るのは、まさに悪夢のように轟音を響かせながら迫ってくる、トンネルの天井まで満たす大量の水だ。その奔流は相当に速い。まるで津波のように猛然とした勢いで迫ってくる。逃げ切れるだろうか。
「蓮、もっとアクセルを踏んで。ダメだわ。わたし、もうあれに車が飲み込まれるところしかイメージできないもの」
琴音は流石にやや焦燥の色をその顔に浮かべながら言う。
「イメージするな」
「そんなの無理よ。消極的なことを考えちゃうのはわたしの癖みたいなものなんだもの。ねえ、あれに飲み込まれたらどうなるの? 車の中にまで水が入ってきて死ぬの?」
「お前がそう思うんなら、そうなんだろうな」
そう答えた蓮の言葉に、琴音の表情が悪い冗談を聞いたように強張った笑みで凍りつく。
だが、本当にそうなのだろう。琴音が、津波がこの車に追いつくと考える以上、津波は本当にこの車へと追いつき、それと同様に、追いつかれれば水が車内へと入ってきて、自分たちは溺れ死ぬと思うのなら、事実そのとおりになるに違いない。
さて、どうする――
気づけばかなり距離を詰めてきている激流をバックミラー越しに見やりながら、蓮はアクセルをさらに強く踏み込んだ。
「いやよ、わたしは」
琴音が言った。
「何がだ。まさか諦めるなんて言うんじゃ――」
「諦める? そんなわけないでしょう。わたしは引き返すつもりなんてない。またこのまま何もできずに帰って、あなたのお荷物でい続けていたくなんてないもの」
「じゃあ何がだ」
「決まっているでしょう。わたしがいやなのはただ一つ、あなたが死ぬこと。それだけは絶対にさせないわ」
言いながら、琴音は締めていたシートベルトを解き、そして車のオーディオらしきものの上についていた赤いボタンを押した。
すると、車の天井がゆっくりと後部座席の方へとスライドし始めた。鋭い風と反響する水の轟音が一挙に車内へと流れ込んでくる。
「何をするつもりだ、琴音!」
蓮が慌てて言うと、琴音は座席の上に立ち膝をしながら後方を向き、勇ましく輝くような笑みをこちらへ向け、
「愛よ!」
「は?」
「だから、愛じゃ! 愛してると申しておる!」
半ば何を言っているのか解らず聞き返した蓮に、琴音は乱れる髪を押さえながらそう叫んだ。そして前へ向き直り、蓮の肩へ手をかけながら座席の上に中腰に立つと、ゆっくりと背を起こしながら、袴の裾が広がるのにも構わずフロントガラスの上縁に片足をかけた。
「愛が何かなんてよく解らないけれど、とにかくわたしはあなたを愛してる! その愛であなたを守りたい! あなたへの愛で、わたしの無意識なんてねじ伏せてみせるわ!」
まるで戦陣の先頭を駆る姫のように、帯から抜いた扇子を進む先へと強く指し向け、そしてそれを勢いよく開いた。
その空気を叩くような音がした瞬間、トンネルの数メートル先が唐突に闇に包まれた。
車のスピードはそのような突然の状況変化に対応できるはずもない。どうすることもできないまま車はその闇へ踏み込み――その中へ落ちていた。闇はたんなる暗さではなく、真の無の空間だった。
車に体を固定する物もなく座席に立っていた琴音は、やや前へ放り投げられるような形で車とは異なる放物線を描きながら自由落下し始める。
「琴音っ!」
蓮はすぐさまシートベルトを解き、座席を蹴って飛び立ち琴音をその腕に抱き締めた。
水は――と上を見ると、既にそこには何もない。トンネルもなく、同じく落下していたはずの車もない。ただ二人で、真っ逆さまに闇の中を落ちていた。
「すごい……! これが夢の世界……! なんでもできる、どこへでも行ける……!」
蓮の体を強く抱き返しながら、琴音は目を輝かせて呟いた。すると、蛍光色のラインや波の光が下から上へと駆け抜けていき始めた。そして、落ちていたはずの自分の足下に感触を感じたと思うと、蓮は琴音とともに、闇の中を高速で上へと向かうエレベーターに乗っていた。
「おい、琴音。大丈夫か。夢に呑まれるなよ」
「大丈夫。姫は冷静じゃ。調子に乗って愛の告白をしてしもうたことへの後悔ができるくらいに冷静じゃ」
「そ、そうか……」
「うむ。そして、同時に幸せじゃ。思いの丈に心をさらすということは――ふふっ、こんなに爽快なことなのね。すごいわ、わたし。あなたを思えばどんな壁だって乗り越えられそう。もしあなたと出会っていなかったら、絶対、わたしはずっとこんな気持ちも知らないままだったに違いないわ」
「琴音……」
蓮はうろたえてしかし、琴音の目に宿る異常な熱っぽさに気がついていた。ゆっくりと、琴音から少しづつ冷静さが失われていっている。
「おい」
と、自分へ抱きついてくる琴音を蓮が少し引きはがそうとその肩に手を乗せた――瞬間だった。不意に、目の前が白い閃光に包まれた。だが、その爆発的な光は一瞬で過ぎ去った。思わず顔を守っていた腕を下げて目を開くと、
「……! 琴音っ!?」
琴音の姿が目の前から忽然と消えていた。慌てて見回すと、闇の中を昇る床のみのエレベーターに乗っているのはいつの間にか自分だけになっていた。
そして間もなく、エレベーターは緩やかに停止した。と思うと、蓮の目の前に、『危険』の二文字が現れ、周囲の闇がブザー音とともに赤く明滅を始めた。
琴音が消えた。しかしこの先が目的地であることはおそらく間違いなく、琴音はきっとそこにいる。
蓮はこの警告にむしろ行くべき道を示され、『警告』の二文字が踊る目の前の闇に両手の指をかけ、扉を左右へ開け放った。
その先には、やはり――病院の廊下があった。しかし、それを照らすのは先程までと同じ不快な赤のランプの明滅である。蓮はその警告を無視して廊下を歩き、その先にある扉を開ける。
これを三度ほど繰り返し、まさか先程のトンネルと同じようにまたいつまでも続くのではと思い始めながら扉を開けたところで、不意に蓮の体を冷気が包んだ。
吐く息が白く、周囲の景色もちらほらと白い。だが、軽く雪に覆われたその周囲の景色は見慣れたものだった。車一台も停まっていない、がらんとした広い駐車場。その向こう、重たく曇った空を背景に立っているのは、紛れもなく琴音が入院している病院である。
明かりの一つもついていない、どこか不気味な雰囲気を漂わせる七階建ての病院。その七階の角部屋へと目を向けてから、蓮は人気のないその玄関へと足を踏み出した。




