戦いへ。
学校から帰ってくると、庭先には姉のバイクがあった。
琴音の家へ行くと言っていたが、話を円満に聞けてもう帰ってきたのだろうか、それともこれから行くのだろうか。
バイクを横目に玄関の格子戸を開けて家へ上がり、居間の扉を開けると、そこには今朝と変わらぬ普段着の椿がいた。テーブルの前に端座して、何をするでもなくただお茶を飲んでいた。
「おかえりなさいませ」
毎日と変わらず椿はそう言うと、その調子のまま続けた。
「先ほど病院のほうへ行って、黒瀬雪彦と会ってまいりました」
「会ってきた?」
「はい。そして、今晩の九時から街外れにあるガット・ネーロというイタリアレストランで食事をする約束を取りつけてまいりました」
「食事……?」
椿からの突然の報告に蓮は驚く。しかし椿はあくまで平然と、
「はい。ですので、つまりその時間は完全に黒瀬雪彦の注意を琴音から逸らすことができます。蓮さんはなんの心配もなく琴音へとおかかりください」
「別にそこまでする必要はなかっただろう。どうせあいつは俺たちのことに全く気づいていないんだぞ」
「万が一のための保険です。黒瀬雪彦が深夜まで病院に残り、帰りがてらにふらりと琴音の病室を訪れる――そのようなことが起きないとも限りませんので、念のため」
「……そうか。解った。ありがとう」
「え……?」
と驚いたような声を椿が発して、蓮は居間を出ようとしていた足を止めて椿を振り返った。そして思わず目を疑う。
椿が泣いていた。その決して冷静さを失わない瞳を丸く瞠き、その二つの目を潤ませたかと思うと、はらはらと涙を流していた。
「ど、どうした。なんで……」
椿が涙を流しているのを見るのはこれが二度目だ。しかし前回はあくまで夢の中での出来事だった。現実で椿が泣いているところを見るのは、蓮にとって生まれて初めてのことだった。
椿は滔々と流れるその涙を拭おうともせず、ただひたすら呆然とした様子で言った。
「蓮さん、いま私に『ありがとう』と……?」
「は……?」
蓮は目の前の光景に呆然として、その言葉の意味が数秒理解できなかった。しかし、ふとそれを理解すると、どこか申し訳ないような気持ちが押し寄せてきた。
確かに自分は、椿に感謝の言葉を述べたことがこれまでたったの一度もなかったかもしれない。いつも何から何までを世話してくれる椿に対して、だ。それはひょっとすると『親不孝』なこととも言えるのかもしれない。
しかし、だからと言って、
「な、何もそれくらいで泣くことないだろ……。らしくもない」
「ええ、そうですね。申し訳ありません……」
椿はそう言って涙を拭う。しかし涙が止めどなく溢れてくるのか、小さく鼻をすすりながら目元をこすっていつまでも顔を上げない。その沈黙の間の苦しさに、蓮は居たたまれなくなって居間を後にした。
何か言葉の一つでもかけるべきだったのかもしれない。だが、何をどう言葉にすればいいか、蓮には解らなかった。
展開が激しく動き始めるのは、二階にある琴音の部屋の場面からだ――
明かりも点けない部屋の中で両手を額へつきながら顔を伏せ、蓮は琴音の夢の中で起きるであろうことを繰り返しシュミレートする。
琴音の意志を辿って夢を潜ると、やがて琴音の家の前に着く。玄関を開けると、その扉は直接、琴音の部屋へ繋がっている。しばらくその部屋にいると、まず下の階から煙が昇ってくる。部屋を出て、煙をよけつつ階段へと向かう。
が、ここが第一関門の階段だ。琴音はおそらく、ここでいくらか動揺を覚える。そして体の異変をも訴える。
しかしおそらく、完璧とは言えないまでもおおよそ夢を夢と識別することができるようになった琴音ならば、以前のように座り込んでしまうこともなく階段を下りて先へと進めるはずだ。
ゆえに、ここはさほど問題にはならない。問題はこの先だ。家の中に広がっていく火よりも早く、琴音の記憶を守る妨害を打ち退けながら、一階のどこかにいる子犬を探し出さねばならない。
火も、記憶の防御システムも、琴音が不安になればなるほど強さを増す。よって肝心なのは、いかに琴音に平常心を保たせるか、いかに琴音を不安にさせないか、という点にある。
琴音が以前は進めなかったあの階段を下りた先に何が待つのか。それは琴音自身にも解らない。だが、琴音は恐れずその中へ踏み込んでいく覚悟を決めている。自らで自らの体を縛る罰を振り解くため、辛い過去と向き合う覚悟を決めている。
ならば自分にできるのは、琴音の歩こうとする道を塞ぐ障壁を取り去ってやることのみだ。これに集中していればいい。
「蓮さん」
小さく声がしてから、そっと襖が開けられた。
「もうそろそろ時間ですので、レストランへ行ってまいります。が、ちょうどその途上に病院もありますので、蓮さんがよろしければお送りいたしますが」
「……ああ。じゃあ、頼む」
蓮は椅子から立ち上がり、既に必要なものは詰め込んでおいたリュックを背負うと、椿とともに玄関を出た。バイクにまたがった椿の後ろへ自分もまたがり、思えば二人乗りをするのはそうとう久し振りのような気がしながら椿の細い体へ手を回し、
「よろしいですか」
ヘルメットの中からそう尋ねてきた椿に、ああと頷き、病院へと向けて出発した。
自分を乗せているためいつもよりスピードを出していないのか、それとも普段から安全運転を心がけているのか、音を置き去りにするようなスピードも、肌を切るような冷たい夜風もさほど感じないまま、やがて病院近くの路肩でバイクは停車した。
「どうか琴音とともにご無事で」
「そっちこそ。毒を盛られたりするなよ」
「心配は無用でございます。私の友人が二名、客として店に潜れ込んでくれる予定となっておりますので」
「そうか」
とやり取りして、互いの目的地へと別れた。
そして病院へと着き、真っ暗な夜空を背景に建つそれを見上げると、なぜかその建物がいつも以上に暗く淀んだ空気に包まれているように蓮の目に映った。
緊張でもしてるのか? そう自分を嗤いながら、蓮は足を踏み出した。




