あなたを信じて。
瞬間、場面は真っ暗な風景へと転じた。
が、よく見ると、目の前に琴音のベッドの足場がある。どうやら夢から強制的に追い出され、現実へと戻ってきたらしかった。
「大丈夫か、琴音」
「……ええ、大丈夫よ。けれど……」
琴音はそう答えたきり黙り込む。
「黒瀬雪彦……か」
蓮がそう呟くと、琴音はゆっくりと体を起こしてから、小さく頷いた。
「ええ……。叔父さんが……わたしに、暗示をかけている……? そんなの、信じられない……。だって、叔父さんは、ずっと昔からわたしに優しくしてくれて……」
「……ああ。その気持ちは解らなくもない。それはおそらく俺にしてみれば、姉さんにいきなり裏切られるようなものなんだろうからな。……でも、案外、人間なんてそんなものだろう」
深夜の三時も回った夜の底、その胸に染み入ってくるような静寂の中で、蓮はベッド脇のパイプ椅子に座りながら呟いた。
「人間はくだらない。俺の親も、学校にいるヤツらも、街で歩いているヤツらも、みんなくだらない。上っ面だけは笑って愛想よくしながら、みな腹の中では憎しみだとか妬みだとか汚いものばかりを抱えて、互いに騙しあいながら生きているんだ。毎日毎日おなじことをして、毎日毎日憎しみ合って、それをずっとなんの疑問もなく繰り返しているんだ。そんなことができるということが、人間がゲスでくだらない存在だってことの何よりの証拠じゃないか?」
蓮が思わずそうまくし立てると、やや俯きながら黙っていた琴音がその顔を蓮へと向けて、
「ねぇ、蓮。あなた、友達いないでしょ」
そう言った。
唐突な質問にやや驚いてから、蓮は答える。
「ああ、いない。そんなものは必要ない」
「そうね。確かに、頭がよくてなんでもできてしまいそうなあなたには、お互いに助け合う仲間なんて必要ないのかもしれない。でも、まあ……わたしが言えた義理じゃないかもしれないけれど、わたしから言わせてもらえば、蓮、あなたは逃げているわ」
「逃げている?」
「うん……。あなたは、人を馬鹿にして踏みにじることで自分を高級なものにして、軽蔑しているくだらない人間たちと自分が全く同じ生き物なんだっていうことを認めることから逃げている。自分の中にある人間の汚さを認めることから逃げている。汚さとくだらなさの中でずっと生きていかなきゃいけない、そういう『現実』というものから逃げている。道は違えど、あなたと同じく逃げているわたしには解るわ」
「…………」
何も言い返せず、蓮は半ば愕然としながら黙り込んだ。
「自分でも言うのもなんだけれど、逃げている最中の分にはまだいいと思う。でも、あなたの逃げているその道は、いつかその果てに行き着いてしまったら……あなた、本当に人でないものになってしまうわ。そんなの、わたしはイヤよ?」
「…………」
なんの前触れもなく批判の言葉を浴びせられ、蓮は完全に言葉を失う。言葉を完全に失い、一言の反論すらできずに黙っていると、琴音は急に慌てた様子で言った。
「あ、ご、ごめんなさい。言い過ぎたかしら……。な、なんていうか、その……叔父さんのことで驚いていて、つい……」
「……いや、いいんだ。お前の気持ちを全く考えなかった俺が悪い」
反論の余地はない。蓮は自らの間違いを全て認めた。
「で、でも、あなたは今のままでいいのかもしれないわ。全力で逃げるなら、それもまたきっと前向きよ。それに、わたしがこうして人と話ができるようになったり、ネガティブなことばっかり考えなくなったりできるようになったのはあなたのおかげ。だからわたしはあなたの、『お前を救ってみせる』なんて子供っぽいことを言えるところも悪くないと思うわ」
琴音はまるで言い訳をするような口調で言って、ぎこちなく笑う。打って変わって、しかし褒めているのかどうかいまいち判然としないことを言い始めた琴音に蓮はやや呆れながら、
「結局なにを言いたいんだ、お前は。俺の欠点を厳しく叱り付けて、叱り付けておきながらそこを悪くないって言ってるみたいだが」
「え? えーと……。な、なんていうか、も、もしかしてわたし、あなたの力を弱らせる余計なこと言っちゃった……かな」
「ふっ……。ああ。そう――かもな。夢の中の世界でどう振る舞えるかは、全て自信にかかっているようなものだ。お前は今、俺の中のそれを思いっきり打ち壊したのかもしれない」
「ご、ごめんなさい。でも言わなきゃいけない気がしたのよ。あなたがもっと強くなるために」
琴音は申し訳なさそうに眉を八の字にしながら言って、言葉を継いだ。
「わたしね、映画を聴いてていつも感じるんだけど、正義のヒーローのパンチって弱いと思うのよ」
「は? なんの話だ」
「大した葛藤も経験してないクセに『正義のパンチ』なんて言っても、重みがないのよ。だからいつまでも悪を倒せない。それはきっと、あなたの仕事でも同じだと思う。相手の辛さや悲しさを理解した上で、あなたは仕事をするべきじゃないかしら。あなたが相手のことをきっちり理解しているということは、きっと優しさとして、どこかの部分で相手に伝わると思うわ。それができてこそ、完璧な仕事と言えるんじゃないかしら」
「……ああ、そうだな」
その通りだ。蓮が頷くと、うん、と琴音も笑顔で頷き返してきた。
最後は前を向けたとは言え、琴音に欠点を糾弾されて、つまり琴音に叱られて、蓮はこれからやらねばならないことがあるというのに落胆しながら、
「じゃあ、いったん俺は帰るから、また……」
そう言って腰を上げると、琴音が慌てたように口を開いた。
「ねぇ、蓮。明日……なの? また、わたしの夢の中へ行くのは」
「……ああ」
蓮はそう答えてから、その声にやや翳りがあることに気づき、
「お前、まさか――」
「ううん」
琴音は首を振った。
「わたしは行くわよ。あなたを信じて」
「……そうか」
自分を信じてくれるありがたさのその反面、琴音に辛い決断をさせてしまっていることに申し訳なく思い、蓮は複雑な気分でそう返す。
すると琴音は、その口元に柔らかく笑みを浮かべながら言った。
「わたしはあなたが好きよ、蓮。愛しているわ。あなたの言うことだったら、なんでも信じてしまうくらい」
は――と言葉を失う蓮に、琴音は続けた。
「けれど、だからこそ……不安だわ」
琴音は俯き、それきり黙り込んだ。
琴音が何に不安を抱いているのか。どことなく解るような気がしたが、その理解は全く不足したものであることもどことなく解った。いやおそらく琴音自身にすら、胸に漠然と広がる不安の正体を掴み切れていなかった。
「それでも、行くんだろ?」
「……ええ。だって――」
琴音は小さく頷き、そして伏せていた長い睫毛を上げて虚ろを見据えた。
「この瞳で、あなたと見つめ合いたいもの」




