姉の夢の中。
「そう……。やっぱりあれはお姉さんだったの……」
訪れることにもすっかり慣れてしまった深夜の病院、明かりの一つもない琴音の病室。
ベッドに布団を被って横たわりながら、琴音はそう呟いた。
蓮は、定位置であるベッドと窓の隙間に胡坐をかいて座りながら、
「ああ。悪かったな、うちの姉が馬鹿なことをして。でも、やっぱりどうやら、ああまでしなきゃならなかった理由はあるらしい。姉さんは、この件の裏に何かがあると見てるみたいだ」
「何か……?」
「俺もそれが何かはよく解らない。だから、それを訊くためにもお前を連れて姉さんに会いに行きたい」
「でも、本当にわたしもお姉さんの夢の中に入っていいの? というか、入って行けるの?」
「まあ入れることは入れるだろう。だが、もしかしたら、ちょっとの間は空振りが続くかもしれない。人が生まれて初めて見たものは、その人の夢に出るまでおよそ一週間がかかると言われているからな。しばらくは寝不足が続く可能性もある」
「そうなの?」
「ああ。でも、それは絶対でもない。お前も、俺と会ったその日にすぐ俺の夢を見てたしな。もしかしたら姉さんも、今日にでもお前を夢に見るかもしれない」
「そう……。でも、本当に勝手にお姉さんの夢なんかに入ってもいいのかしら……」
「構わないだろ。他人だが他人じゃない、俺の姉なんだからな」
「……あなた、もしかしてお姉さんの夢に入りなれているの?」
琴音はどこかじとりとした口調で尋ねてくる。蓮はそれに呆れながら、
「入りなれてるわけなんてないだろ。……むしろ、今回が初めてだ」
「へえ、そうなの。意外だわ。どうして?」
「どうして、って……用もないのに人の夢に入ってどうするんだ。それに人の夢なんて、見て楽しいものじゃない」
「そうなの? なんだかとても面白そうなものだけど」
「非現実的という意味では確かに面白いかもしれない。でも大抵の夢は……とにかく、なんていうか、ゲスだ。人間のくだらなさをこれでもかと見せつけられる場所だ」
蓮は思わず視線を落としながら言う。
琴音は何かを察したように、困惑するようにしばし沈黙した。そして、やがて尋ねてきた。
「ねぇ、蓮。夢って……なんなの?」
「ん……? さあな。俺にもよく解らない」
夢を仕事にしていると言いながら、夢の正体については何も解らない。蓮が正直に答えると、琴音は追って尋ねてきた。
「テレビでよく、『夢は深層心理を表す』とか、『夢には抑圧された欲求が表れる』とか言ってたけど、そういうものではないの?」
「フロイトか? ああ、あれは全くのデタラメらしい」
「デタラメ?」
「ああ。あの人は夢の研究について没頭する以前は神経生理学の学者で、その時に築いた独自の神経生理学の理論を元にあの有名な夢理論を作り上げたんだが、そもそもその元になっている神経の理論がデタラメなんだ。俺も専門ではないから深くは理解していないが、解っている限りで簡単に言うと、フロイトは、ニューロンには電荷が蓄積されるもの、つまり、今ではもう常識となっているように、外部からの刺激は抑制されるものだとは考えなかったんだ。彼は『刺激は脳に蓄積される』と考えた。それならば、それは発散されなければならないということになる。発散とはようするに欲望の実現だが、しかし社会で生きていく上ではそれをするのが許されないことも多々ある。というか、許されないものばかりだ。すると、脳にはどんどん刺激が蓄積していく。するとそれに伴い、欲求を果たしたいという願望もどんどん高まっていく。だがしかし、身勝手に願望を叶えるわけにはいかない。そこで、その願望を実現するのが夢なのだ――と、彼は考えたんだ。でも、そもそも元の考え方が間違ってるんだからその考えの全てが正しいわけがない。そういうことだ」
「へ、へえ……」
琴音は頬が痙攣したように引きつった笑みを浮かべて、
「ふ、ふぅん……そうなのね。なら、夢に願望が現れるっていうのは全然ウソなのね……」
「いや、そういうわけではない。俺も夢については何も解らないから断言はしかねるが、つまりおそらく、夢に願望が現れることはあるが、願望が夢を見させるわけではない――そういうことだろう」
「……うん。なるほど。確かに、それはそうよね。……それで? あなたはどう思っているの?解らないとは言っても、夢の正体がなんなのか、想像してるぐらいのことはあるんでしょ?」
「ん? それはまあ……な。というか、前にも少しだが言っただろう。俺が思うには、夢は『結晶』だ。記憶、想像、様々な感情、意識、無意識、そういうようなものを全て適当に混ぜ合わせて一つに固めたものが夢――だと俺は思っている。そんなことをすることになんの意味があるかは解らないがな」
「ようするに人並みのことしか解らないってことね」
「ああ。それを知りたいっていうのも、俺がこの仕事をしてる一つの理由ではあるんだが、正直、糸口すら見えない。もしも思っている通り、夢というものが生と死の境にある結晶だったなら、その正体を知るには生も死も俯瞰できる所に行かないといけないのかもしれないな」
蓮は苦笑ながらそう言って、
「というか、琴音。そんなに喋ってたら意識体の遊離に失敗するぞ。ちゃんと集中しておけよ」
「うん……。でも、ねぇ、蓮」
「ん?」
「生きるとか、死ぬとか……魂とか、命とかって、なんなんだろうね……?」
琴音は、闇の中でぼそっとそう言った。
「さあ……解らない。なんなんだろうな」
蓮にはそうとしか答えられない。
「だけど、一つ言えることはな……琴音。お前、そんなこと考えてたら眠れなくなるぞ」
蓮が言うと、琴音は自分自身の胸の中を見つめるように数秒、黙り込んで、
「……あーあ。もうダメね。もう少しも眠れる気がしないわ」
そう呟いたが、それからほどなくして蓮の傍らにある『箱』に水が満ち始め、それに蓮と琴音、二人の姿が映った。徹夜が長引くかもしれないという心配は杞憂だったらしい。蓮はなんとなく気乗りしないまま、琴音とともに『箱』へ飛び込んだ。
『――――』
二人、同時に息を呑んだ。
ファストフードの店内らしき場所の一角で右手にコーヒーカップを持っていた蓮は、隣の席に座っていた琴音の手元を見て唖然とする。
自らの喉元に突き立てるような形で包丁を持っていた琴音は、その手をおずおずと下ろし、
「こ、これって……?」
「な、なんだろうな……。だ、だが、夢の中じゃこういうのはよくあることでもある。現実での考え方が全く通用しない世界だ。一瞬たりとも油断するな」
「え、ええ、解ったわ」
戸惑った様子ながらも頷いた琴音と、琴音が握っていた包丁から視線を上げ、蓮は周囲を見回した。どこかに椿の姿があるはずだ。そう思いながら目を走らせた。すると、すぐにその姿が目に入った。
店外、どうやら大きな商業施設の中にテナントを開いているらしいこのファストフード店の前の廊下に、椿が一人で佇んでいた。自分たち三人以外の人影がなかったため、すぐに見つけることができた。
椿は、蓮と琴音が自分を見ていることに気づいたのか、不機嫌そうに目を逸らして足を踏み出し、エスカレーターを下りて階下へと向かっていった。
琴音が困惑で上手く言葉も出ないような表情で訊いてきた。
「あれが……あなたのお姉さん?」
「ああ。そうだ」
「なんだか、すごく怒っていたみたいだけれど……」
「いや、気にするな。あれはいつもあんな顔をしてるんだ」
言って、蓮はテーブルを立った。
「行くぞ、琴音。さっきみたいに、いつ何が起きるか解らない。絶対に俺から離れるなよ」
「う、うん……」
琴音も慌てた様子で椅子から立ち上がり、よたよたと横歩きに座席から通路へ出て、そして何やら蓮を見上げながら含み笑いをした。
「なんだよ?」
「ううん。けど、『俺から離れるなよ』なんて、すごい自信だなって思って」
「ん? まあな。でも、別に根拠のない自信じゃない。何をどう考えても、この世界じゃ俺が最強だ」
「そう。それはとても心強いわ」
ああ、と蓮は椿の下りていったエスカレーターへと目を向け、椿を問いただすべくその後を追った。




