娼館の姫君
嗅ぎ慣れた、香草の臭いで目を覚ました。
「……ん、ふ、あぁ……」
何も変わっていない現実を認識し、欠伸を一つ。
寝ぼけ眼を擦り、洗面台へとふらふら近づく。
冷え切った水。けれど、意識は半覚醒のままに。
戻って身支度を整えて、用意されている朝食に手を付ける。
小食な身には丁度いい量も、いつもと変わる事は無く。
「……?」
けれど、訴えかけてくる何かが、いつもとは違うのだと教えてくれる。
何なのだろう?
「まあ、いいかな」
どうせ、何も変われないのだから。
籠の中の鳥のまま、私はここから抜け出せない。
期待は裏切られ、妄想は無意味に終わるのみ。
人魚の姫、クレア・ヴァナディル・ライクスティーレという女は、それを嫌という程知っているのだから。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
結局のところ、私は愚かだったのだと思う。
好奇心からお付きの目を掻い潜って城を抜け出し、護衛の一人も連れずに外に出て。
初めて見るものに興奮し、感動し、興味を抱き、疲れ果てて――捕らえられた。
私を捕まえたのは、如何にも人の良さそうな人間の老夫婦だったように思う。
初対面の相手にするには過剰な程に親切にされて、食事に盛られた薬草によって私は意識を失った。
ずっと、満面の笑みを浮かべていた彼ら。
その意味が、今なら理解できる。
無垢で在れた昔のように、善性を信じられなくなったが故に。
そして、私は気絶したまま輸送された。
扱いは荷物と同じだった。商品なのだから、当たり前か。
それを納得――いや、理解することさえ、当時は出来なかった。
無知な姫は、暫くしてここ、「不死の肉亭」に運ばれた。
「不死の肉亭」は所謂通称で、正式な名前が別にあると聞く。
けれど、それを私は知らないし、知ろうともしなかった。
無意味だし、「不死の肉亭」がこの館の全てを物語っているからだ。
「不死の肉亭」は年若き(時には幼いとも言える)年齢の女性が男性に身を差出し、その代価として金銭を受け取る、所謂娼館という場所だ。
しかし、この館にとって売春婦の提供は主業務ではあっても、人が集まる理由にはならない。
この店に所属する娼婦は人攫いによって連れられてきた一般人が殆どで、品格も技巧も不足が過ぎる。
それでも、多くの地位ある人間が訪れる。
街中では食せない珍味を求めて。
――初潮を迎える前の幼女の子宮を食せばは、病魔が払われるという。
――妖精の羽を煎じて飲むと、見る見るうちに若返るという。
――長耳の臓物は、食べた者に長寿を齎すという。
――人魚の肉は、丸ごと摂取することで不老不死を得るという。
眉唾な話だ。
人魚の肉を食べたところで、不老にも不死にもなれない。
けれど、それを眉唾な話だと理解していても、訪れる客足は絶えることがない。
それは、権力者の常であるという。
この世の春を謳歌したが故に、現世に執着するというのは。
くだらない、と思う。
魔力を解明し、魔法を支配し、他種族を排した彼らは、けれど幻想に手を伸ばす。
人間には持ちえない、魔法を扱う器官を持つだけの生物に神秘性を見出し、自らのものにしようとするのだ。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
香が充満する大広間に、がしゃんと硝子が割れる音が響く。
音の原因となった少女は、酷く顔を青ざめさせていた。
その足元に視線を向ければ、粉々になりながらも一部で見覚えのある硝子の模様が目につく。
「……レヴィン様のお気に入りの皿ね。アーテ、どうするの?」
「ひぃっ!」
アーテ、まだ「不死の肉亭」に連れてこられてきて日も浅い少女は、腰を抜かしたまま悲鳴を漏らした。
過激な調教はまだなのかもしれないが、それでもこの店の主であるレヴィンに躾位はされていたのだろう。
涙目になりながら、助けを求めるような視線を周りに向けていた。
誰もが彼女から目を逸らしていた。
「跪いて慈悲を乞えば、命は助かるかもしれないわよ」
「あ、あぁ……」
ショックから立ち直れないままでいるアーテ。
その頬を滴が伝っていた。
直後に、一人の少女が彼女の前に踊り出る。
アーテの一つ前に連れてこられた少女で、アーテとは姉妹のような関係を作っている、と聞かされた覚えがある。
面倒事になるなと確信しつつ、問いかけた。
「セラ、どうしたの?」
「どうしたの、じゃないわよ! 皆してアーテを虐めて楽しい!? 誰かこの子を助けようと思わないの?」
周り全てが敵だとばかりに、セラは怒りを滲ませた声をぶつけていた。
それを受け止める様子は、誰にも見られない。
「提案はしてるわ。助かるかもしれない方法を」
「跪いて慈悲を乞う? そんな真似、出来る訳ないでしょう!」
どうにもセラは、レヴィンによる調教が上手くいっていないらしい。
反骨心を根こそぎ叩き折り、服従を植え付けるレヴィンの調教を受ければ、こんな言葉は早々出てこない。
それとも、セラは受けてなお、言うだけの矜持を残していたのだろうか。
その若さを少しだけ羨む。
「出来ないのなら、そのままお別れになるだけ」
「このっ……! ……あぁ、そうね。貴女は出来るんでしょうよ、化け物だから」
化け物。久々に聞いた言葉だった。
由来は何だったろう。
肉の一部が客に食べられた翌日、どこにも欠損が無かった私が誰かにそう呼ばれた記憶がある。
実際は生きたまま齧りつかれ、激痛に泣き叫び、治癒の回復魔法具が使われたのだけど。
ふと姉のように親身にしてくれていた、人間の女性の顔が薄らと浮かびかけて。
ズキ、と頭痛がした。
「でもね、私たちは違うの! 人間だから……プライドを持たない、こんな畜生染みた生活を楽しんでる化け物とは違うのよ!」
「せ、セラお姉ちゃん、言い過ぎだよ……」
「アーテは黙ってなさい!」
「あぅ……」
日頃の鬱憤を晴らすように、セラは私を糾弾する。
止めようとしたアーテにすら怒鳴りつけ、最早何がしたかったのかが分からない。
……セラも遠くない内に、居なくなるだろうか。ふとそう思った。
二人に向けられる視線が、加速的に厳しいものに変化している。
「何の騒ぎだ。私の睡眠の邪魔をするとは、いい度胸だな……?」
そして、奥から苛立たしげな男の声が届く。
アーテがびくんと肩を震わせ、それ以外の娼婦も即座に姿勢を正した。
例外は興奮しているセラくらいだろうか。
やって来たレヴィンを睨み付けるようにし、声を張り上げた。
「いいわ、こうなったら私が直談判してやるわよ! アーテ、貴方は絶対私が助けてあげるからね?」
「せ、セラお姉ちゃん……!?」
セラが粉々になった皿の欠片を拾って、アーテを背にレヴィンと対峙する。
「何の話……ッ!? な、それはグルネル・スタリカの皿……! 貴様ら、それが幾らしたと思っている」
苛立ちから一転、激昂するレヴィン。
セラはそんな相手にも物怖じせず、攻撃的な言動を重ねる。
「少なくとも、私やアーテの命よりは価値がないでしょう?」
「……反省の色もなしか。いいだろ、仕置きだ。貴様の後ろに居るガキ、どうやらお前も関係者のようだしな」
「ぃ、ひぃっ……!」
そして、セラは唐突に駆け出したかと思うと、レヴィンに殴り掛かった。
年頃の少女にしてはかなり素早く、拳のキレも鋭いように見える。
加えて、硝子の破片を持っているため、殺傷力も飛躍していることだろう。
けれど、意味がないのだ。
「ぁ、ぎぃっ!?」
「きゃあっ!」
小さな爆発音がして、セラの身体が後方に勢いよく吹き飛ばされた。
その先に居たアーテを巻き込んで倒れる。
見れば、頭や直撃したであろう腹部から滲むように出血しているらしい。
意識もないようだが、無理もないか。
「飼い主の手を噛む犬は躾をしてやらねばな。全く、調教の時に妙に従順かと思えば、本性はただの駄犬だったか」
レヴィンは向けていた指に填まった魔法具を軽く撫でると、転がる二人に近付いていった。
それを止めるものは居らず、誰もがただ状況の変化を見守り続けている。
無闇に口を出し、巻き添えを食らわないように。
「さて、今日は存分に嬲ってやろう。はは、壊してもいいのは久しぶりだな。壊れたのを処分する機会は多かったが、偶にはいいかもしれん」
レヴィンがククッと嗤うと、何人かの娼婦が小さく怯えた。
比較的稼ぎの少ない娼婦たちだ。
次に処分されるのが自分ではないかと気が気でないのかもしれない。
「ああ、忘れるところだった……クレア!」
暫く嗤っていると、レヴィンは何かを思い出したらしく、私の名前を呼んだ。
要件は分かりきっているため、簡潔に返す。
「そちらの皿を割ったのは、セラの下敷きになっている新入りの娘です」
「ご苦労。では、ガキも連れていくか」
「え……?」
セラと同様、手を掴まれたアーテは戸惑いの声を上げた。
状況が分かっていないのだろう。
根本の原因は彼女にあるのだが、状況の変化についていけず呆けていたらしい。
あの二人は、良くも悪くも若いという点で共通していたのか、と今更の発見をする。
「さあて、楽しむとするか」
レヴィンはずるずると二人を引っ張っていく。
アーテは抵抗していたが、優男らしい外見の割に鍛えられているレヴィンには露程も効果を現していないようだ。
程なくして、広間は静けさに包まれた。
「……そろそろ、夜の仕事に備えて部屋で準備をする時間だから、戻りましょうか」
私の声を切っ掛けに、一人、また一人と自分の部屋に戻っていく。
最後に一人、この娼館でも古参に数えられる娼婦が私の傍に残った。
「目立つ役割を任せて、御免なさい。クレア姉様」
そう、目を伏せて言う長耳の娼婦。
私の次に、「不死の肉亭」で娼婦を続けているのは彼女だ。
「そろそろ、潮時かもしれないけど」
「まさか! ……もしや、レヴィン様が?」
「ええ。とある貴族が、本気で私を買うつもりらしいの。身請け……という名目らしいけど」
この店の通称を考えれば、何をされるのかは明白だった。
生きたまま店を出ることは、やはり二度とないのだろう。
その日までどれだけあることか。
「どちらにせよ、私は長くなかったし……だから、私が居なくなった後は、皆をお願い」
傍に立つ彼女にそう言うと、首が横に振られた。
「私は、クレア姉さまのようにはなれません……これまで、娼婦としてしか生かされてきませんでしたから」
「貴方になら出来るわ。いいえ、貴方がやらなければならないの。貴方が、最古参になってしまうのだから」
「クレア姉様……っ!」
頭を預けられ、小さく嗚咽が耳に届いた。
髪を梳きながら、彼女の気が済むまでそうさせようと思った。
私はきっと、もう二度と――――には。
頭痛が増した。
表情と仕草には出ないように努める。
ああ、もう……それが、人なのか、場所なのか、物なのかすらも思い出せない。
「姉様?」
「何でもないわ。ほら、貴方も戻りなさい。今日も仕事があるのでしょう?」
薄らと笑みを顔に貼り付け、彼女を促す。
不安そうな表情をしつつも、彼女は小さく頷いた。
「……はい、ですが――」
「いいの」
何かを言おうとした彼女の口元に指を当て、発言を遮る。
「自分のことを一番に考えなさい。皆のお姉様になるのだから、貴方が体調を崩していては示しがつかないわ」
「……わかりました。けど、クレア姉様もお早くお戻りくださいね」
「自分のことは自分が一番分かっているわ」
「そうですね。では、また明日に」
深々と礼をした後、彼女は部屋へと戻って行った。
そうして人に溢れていた広間に残るのは、私一人になる。
だから、気兼ねなく倒れるようにソファに腰を落とせた。
「……そう。自分の事だからこそ、誰よりも分かっているの……」
脂汗を流しつつ、痛みが緩和されるのを待ち続ける。
広間の奥から漏れ聞こえる嬌声と絶叫が、耳を揺らしていた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
久し振りに客を取る事になった。
以前に一度だけ私を食べに来た、どこかの商会の長であるという。
初めての時、鼻息荒く自身の名を語られてもピンと来ない私を、彼は不満げにしていた。
けれど、この檻から出られない私が商会の名前なんて知られる筈がない。
その時は苛立ちを発散させるように、握り拳程度の肉を削がれ、食された。
でっぷりと肥えた見た目通りの健啖家であるらしいが、私の肉はそんな量でもかなり値が張るのだという。
未練がましく私を見る、濁ったような青い目が印象的で、酷く滑稽に思えた。
彼は、私が身請けに出されると聞き、最後にもう一度食べに来たのだという。
レヴィンはにこやかな笑顔で彼を部屋へと通し、暫くして私もそこへ出向く。
そして始まる、私の肉を削ぎ取る作業。
専用の小振りな肉斬り包丁で、右の乳房に刃が立てられる。
走る痛みは慣れて久しく、けれど耐えられる類でもなく瞼を強く閉じる。
痛みに掻き乱される思考を、別の方向に逸らすことで和らげる。
そうしなければ狂ってしまう。
狂うのは、駄目だ。
何かを考えようとして、咄嗟に思いついたのは先程の事だった。
――そう言えば、彼女はどうしたのだろう?
若く、人間として生きる矜持を持っていた彼女――セラ。
レヴィンの表情から察するに、おそらくはもう処分したのだろう。
彼女を姉と慕っていたアーテは、これからどうなるのだろう。
セラ程反抗的ではなかったため、アーテまでが処分されるということは、レヴィンの性格からしてないだろう。
それでも、無事に済まされるはずもない。
何をさせられたか、何を見せられたか、想像するのも悍ましい。
けれど、想像出来る範囲内なのだろう、とも思う。
だって彼女は人間なのだ。
"化け物"にされる所業を思えば、きっと"人間"のアーテはマシな扱いを受けているのだと思う。
斬、と抵抗が消え、右胸に付いていた重りが取り外された。
血がだくだくと流れ続けているが、いつもの魔法具で無かったように治されるのだろう。
彼の払った金額は右胸の分だけ、と聞いていたのでこれで終わりだ。
「……あぐっ!?」
退出しようとして、更に左胸から生じた激痛に苦悶の声が漏れた。
目を開けば、左胸に突き立てられ、肉を斬り落とそうと動く白刃。
彼は左胸の肉を生のままで咀嚼し、口から血を撒き散らしながら、狂笑を浮かべて手を動かしていた。
逃がさないとばかりに掴まれる腕は、私の膂力では振り解けそうにない。
瞬時に感じた生命の危機に、死の恐怖が襲い来る。
「ぅ、あっ……」
「ひ、ひひっ! 貴族になんか、渡して堪るか! 俺が、俺が手に入れるんだ!」
最早、彼を滑稽だなんて思っていられない。
幻想に取りつかれ、正気を逸している人間程、怖いものはない。
求めるもののためなら、彼らは躊躇わない。
――私は殺されるのだろうか?
それならば、私は何のために生きてきたのだろうか。
何も得られず、何も残せず、ただ奪われ続けていた人生。
その終幕は、一度会っただけの人間に食われて、死ぬ。
そんな終わりは、嫌だ。
「……お、願いっ!」
だから、頼った。
私では何も出来ない。
力などなく、奪われるだけの私に何が出来る筈もない。
けれど、彼らは違う。
人間に支配され、彼らの力を利用されても、それでも世界に残り続ける魔法の力の源――精霊に。
「――――ッ」
変化は直後に起こる。
突如として私の空いた手の中に生み出された水球が、目の前の彼に突撃し、爆発する。
そして、首から上を失った彼は、支えを失った人形のように崩れ落ちた。
「……あ、りが、とう……ぐぅっ……」
そこに居る何かが気にするな、とでも言うような思念を伝えてくる。
感謝の言葉を述べるも、それで限界だった。
激痛に悶え、蹲る。
荒い息を小刻みに、レヴィンが来るのを待った。
あれだけの騒音を立てておいて、彼がやって来ない訳もない。
「何事だ!」
勢いよく扉を開けて、レヴィンが足音高く入り込む。
そして頭のない死体と両胸を失った私を見て状況を察したらしく、舌打ちを鳴らした。
「……チッ、食い逃げしようなど、舐めた事を考えたな」
転がる死体を足蹴にし、レヴィンの形相が苛立ちに満ちる。
そして、彼の足は私にも伸ばされた。
鳩尾に革靴の爪先が抉り込み、呼吸が止まり激痛に目を開く。
「あ、がっ……!?」
「クレア、貴様も同罪だ! 商品風情が客に歯向かっていい道理がないだろうが! 規定違反なら、殺さずとも搾り取る手段が幾らでもあったというに……」
「申し、訳……ございません……」
フンと鼻を鳴らすと、レヴィンは持ってきた魔法具を私に向けて翳す。
そして、幾許も経たない内に私の胸は元の質量を取り戻す。
痣になっていたであろう掴まれていた腕にも、痕跡の一つすらない。
私たちに地獄を見せる原因であり、同時に死から遠ざけてくれる魔法具。
死神にも等しいそれは、照明を反射して無機質に輝いていた。
「あ、りがとう、ございました……」
肉体は戻っても、失った体力まで補填されるわけではない。
疲弊しきった身体は強烈な睡魔に襲われ、瞼の重さが耐えきれなくなる。
レヴィンの愚痴る声も、騒ぎも遠く、意識は闇に落ちていった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
目覚めた時には、全てが終わっていた。
「お目覚めになりましたか、姫様! 嗚呼、よくぞ今日まで生きて下さいました。辛酸を嘗め、屈辱に伏された御身を思えば、このセバス、心痛が絶えませぬ」
草花の香りと、人肌の温もりに抱かれながら、記憶の片隅に残る老爺の顔が視界に映る。
……ここはどこだろうか?
周囲に視線を送れば立ち並ぶ木々、空を見れば鬱蒼と茂る木の葉。
森。つまりは「不死の肉亭」の外。
いけない、私が彼処にいなければ、レヴィンに何をされるか――?
「姫様? ……どうやら混乱しておいでのようですな。無理も御座いませぬ。そのようなや痩せ細ったで無理に魔法を使い、漸く意識が戻ったばかりとあらば」
姫様という呼び方を認識し、私を抱えている相手の姿を捉えた。
私がまだ城に居た頃に、教育と身の回りの諸事を任されていた教育係、セバス。
懐かしさが込み上げてくるが、小さく頭を振って自嘲した。
「セバス? ……セバスの幻覚が見えるなんて、私も限界を超えた、って事なのかしら」
いつものとは違う、ある意味で懐かしい幻覚。
暖かな記憶を幻覚でも見られなくなってから、どれだけの歳月が経ってしまったのだろうか。
一体何を投与されたのかは知らないが、個人的にはありがたく思いもする。
「幻覚などとんでもない! 姫様、これは現実ですぞ。我らはあの悍ましい売女の巣窟から救出を果たし、祖国への帰還の途中で――」
……。
やはりと言うべきか。
私の身体は、この幻覚の老爺に売女と呼ばせてしまう程に穢れてしまっているのだ。
その事が、これまでに誰かに化け物と呼ばれ、蔑まれてきた何よりも心を苛む。
記憶が軋む音がした。
「……セバス、私が居たあの娼館はどうなったの?」
じくじくと痛む心に蓋をし、幻覚の老爺に尋ねる。
む、と話しを中断して唸った後、セバスは僅かに考えるような素振りを見せて、
「そうですな……簡単に言いますと、行方不明になった姫様を遂に見つけた我らが襲撃をかけたので、館は物理的に崩壊しました。衛兵なども出張る事態になったため、我らは姫様を連れて脱出した所ですぞ」
「娼婦達はどうなったの?」
「さて、死んではいないと思われますが……確認まではしておりません。申し訳ございませぬ」
深々と頭を下げるセバスに、そう、と呟きを返す。
実際にも起こる可能性のある展開に思える。
整合性が僅かにでも取れているのは、私の成長の証だろうか。
こんな成長をして、意味があるのかと問われれば、即座に首を振るだろうけれど。
「それで、この後はどうなるのかしら」
「王と王妃、それに王子の待つ国に帰還した後は、国を挙げての祝典が執り行われるでしょう。勿論、姫様の体調が快復した後、になりますが」
「そう……」
内心、嗤った。
この穢れた身を、祖国の者達に晒せと?
それ以前に、愚かな私が再び家族に会うなど、耐えられない
合わせる顔など、何処にあるというのか。
「少し、休むわ」
瞼を降ろし、微睡みに身を委ねる。
一刻も早く、この幻覚を終わらせたかった。
快楽もなく、救いもない、この冷酷な現実を。
「はっ。では、このセバスの手の中ではございますが、どうかご辛抱下さいませ」
そう言うと、セバスの私を抱く手が少しだけ強まる。
触れた肌から伝わる温もりに、どうしようもなく胸が締め付けられた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
磯の香りに目を覚ます。
そこには、忘れてしまったものがあった。
「…………」
「おお、丁度お目覚めですか、姫様。我らが祖国へはもうすぐですぞ」
青。
視界を埋め尽くす、圧倒的な青色。
波を高く立て、潮騒を荒げる大海が目の前に広がっていた。
「……はは」
「どうされました、姫様?」
嗚呼、そうだ。
どうして忘れてしまっていたのだろうか。
この匂いを。
この景色を。
この青を。
この、海を――――。
「ひ、姫様!?」
涙が溢れる。
止まらない。
止められない。
止めようという意志がない。
「――――! ――――!?」
耳に入る騒音は、もう聞き取れなかった。
聞こえるのは、波打ち、さざめく海の声。
それ以外は、何もいらなかった。
「ああ、そうだったんだ……」
もう一度、見たかったもの。
苦痛に耐え、絶望に抗い、生きてきた目的。
それが、この瞬間に果たされた。
「――すぅ」
息を吸う。
たっぷりと海の吐息を飲み下し、その甘美に酔う。
「――はぁ」
息を吐く。
穢れた身を禊ぐように、溜まった毒を吐き出す。
「ふ、ふふふ……」
実際に毒を吐く事なんて出来ない。
蓄積されすぎた穢れは、最早手の付けようがない。
今もなお全身を激痛が苛み、中毒症状が思考を掻き乱してくる。
ああ、けれど、もういいのではないか?
重荷を捨てて、自由になっても。
たとえこれが幻覚であろうと関係ない。
求めてきた物を得て、私は満ちてしまっている。
「あぁ……」
幸福な終わりを求めよう。
身体が妙に軽かった。
束縛から抜け出し、海へと歩を進める。
どうやら、精霊が私に力を貸してくれているらしい。
何かが私に、暖かい気持ちを伝えてきていた。
「――――!!」
声援を背に受け、とん、と海へと飛び出した。
海中を泳ぐ魔法なんて、とうに忘れてしまっている。
人魚と言っても、人型のまま海中で呼吸が出来る訳ではない。
だから、このまま、私は溺れて死ぬだろう。
それでよかった。
海に包まれて死ねるなら、本望でさえあった。
「――――ぇ様ぁっ!!」
海中に潜り、肺に残る息を吐き出し、最期に聞こえた誰かの声。
ああ、そうだ。まだやらなければならない事があった。
精霊の力を借りて、それを伝える。
「不出来な娘で、姉で、申し訳ありませんでした」
どこか記憶に面影を残すその男性に、遺言を伝えた。
泣きそうなその顔が、弟の顔に重なって見えた。