“トクベツ”な人(3)
「そうそう! 倉前くんでも違うんなら、どんな人がタイプなの?」
「どんな……」
どんな人が自分の好みのタイプかなんて、今まで一度も考えたことはない。だからそう尋ねられても、すぐに答えは出てこなかった。
一度も誰かに恋心を抱いたことがないから、経験から導き出せることもなく。
口ごもる私を、どう思ったのかは分からない。けれども彼女達は、さして気にした様子もなくて。
「もしかして、白馬の王子様だったり!?」
「あっはっは! 何だっけ、『姫様』? だもんね!」
「違うって、『姫ちゃん』だよー」
「あれ、そうだっけ?」
「そうそう! でもまぁ白雪姫なんだもんねー。寝てる間に勝手にキスしてきそうな人がタイプだったり?」
「やだーっ、それは気持ち悪いー!」
「いやあの……さすがにそれはちょっと……」
あれは童話だから許されるわけで、実際に出会って間もない相手に唇を奪われるなんてことがあったら、どんな素敵な人だったとしても嫌だと思う。さすがに唇にされたら、挨拶だなんて思えないし……
そう考えた瞬間、浮かんでくるのは今朝のこと。
――『キス』。
その単語は、私にとって縁遠いもので……というよりも、今までの人生でずっと無縁だったのに。
どくり、大きく一度心臓が跳ねた。
――忘れかけていた頬の熱が、再び蘇ってくる。
……いやいやいや。あれは頬だ、キスじゃない。いや、キス……ではあるけれど、彼女達の言ってるのは唇同士のことだから、今朝のことは全くもって関係ない。……うん、関係ない。だから冷静になって、と、逸る鼓動を落ち着かせる。そうしなければ、今にも不自然に赤く頬が染まるのを止められそうになかった。
それに、だ。
「……それにお姫様なのは、私じゃなくてマッチだし……」
今朝も説得できなかったから、多分あの呼び方は永遠に変わらないとは思う。けれど、さすがに最も相応しい子からそう呼ばれている状況は、他の子から見たらやっぱり違和感があるはずだから。こっそりと、それを当然だと思っていないことを遠回しに口にすれば、彼女達も大きく頷いてくれる。
「だよねー、やっぱりお姫様は万智!」
「名前とかじゃないよねー、もうオーラとか雰囲気がお姫様! って感じ!」
「マッチは昔から可愛いから……」
「ねーっ! やっぱ白井さんもそう思うよね!」
万人が納得するお姫様。私の小学校からの友達であるマッチは……林万智っていう女の子は、いつでもそういう評価の子で、いつでもそういう存在だった。
いつでも一番人気者で、いつでも大勢の人に囲まれていて、いつでも皆に愛されていて……大勢の人の、一番になれる。
この世界の中でも、かなり限られた人にしかないだろう、トクベツさを持つ女の子。
そう、いつだってお姫様はマッチの方。
そう、いつだって私は……
「――姫」
突然だった。
静かな、それでいて凛とした声が響いて、一瞬、教室が静かになる。
それに私が振り返れば、見慣れた顔がそこにあった。
「あ……朔ちゃん」
私の声に反応するように、水梨朔ちゃんは教室のドアから入ってきた。
緩やかに波打つ蜂蜜色のセミロングヘア。青い瞳に、真っ白な肌。浮かんでいる表情はあんまり変わらないけれど、それすら朔ちゃんの魅力の一つなんだろう。しんとしたこの空気の中、全員が向ける視線がそれを雄弁に物語っていた。
男女問わず、ほとんどの子がどこかぼんやりとした様子で朔ちゃんのことを見つめ続ける。薄らと顔を赤くしている男の子や、羨望の眼差しで見つめる女の子。色々な表情を各自浮かべてはいるけれど、そのどれもが嫌悪の類とは程遠い。
そんな中、視線を一身に受けている朔ちゃんは、長い髪を微かに揺らしながら静かに数歩前へと進む。周囲には丸で無反応のまま私の前まで進み出ると、ようやく朔ちゃんはその青い目で教室を一度見回した。
そうして、こてり。近くにいた女の子に向けて、小さく首が傾げられる。
「……邪魔したかしら」
「あ……い、いいえっ!」
「そう……」
朔ちゃんの静かな問いかけに、一番近くにいた女の子が我に返った様子で慌てて首を振る。緊張からなんだろう、同学年にも関わらず女の子の方は敬語になっていたけれど、特に気にした様子もなく朔ちゃんは私の手を取った。反射的に朔ちゃんの顔を見つめれば、朔ちゃんの方も私を見ていたんだろう。私よりも少し低い位置から見上げる青い瞳と目が合って。
「姫に、言いたいことがあるのだけれど……」
静かに紡ぎながら、再び首を小さく傾げる朔ちゃん。それ以上何かを言うことはないけれど、きっと続けられる言葉は『来てくれる?』だと思う。話の流れからそれをすぐに理解して、私はすぐに首を縦に振る。
「大丈夫だよ」
「そう……」
やっぱり静かにそう言って、朔ちゃんは私の手を取るとそっと引きながら歩き出す。扉を開けて、廊下を進み、ひとけのない場所まで二人で歩く。こんなことは別に今日が初めてじゃない。行き先に見当もついてる私は、素直にそれに従うだけだ。
朔ちゃんに数歩遅れる形で着いていきながら、何とはなしに周囲を見回して、思う。
――ああ、やっぱり朔ちゃんもトクベツな子なんだ、と。
朝のホームルームまではまだいくらか時間がある。そんな時刻の廊下には、雑談をする人達の姿が少なくない。にも関わらずほとんど声がしないのは、朔ちゃんに視線が集中しているからだ。
さっきのクラスメイトの子達と同じ。恋愛的なものなんだろう、熱の込められた視線だったり、羨望、好意。ほう、と時折溜め息を吐いてるのは何も男の子だけじゃない。今朝方見たマッチへの皆の反応を思い出して、似て非なるこの状況に、改めて二人の違いを思う。
視線を集める朔ちゃんに気にした様子はなく、興味なさげな朔ちゃんには声をかける人もいない。例え朔ちゃんから話しかけたとしても、さっきの女の子みたいに、同学年にも関わらず敬語で返す子も多いと思う。これが朔ちゃんじゃなくてマッチだったら、周囲から色々と声をかけられているはずだし、気さくな言葉を返す子がほとんどだと思うけど。
何となく後方を振り返れば、顔を赤くした人達が男女関係なく存在していて。
「やっぱ美人だよねー……水梨さん」
「ねー……」
「肌真っ白だし、髪とか目とかも日本人離れしてるし……外国人みたい」
「実際、お祖母さん外国人なんでしょ? クオーターっていうの? それだって聞いたけど……」
「マジで?」
「道理で日本人離れしてると思ったー」
「人形みたいだもんねー、ヨーロッパとかそっちの方の」
「そうそう!」
「雰囲気がそんなカンジだよねー」
小声で、遠巻きに女の子達がそんな会話をしていたかと思えば。
ある一方では、男の子達がからかったりからかわれてたり。
「ホラ、お前ら話しかけて来いよ」
「ムチャ言うな、話しかけられるわけねーだろ!」
「同じ美人でも林さんとは違うんだよ!」
「違うって何がだよ」
「何つーかこう……雰囲気っつーの? なあ?」
「そーそー、気軽に話しかけられねーっつーか」
「話題がねーよなー……」
「そもそも中学のときから会話してんの、ロクに見たことねーし」
「つーかアレだろ、水梨さんと仲良いのって一人だけだろ。今一緒にいる八組の……」
別段聞こうと意識していたわけではないけれど、話題のせいなのか、少しだけ大きい彼らの会話はしっかりと耳に入ってくる。
明らかに怪しい方向に進みそうな話の内容に、不自然ではない程度に視線を前へと戻したけれど……それは正解だったみたいだ。
背中に向けて、彼ら三人分の視線が刺さった気がしたから。
「ああ、あのすげー地味なヤツ?」
半ば予想できた単語は、幾度も耳にしてきたもので。
「もっと他にいりゃあなぁ……キッカケもあるんだろけど」
「だな。あれじゃ頼りにならねーし……」
溜め息混じりに放たれた言葉は、この静かな廊下にいれば簡単に聞こえた。
"地味なヤツ"っていうのが私だってことは、まあ、すぐに分かる。けれども身近に超が付く程の美人な女の子が二人もいれば、そんな評価がつくのも当然だし、別に気になることでもない。むしろ知らない人に頼りにされる方が困るから、そう思ってくれてる方が私にとっても良いことだ。
……とは思うけれど、さすがに完全に無視する気にもなれなくて。
「……良いの? 朔ちゃん」
前を行く朔ちゃんに一応問いかけてはみたけれど、肝心の朔ちゃんは後ろを見る気配すらない。
「構わないわ……」
返ってきたのは、ごく短い言葉だけ。
歩む速度を変えることなく、朔ちゃんはただ前へと進む。
「私は今、姫と二人でいたいのよ」
はっきりと、ただそれだけを口にした朔ちゃんは、ほんの少しだけ握る手の力を強くした。
唐突なそれに、思わず私の手を引く朔ちゃんの小さな掌を見る。白いそれは綺麗で、荒れてる様子は全くない。それでしっかりと握る朔ちゃんに再び私が顔を上げれば、朔ちゃんはほんの少しだけ俯いているみたいだった。
「……それももう、少しの間だけだから……」
「少し……?」
復唱する私の頭には、幾つもの疑問が浮かんでは消える。
例えば、どうして二人でいられるのが、少しの間だけなのか。朔ちゃんの口調はまるで、この先二人になることは難しくなるかのように聞こえた。
それと同時に、どこか、寂しげな声にも思えて。
……けれどもそれに思い当たるような理由もない私には、ただ朔ちゃんの説明を待って、見つめていることしかできない。
それが伝わったんだろう。朔ちゃんはほんの少しだけ顔を私に向けた後、小さく口角を上げながら、そっと静かに目を伏せた。
「これから話すのだけれど……いずれ、姫にも分かるわ……」
それきり言葉を続けることなく、朔ちゃんは人のいない場所まで無言で歩を進めていく。
正直なところ、何一つ私には理解できなかったけれど、朔ちゃんが分かると言ってくれたんだ。きっと朔ちゃんの発言にも納得できるときがくるんだろう。そう思って、私もそれ以上質問することはしなかった。
再び、ちらりと周りに視線を向ける。通りすがりの私達を見つめる人に、見覚えのある生徒はほとんどいない。それはこの高校が結構なマンモス校だからとか、中には小学校から内部進学している子もいるからだとか、そもそも私が高校から入った新参者だからっていう理由もあるんだろうけれど。そんな大勢の中にあって、朔ちゃんも、そしてマッチも、決して埋もれることはない。
……やっぱり二人は凄いな、と。
そう私が思うのは、自然なことだと思う。
改めて、目の前を歩く、小さな朔ちゃんの背中を見る。小柄で、良い意味で外国のお人形さんみたいで、すごく人気があって、けれども決して靡くこともせず、凛として静かにいる女の子。マッチのように可愛がられるのとは少し違う、憧憬の対象にあるような子で。
『水梨さんと仲良いのって一人だけだろ』
蘇るさっきの男の子の何気ない言葉に、自然と私は笑みが零れた。
私は地味で平凡だし、特別なことなんて何一つない。
時にはそういう人達が羨ましくもなるけれど、だからといって決して不幸なわけではないと本心から胸を張って言えるのは、きっと朔ちゃんが私の親友だから。
そういう意味では私も特別なんだろう――朔ちゃんは、私を親友に選んでくれたんだから。
それが何だか誇らしくて、嬉しくて、思わず笑みを零した私に気付いたんだろう。朔ちゃんも一度私を振り返って、小さく微笑んでくれた。
特別なものなんてなくて良いし、特別なことが起きなくても良い。
地味でも、平凡でも、平和で、何事もなくて……こうして幸せが感じられる日々さえあれば。
だから、いつまでもこのままで、と。
そんなことを願いながら、私は朝の喧騒を後にした。