始まりの朝(2)
「ウチの息子も今日からこの学校なのよ!」
「あ……やっぱりそうなんですね!」
「そう! ホントは由季ちゃんにビックリしてもらいたかったんだけどね」
悪戯にウインクするカロルさんは、やっぱり素敵な女性だと思う。カロルさんの言葉に釣られる形で私も笑みを浮かべていれば、ふとカロルさんは思い出したように自分の後ろに顔を向ける。
「ほら、早くいらっしゃい」
親しげな口調から察するに、呼ばれたのはきっとその息子さんだろう。そう思って、私はカロルさんの肩越しに廊下の奥側を見て――……
「――……あ……」
――……一瞬で、目を奪われた。
時が止まったような気がした。
一瞬のようで、でも永遠にも感じる長さのようで。
不思議な感覚に陥りながら、そこに佇む男の子をただひたすらに眺めていた。
最初に映ったのは、綺麗な銀髪。カロルさんと同じプラチナブロンドは、やっぱり一際目立って映る。
肩より少し下の位置で切られている、少し不揃いで柔らかそうな銀色の髪。同年代の男の子と比べるまでもなく高いと分かる身長に、細身だけどしっかりとした体つき。隙のない凛とした佇まいは普通の人とは何だか酷く違っていて、ただ立っている姿にすら、強く惹き付ける何かがある。
……そんな雰囲気の、完璧な美少年が、こちらを向いて立っていた。
とは言っても、少年って表現は少し間違っているような気がする。年齢的にはおかしくないはずなのにそう思うのは、日本人離れした顔立ちもそうだけど……雰囲気も、何もかもが彼は落ち着いて見えるからなんだろう。クラスメイトの男子はもちろん、もしかしたら大学生の男の人にも、こんなに落ち着きはないんじゃないか……そう思えるくらい、彼はとても大人びていた。
灰色がかった薄青色の真っ直ぐな瞳。それを縁取る睫毛は長く、銀色の髪が溶け込んでしまいそうな程、肌は透き通るような綺麗な白さをしてる。そんな容姿をしているからなんだろう。何てことない指定のブレザーをきっちりと着込んでいるだけなのに、一切手を加えられていなくてもお洒落に映るし、無表情に近い顔も相まって冷たそうな雰囲気を感じるのに、それすらも彼の魅力の一つに過ぎないものになってしまっている気がした。
――こんな人、いるんだ……
何処か夢見心地な気分にすらなりながら、ぼんやりと彼のことを見つめる。――他人とは、普通の人とは……私とは、確実に異なる、彼のことを。
別の世界から来たような、特別な空気を纏う人。例えばテレビに出てる芸能人だって、ここまで『違う』人は見たことがない。一つ一つの色や形がどれも綺麗で、加えて全てが見事に調和して突出した魅力になっているんだろう。多分、奇跡と言っても決してオーバーな表現じゃない。そんな彼に対して、私は気後れすら感じながらも、ただただ視線を向けていた。
「……由季ちゃん」
カロルさんの囁くような小さい声に、私はようやく我に返った。慌ててカロルさんを見上げれば、カロルさんは何時の間にか私の隣へと立つと、耳元へ顔を近付けながら再びウインクをして。
「中々良い男になったでしょう? 私の息子!」
「は……はい……」
中々なんてレベルじゃないような気がするんですけれども……!
なんて、息子さんに届かない程度の声音でこっそりと告げられた内容に内心かなり戸惑っている間にも、彼がゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。上履きだからか、それとも元々そういう歩き方なのか、足音は全く聞こえてこない。それにも関わらず縮まる距離が酷く意識させられた。そうして目の前で立ち止まった彼に、思わず視線が彷徨ってしまう。どうしてなのか、どうしても直視出来なかった。
「……由季?」
「は、い……」
呼びかけられて、どうにか目を向けようともしたけれど……無理だ。月並みな表現だけど、格好良過ぎてやっぱり正面からはまともに視線すら向けられない。
返答すらぎこちないのが丸分かりだとは思う。けれど、どうか全部仕方がないことなんだと思って許して欲しい。一応私には弟がいて、男の子に対する苦手意識はほとんどないつもりだけど、こんな綺麗過ぎる相手ともなれば別問題だ。あんまりにも自分と違い過ぎて、緊張や動揺が並大抵のレベルじゃない。無言のままでいることなく反応を返せただけ上出来だ。
……というか、どうしていきなり名前呼びなんだろう。ふと浮かんだ疑問は最大の問題から目を逸らしていると言われてしまえばそれまでだけど、私としてはそっちの方も結構切実な問題だった。私のことを名前で呼ぶのは弟二人くらいのものだ。それがいきなりこんな美少年に呼ばれるなんて、慣れてないのを通り越して心臓に悪過ぎる。
多分、カロルさんが名前で呼んでたからとか、カロルさんの知り合いだからっていう単純な理由なんだろう。分かってるけど、それでもやっぱり緊張するのは避けられないというか、気恥ずかしいものがあるというか……なんて、届くことのない言い訳を、俯きながら一人悶々と考えていた。
……けれど。
「……久し振りだな」
――そう、彼は確かに言ったから。
「え……?」
当然のように紡がれた台詞は予想外過ぎて弾かれるように顔を上げれば、目に映るのはすぐ前に立つ彼の顔。ただしそこにはさっきまでの無表情はなくなっていて。
――その代わりに、どこまでも柔らかな微笑があった。
飛び込んできたそれを脳が認識した瞬間、顔に熱が集まると同時に息を飲む。
綺麗だ。それ以外に言い表せない程に、漠然と強くそう思う。完璧過ぎる程に整った顔立ちであることもそうだけど、ただそれだけが理由じゃない。優しさに満ちた眼差しと、柔らかな表情が、より魅力を増して見せているんだろう。ましてやさっきまでの彼はほとんど無表情だったから、対照的なその笑顔が尚の事魅力的だった。
大きく跳ねた心臓は、動揺と……言葉にするのは恥ずかしいけど、彼にときめいた確かな証拠。今までそんな経験が一度だってなかった私は、余計に羞恥心を覚えて視線を逸らしたくなった。けれどもその真っ直ぐな瞳が私に向けられていると思うと、強制されてるわけでもないのに、何故か視線を逸らしてはいけない気分にさせられる。
反応することも忘れて沈黙した私に、彼は気分を害した様子も見せずにほんの少しだけ首を傾げた。
「……覚えていないか?」
「あ……えっと、その……」
覚えてる、と言ったら間違いなく嘘だ。彼程の男の子に会った記憶は全くない。けれども私達が過去に会っていることは確かなんだろう。彼は"久し振り"だと口にしたんだから。当たり前のように告げられたからこそ、私の方は全く記憶にないことをそのまま伝えるのも気が引ける。だけど口籠っている私に答えを察したんだろう、私の反応に驚きも落胆もすることなく、彼は納得したように幾度か小さく首肯する。
「まぁ、色々あったからな……由季も」
理解を示すように告げられた言葉に、理解したことは一つ。
――彼もまた、私の事情を知っているんだ。
カロルさんに聞いたのか、それとも元々知っているのか。どちらにせよ彼が私に対して負の感情を示すことは一切なかった。ある程度の予想はしていた……っていうことなのかもしれない。
忘れていることに謝罪をすべきかと考えたけど、何となくそれも違うような気がした。私の返答にも納得して自分の中で完結させてしまっているらしい彼の姿を見る限り、そもそも謝罪をするにはタイミングを逃してしまったように思う。結局上手く続きを言えないでいる私の後ろで、ふとカロルさんが「あら」と声を上げた。
「そろそろ校長先生にご挨拶に行く時間ね」
「あ……そうなんですか」
「まだ少し余裕はあるかしら……でも早めに行った方が良いわね。由季ちゃん、校長室の場所、分かる?」
「えっと……あ、地図あります!」
胸ポケットに常に入れてある生徒手帳を取り出して、校内図のページを開く。この学校は附属の中等部と高等部が隣接しているせいで、少しだけ造りが複雑だ。その上校長室なんて無縁そのものだから少し時間はかかったけれど、高等部の校舎にある一室を見つけ、私はそっと指差した。
「ここですね」
「あら……ちょっと複雑ね」
カロルさんの感想も当然だ。生徒数が多いだけあって校舎も広い。私だって入学してから数カ月間の間は、授業で使う教室すらはっきりと場所を覚えてなかった。ましてや初めて来た人には、相当分かり難い造りだと思う。
「それじゃあ、良かったらどうぞ」
通常授業しかない今日、生徒手帳を使う機会なんてきっとない。そう判断して私が手帳を差し出せば、カロルさんは軽く目を見開いた。
「良いの? お借りしてて大丈夫?」
「大丈夫ですよ。それに、さっき先生に聞いたら……」
首肯してから、ちらりと彼のことを見る。そうすれば、彼はずっと私のことを見ていたみたいで。
――だめだ。
ばっちりと合ってしまった視線に動揺して、慌てて私は手帳を見た。ちょっと……いや結構わざとらしかったかもしれないけど、彼は許してくれるだろうか。美人過ぎる男の子への耐性なんてない私には、とてもじゃないけど平然としていられない。心の中でひっそりと謝罪しながら、私は必死に言葉を探す。
「……私と、同じクラスみたいなので……」
「あら、そうなの! 良かったわね、月!」
カロルさんの嬉しげな言葉に、彼……ユエくんをもう一度見る。今度は決して目を逸らさないようにしよう。そう、自分なりに決意を固めつつ。
彼の顔は最初と同じ無表情に戻っていたけど、私とまた目が合った瞬間、ほんの少しだけ首を傾げた。そうすれば、さらりと彼の銀髪が流れるように顔にかかる。
……そうして彼は、小さく、綺麗に微笑した。
「――それは良かった」
静かなそれには僅かに柔らかさが含まれていて、何処か嬉しそうに響いた声に、どくりと再び心臓が跳ねる。
深い意味なんてない。そう分かってはいても、向けられる笑顔は魅力的で、ほんの少しでも気を緩めれば期待をしてしまいそうになる。違うんだと分かっているのに、普段であれば、そんなこと微塵もそう思わないのに。天秤が傾いてしまうのは、それだけ彼が特別に惹き付ける人だからなんだろう。
「あと、」
静かに切り出した彼は、動揺したままの私の手からそっと生徒手帳を受け取った。緊張からか感覚がない私の指から離れていくそれを目で追えば、再び彼と視線が交じる。
「これは後で、必ず返す」
「あ……はい、どうぞ」
今度は顔を背けることなく、ぎこちないながらもしっかりと頷いた。無意識のうちに敬語っぽくなってしまったのはご愛嬌だと主張したい。そんな私に、彼はまた柔らかく笑う。
「Merci.」
流暢なフランス語だ。それは当たり前のことかもしれないけれど、似合うなぁと思わず感嘆の息が零れた。
これが例えば他の男の子だったとしたら、カッコつけてるとか気取っているとか、嫌味な印象を受けるのかもしれない。けれども彼に関しては本場の人だからなのか、それが自然に馴染んで聞こえる……それどころか、彼以上に似合う人はいないんじゃないかとすら思えてしまう程、フランス語を紡ぐ姿が酷く様になっていた。
「それじゃあ由季ちゃん、また今度家にも遊びに来てね!」
「あ……はい、是非!」
「うふふ、楽しみにしてるわね! 行くわよ、月」
「ああ……」
カロルさんに呼ばれて、ユエくんが静かに返事をする。そうしてそのまま行くのかと思っていたら、ユエくんはもう一度私を振り返った。
まだ何か用事があるんだろうか。内心首を傾げつつもぼんやりと見上げていれば、何故かさっきよりも更に距離を寄せられる。ともすれば触れかねない距離に頭が真っ白になっていれば、左肩に軽く手を置かれ、気付いたときには、視界一杯にユエくんの顔が映っていて。
左の頬に、軽く、柔らかな何かが触れる。
「A plus tard.」
耳元で囁くテノールが酷くこそばゆい。ほんの一瞬の間のことに理解が及ばなかった私は、ぼんやりとした意識の中で感じられた温もりの意味を数秒考え、ようやく理解した瞬間、とっさに頬に手を当てた。
「あ……い……い、今……っ!」
動揺しながら慌ててユエくんを見上げる私に、彼は何も返さなかった。
――ただ、ちょっぴり意地悪な笑顔を浮かべただけで。
そうして何事もなかったかのように涼しい顔で、カロルさんの後をついていく。
その後姿を呆然と見送りながら、私は頬を強く押さえた。数秒にも満たないような瞬間的な行為だったにも関わらず、そこには未だにあの柔らかな感触がはっきりと焼付いたように残ってる。
心臓の音が、煩い。多分、私の顔は真っ赤だと思う。
未だ鮮明な感覚。微かな、けれども確かに触れた温度。それは決して、私が経験したことのないもので。
頬にだけど――本当に軽くではあるけれど……
……キス、された……!?
「……う、わあぁ……!」
理解しきった瞬間、顔全体に火が点いたような熱が集まった。自分でも分かるぐらいなんだ。きっと今の私の顔は未だかつてないくらい真っ赤に染まってるんだろう。例え頬でも、誰かに、ましてや男の子にキスをされた経験なんて、私にはただの一度もない。
はっとして周囲を見回してみても、人の姿はどこにもない。幸い誰にも見られてはいなかったってことだろう。それでもやっぱり事実は事実で、恥かしいことに変わりはなくて。こんな顔をしている以上は誰にも会うことがないようにと、私は慌ててその場を逃げるようにして走り去る。
頬に当たる空気は、十一月ということもあって冷たい。
……けれども左の頬だけは、いつまでも熱いままだった。
※Merci.:ありがとう
A plus tard.:また後で