始まりの朝(1)
大丈夫。今は何も上手にできなくたって、努力をすれば出来るはず。
大丈夫。味方が誰もいなくたって、一人でも頑張れば何とかなる。
そう、大丈夫。だって私は、何時でも笑っていられるところだけが、唯一の取り柄なんだから――……
* * * * *
「由季ちゃんっ! 朝だよーっ!!」
「んー……」
下の弟である空也の幼い声が響くと同時、カーテンの開く音がして、部屋に朝日が射し込んできた。せっかく可愛い弟が起こしに来てくれたんだ。起きなきゃ……とは思っているんだけれど、朝にはとことん弱い上に睡眠不足気味なことも重なってか、中々どうして目蓋は少しも開かない。こんなんじゃあだめだと寝ぼけ半分の頭でも判断を下して目を擦ろうとした瞬間、かつり。爪の先が硬い物にぶつかった。微かに響いた高い音と滑らかそうなその感触に、一瞬遅れて理解が及ぶ。昨日一昨日に引き続き、また眼鏡をかけたまま寝てしまったんだということに。
丁度こっちを見てたらしい空也もそれに気付いたんだろう、幼い顔に眉根を寄せて、私をじっと目を向ける。
「もーっ! 由季ちゃん、また勉強したまま寝てたでしょー?」
「あはは……うん、ごめんごめん」
笑いながら謝罪をしつつ、改めて自分の部屋を見回した。一応はベッドに来たみたいだけれど、生憎と移動した記憶はない。決して広くはない私の部屋にはベッドを置けば机を置くのは不可能で、その代わりにと使ってる大きめのミカン箱には、数学のノートと参考書が開かれたまま載っていた。ペンも散らばってる辺り、寝入った後で体勢の辛さにベッドに移動したってことなんだろう。それも眼鏡を外すなんて判断すらも出来ない程に寝ぼけている状態で。明らかな証拠が残り過ぎてる。小学生の空也にも十分理解出来る程。
それでも、一応は謝罪をした私のことを空也は許してくれたみたいだ。「もー……」と呆れたような、それでいて仕方ないとでも言いたげな声を上げていたのも数秒のこと。次の瞬間には正反対の明るい笑顔を浮かべながら、私に向けてずいっと顔を寄せてくる。
「今日は朝ごはん一緒に食べれる?」
質問の形は辛うじて保ってはいるけれど、明るさの籠った口調には、確実に肯定を求めてる。期待で満ちた弟からの眼差しに、私は苦笑をしながらも首を左右へと振った。
「ごめんね。先生にこれ聞きたいから、今日も早く行かなきゃ」
「えーっ!? またー!?」
「うん……ごめんね」
謝罪をしながらも私が意見を変えることはないと分かったのか、空也はがっくりと肩を落とした。可哀想なくらいに落ち込んでいる様を目にすれば、流石に姉としても心が痛む。けれどもここで意見が変えられるはずもなく、それきり何も続けない私に、幼い瞳はちらりと私を見上げてきた。
「もうずーっと由季ちゃんとごはん食べてないよ……」
「それはそうだけど……毎朝ちゃんと叔母さん達とか……聡だっているでしょ?」
お祖父さんは朝早くから散歩に出かけてるだろうけど、この家には叔母さん夫婦と、その子供である私よりも年上の兄妹がいる。それに、上の弟である聡も。皆この家で一番幼い空也を可愛がってくれてるから、寂しいことはないはずなのに。
それでもやっぱり空也の中では、姉である私がいるのといないのとでは違うってことなんだろう。私が指摘したところで、空也が納得することはない。
「でも……」
「あ……ほら、叔母さんが呼んでるよ」
空也はどうしても諦めきれていないのか、更に何かを言おうとしたみたいだけれど、丁度その空也を一階から呼ぶ叔母さんの声がこの部屋に届く。時間からして、きっと朝食の準備ができたんだろう。そうなってしまえば空也だって何時までも私を説得し続けるわけにはいかない。渋々といった体で私の部屋を後にしながら、去り際にもう一度だけ空也は私を振り返る。
「明日はぜったい、ぜーったい、一緒に食べてね!」
「あはは……うん、出来たらね」
「ぜったいだよ!」
一方的に約束をして、階段を下りていく空也。軽い足音が小さくなっていくのを耳にしながら、私は溜め息を吐いた。
「……"絶対"、か……」
恒例のように毎朝告げられる単語を呟いて、私は緩慢に立ち上がる。ワイシャツへと着替えながらも考えるのは、空也への対応のことだった。
明日は一体どうやって空也の誘いを断ろうか。なるべく嘘は吐きたくないし、やっぱり勉強が妥当かな。……そう結論付ける私には、一緒に食事を取るなんて選択肢は最初から用意されてない。誰に言われたわけでもないけど、そうするのが一番なのは明白だ。問題は、そろそろ同じ理由で誤魔化し続けるのも限界にきていることだろう。数日の間だけならまだしも、そう言い始めてから既に三年以上が経過しているんだから。
「……どうしようかな……」
いっそのこと、事情を全部空也に話してしまえば良いんじゃないか――そんな考えが一瞬頭を擡げたけれど、すぐに自分で却下した。
まだその時期じゃない。まだ、早い。
理由について悩むことはなくなるけれど、他の問題が生じかねない。甘い案を振り切ってからその後散々悩んだけれど、良い方法は結局浮かんでこなかった。
* * * * *
玄関のドアに手をかけて、誰もいない廊下を振り返る。
「行ってきます」
例え誰もいなくても、どんな時でも、挨拶をすることだけは絶対に欠かさない。……とはいえ、別に誰に向けて言っているってわけでもないから、申し訳程度に発した小声の挨拶に対して、返答なんてないけれど。要は気分の問題だ。
家を後にするのは、散歩に出ているお祖父さんを除けば大抵私が最初になる。他の人はまだ全員リビングで準備をしているんだろう。空也の幼い声を中心に、楽しげな会話が微かに漏れ聞こえてくる。それを背中に受けながら、私は外に踏み出すし大きく伸びをした。
天気は快晴。空気も、多少は冷たいけれど今日は比較的穏やかだ。薄い色の空を見上げて、私は少しだけ目を細めた。
「……大丈夫、」
まだ、私は頑張れる。そう、自分に言い聞かせるように、心で何度も繰り返す。
だって私は、何時でも笑っていられるところだけが、唯一の取り得なんだから――……
* * * * *
朝のまだ早い時間。教室に自分の荷物を置いてから、校庭の方から響く運動部の掛け声を聞きつつ、私は職員室へと向かう。部活動をしている以外に、この時間の学校に用事のある人はいないからなんだろう。長い廊下を歩いていても人の姿はほとんどない。時々先生を見かけるくらいだ。普段よりも幾分大きく自分の足音が響いているのを感じながら、冬に近付きつつある朝の空気に口許が緩む。程好い静寂と、冷たさが何となく心地良い。
目的地へと辿り着いて、身だしなみの確認用にと入り口脇に備え付けられた鏡を眺め、自分の格好を確かめた。
リボンはきっちり上げてるし、ボタンもちゃんと第一まで留めてある。スカート丈は膝が隠れる程度だし、とりあえず注意されるようなところはない。言われることがあるとすれば、地味過ぎるってことくらいだ。
この学校の校則は凄く緩い方だと思う。携帯電話の持ち込みに、男女を問わず長髪を含む髪型や、式典以外でのネクタイやリボンの着用は全部自由。アクセサリーは一つまでなら、スカート丈も短か過ぎなければ大丈夫だし、ボタンも第一までなら外してオーケー。ワイシャツも基本的に派手じゃなければほぼ自由で、通学の鞄だって自由。さすがに染髪や派手な化粧はダメだけど、ほとんどのことは自由に出来る学校だ。
そんな中でここまできっちりする必要はないだろうけれど、この方が落ち着くんだから仕方ない。……逆に微妙に浮いているかもしれないってことには、この際気付かないフリをしよう。
「……よし」
問題ない。と、ワイシャツの襟をもう一度だけ直した私は、ふとある箇所で目を留めた。
首の左側の付け根にある、アザのような赤い痕。見慣れたそれは決して痛むことはないけれど、何となく気になった私は、隠すように右手で軽く押さえ付けてみた。
覚えていない程昔からあるこの痣は、どうしてできたのかも分からない。ただ、誰かに指摘されたことはないし、さすがに最近では色も薄くなってきているから、特にどうするつもりもない。気付いてから数年経過してるわけだけど、痛みもないし、心配する必要もないだろう。
とにかく今は、この数学の問題を片付けるべきだ。
「失礼します……」
この時間はまだ職員室にいる先生方の姿も疎らで、静まり返っているこの空気に緊張感を煽られる。あんまり目立たないように、けれども失礼にもならないように開いた扉から控えめに挨拶しながら職員室内を覗き込めば、すぐ近くの席に座っていた担任の先生が私の方を振り返った。
「あぁ、白井さんか」
人好きのする穏やかな笑顔は、きっと元々の人柄と、数多くいる先生方の中でもベテランと言って間違いないだろう年齢に達していることも関係しているのかもしれない。年長者特有の、余裕と慈愛に満ちた柔らかな雰囲気を常に纏っている先生に、自然と肩の力を緩めながら、私もまた小さく笑う。
「おはようございます、先生」
「おはよう、毎朝偉いね」
担任の先生からの言葉に何となく気恥ずかしくなりながら、それでも嬉しさに頬を緩めて笑みを返してから、数学の先生を見つけようと職員室内を見回した。私の目的が手にしているノートで分かったんだろう。先生は普段よりも一層柔和に微笑する。
「今日は数学かな?」
「はい……ちょっと、予習で分からない部分がありまして……」
「そうかそうか。何でも聞くと良い」
先生は笑って数度頷くと、ふと思い出したように顔を上げた。
「そういえば、今日ウチのクラスに転入生が来るんだよ」
「転入生……ですか」
この時期に、転入生。変わったケースに対して瞬間的に浮かんだのは、数日前に交わしたカロルさんとの会話だ。どの学校かは明言されなかったけれど、私と年齢は同じらしいし、仲良くしてあげてとも言われた。もちろん、単純にカロルさんの息子さんだから関わることもあるだろうっていう前提での挨拶に過ぎなかったのかもしれないけれど…………けれども、もしかしたら――なんて期待に満ちた考えがちらっと浮かんできた瞬間、まるでそれに同意してくれたかのように、先生は再び首肯する。
「そう。フランスから帰国したばかりだそうだから、白井さんもよろしく頼むよ」
……当たり、なのかもしれない。ほぼ確定と言っても良いかもしれない情報を得て、思わず私の顔も綻んだ。
「はい、分かりました」
「うん、よし。……あぁ、林さんにも頼んでおいてくれないかな? 彼女はクラスの中心だからね」
林さん――林万智。担任の先生にクラスの中心と迷いなく評価される彼女の姿が頭に浮かぶ。苦も無く思い描けるのはクラスメイトであることや、その中心的存在であることももちろん理由にはあるけれど、それよりも多分、小学校時代からの友達だっていうことが大きいんだろう。確かにマッチにこれからのことを頼んでおけば、転入生もかなりクラスに馴染みやすくなると思う。マッチは凄く人懐こいし、人気者のマッチの周りにはいつでもたくさんの人が集まってるから。最早アイドルと言っても過言じゃない、特別な女の子のことを思い浮かべて、私は少しだけ笑った。
「分かりました、伝えておきます」
「そうか、頼むよ」
「はい」
そうして先生との会話を終え、ようやく後姿を見付けた数学の先生の元へと向かう。その間も私の頭を巡るのは、やっぱり転入生のことばかり。
一体どんな子なんだろう。この時期の転入生、それもフランスからなんてかなり珍しいだろうから、きっとカロルさんの息子さんで間違いないとは思うけど。カロルさんには似てるのかな、それとも旦那さんに似てるのかな。どちらに似ていても良い人だっていうことは間違いないと思うけど――考える程に膨らむ期待に、私は一人口角を上げた。
……仲良くなれると良いな、なんて。そんなことを、考えながら。
* * * * *
「失礼しました」
一通りの質問を終えた私は、職員室内に一礼をして、静かにその場を後にする。いくらか時間が経過したせいなんだろう。まだ運動部の子達は朝練を終えてはいないみたいだけれど、それ以外の早い子が登校してくる姿がちらほら廊下に見える。ただマッチが登校して来るのはもう少し後のことだろう。それまでは今教わったばかりの解法を復習して……と頭でこれからの予定を思い描いた。
瞬間。
「由季ちゃん!」
聞き慣れた柔らかい声が背後から響いて、思わず私は長い廊下を振り返る。校舎内では一度も見かけたことのないプラチナブロンドが視界に飛び込んできて、一瞬思考が停止した後、私の脳はその人物の名前をようやく弾き出す。
「カロルさん!」
「うふふ、会えて嬉しいわ!」
朗らかに笑うカロルさんは、普段とは違う純白のスーツを身に纏ってる。整ったプロポーションを湛えたまま軽やかな足取りで私へと歩み寄る姿は、到底私と同じ年齢の子供がいるなんて信じられないくらいに若々しくて、明るい笑顔も含めた全部が凄く綺麗だ。同性であるにも関わらず思わず見惚れてしまった私の両肩に、カロルさんは優しく手を載せた。