プロローグ
白井由季。
だから昔に言われたんだ……「まるで白雪姫みたいだね」って。
けれども実際の私ときたら、お姫様には程遠い。
皆が好きなのは可愛いあの子。
平凡な私は嫉妬もされることはなく、ただ遠巻きに特別なあの子を見てるだけ。
勉強も、運動も、性格も……外見にだって、特別なものは何もない。どんなに頑張って努力をしても、一つもあの子に敵わない。
御伽噺の王子様が現れたって、あの子のことをきっと好きになるんだろう。
……そんなこと、小さな頃から分かってた。
それでも、心の奥では、今でもずっと願ってる。――私のことを選んでくれる誰かが現れることを。
あの子じゃなくて、他の誰かでもなくて……私のことを選んでくれる、たった一人の王子様。
そんな誰かが、もしも現れてくれたなら、私は信じられるかな。
ずっと一緒にいられることを。
ずっと幸せに過ごせることを。
まるでお伽話の終わりのように、未来を信じられるかな……
鏡よ鏡。
世界で一番美しいのが誰であっても構わない。
だから教えて。
それが天使でも、悪魔でも、人間でも、幽霊でも、魔法使いでも、怖い竜でも――吸血鬼だって、構わない。
だから、教えて。
この世界で、私のことを永遠に愛してくれるのはだあれ?
* * * * *
「由季ちゃん!」
住宅街の路地を走っている途中、不意に名前を呼ばれた私は足を止めて振り返る。柔らかくて高めの声に、ちょっとだけ変わったイントネーション。それで私に話しかけてくれるのは、カロルさん唯一人だけだ。予想通りの姿が視界に入って、思わず私も頬が緩む。
「カロルさん、こんばんは」
軽く頭を下げてから、改めてカロルさんを見る。玄関先に備え付けられた門の向こうから私へと歩み寄るカロルさんに、私も小走りに寄っていく。もう陽も落ちて暗い中ではあったけど、門に手をかけたカロルさんがにこりと微笑んだのが見えた。
「こんばんは、由季ちゃん。今帰り?」
星の細やかな光を受けて煌めくプラチナブロンドが、カロルさんの肩でふんわりと揺れる。柔らかに波打つ長い髪はこんな夜の薄暗がりでも綺麗なことが一目で分かって、ごくごく普通の黒髪の私とは、色も含めた全てが対照的だと思う。もちろん髪だけじゃない。真っ白な肌に、今は分かり難いけれど、瞳も珍しい灰色がかった薄青色。年齢を感じさせない綺麗な容姿も含めて、まるで映画の中から出て来たような大人の女性。そんなカロルさんに相変わらず羨望の念を抱きつつ、私は控えめに頷いた。
「はい。少し図書室に残っていたので……」
「毎日遅くまで偉いわね! でも……」
門越しに手を伸ばしたカロルさんは、私の頬へと掌を当てる。少しだけひんやりとしているのは、庭のお手入れか何かをしていたせいなのか。それでも頬から伝わる柔らかさには優しさが滲んで心地良い。同時、ふわり。漂ってくる仄かな香りは、庭に植えてある薔薇の匂いに違いなかった。花自体から香っているのか、或いはカロルさんに移ったものなのかもしれない。大きな真っ白い家……というよりも、西洋風の一軒家はお屋敷と言った方が正しい……そこの庭には、カロルさんが丁寧に手入れをしているんだろう、多くの薔薇が綺麗に咲き誇っているんだから。一番好きなその香りに、思わずほんの少しだけ目を細めた。
けれども、どうしてなんだろう。私を見下ろすカロルさんの眼差しに、ほんの少しだけ案じるような色が浮かぶ。
「……顔色があんまり良くないわ。……もしかして、ダイエットでもしているの?」
「あ……、」
カロルさんからの予想していなかった指摘に、私は咄嗟に言葉を返せなかった。
どう答えるべきなのか。瞬きをすること数回、幸いにしてそう間を置かずに判断を下すことが出来た私は、小さく口角を上げて笑った。
「はい。……最近、ちょっと太り気味だったので」
小さく首肯し、それらしいことを口にする。
もちろん、嘘だ。
けれどもどうやら、カロルさんにそのことは見抜かれなかったらしい。理由自体が元々カロルさんが予想していたものだったし、私ももう高校生で、年相応なきっかけだからなんだろう。カロルさんは困ったように浮かべた笑顔はそのままに、じっと私に視線を当てる。
「そう……でも、由季ちゃんはダイエットすることないわ。今のままで十分に可愛いもの」
「あはは……ありがとうございます」
それが世間一般の基準からの意見じゃなくて、昔から良く知っている子供に対して生まれるような、愛情に満ちた視点からの好意的な意見だってことはちゃんと分かってる。私の外見は別に可愛いわけじゃない。謙遜でも何でもなくて、本当にごくごく平凡だから。けれども、昔からの知り合いであるカロルさんがそう言ってくれたことは素直に嬉しかったから、否定は入れずにお礼だけを返すに止めた。
……と、そこで偶然カロルさんの肩越しに見えた玄関先に、幾つかのダンボールが積み重ねられていることに気付く。暗がりで判然とはしないけど、古い物っていう印象は受けない。そこそこの大きさを持ってるそれらは、まるで引越しの準備に使われているもののようだ。
「あの……カロルさん、それは……?」
「あぁ、これ?」
いくらかの不安を抱えながらの私の問いに、カロルさんは上機嫌に微笑んだ。
「今日、私の息子がフランスから帰ってきたの!」
「……息子さん、ですか……?」
心底嬉しそうに微笑んでいるカロルさんの言葉を復唱しつつ、私は少しだけ首を傾げた。
カロルさんはフランス人だけど、旦那さんは日本人だ。私は優しい二人のことを昔から良く知っている。……けれど、息子さんっていう人のことは一度も見たことがない。というよりも、息子さんがいたこと自体、今まで全く知らなかった。てっきり子供がいないご夫婦なのかと思ってた程だ。記憶にある数年分を遡っても見かけた記憶が一切ないから、多分、フランスにいる旦那さんと一緒だったんだろう。それもきっと、数年前からは、ずっと。そう考えれば、私が知らなかったことにも説明がつく。
とりあえず……と、お子さんの方に関しては思考を一旦中断して、私はカロルさんの回答にほっと胸を撫で下ろした。てっきりカロルさんが引っ越しちゃうのかと思ったけど、どうやらその心配は無用みたいだ。カロルさんは昔から知ってる数少ない人だし、私の事情を全部理解してくれていて、安心できる人でもあるから、いなくなったら本当に寂しい。思わず頬を緩めた私に、きっと理由は違うだろうけど、カロルさんもまた柔らかく微笑み返してくれた。
「そうなの。由季ちゃんと同じ年だから、仲良くしてあげて頂戴ね?」
「あ……はい、こちらこそ!」
私と同じ。つまり、息子さんは十五歳か十六歳……日本では高校一年生ってことになる。
今は十一月だから転入するには時期的に少し遅いような気もするけれど、高校には何時から通うことになるのかな。一番近いのは私の通ってる高校だから一緒だったら嬉しいけど……私立だからか、それとも大学の付属高校だからなのか、転入生って一度も聞いたことないし……
「……っと。ごめんなさい、そろそろ……」
最初から暗かったこともあるし、話をするのも楽しくてついつい忘れてたけど、そういえば結構ギリギリな時間帯だった。控えめに切り出した私に対して、全てを口にしなくても言いたいことを察してくれたんだろう。カロルさんは「あら、」と目を見開いた後、申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「ごめんなさいね! つい話し込んじゃって……」
「いえいえ、大丈夫です! それじゃあ、また」
「ええ。またね、由季ちゃん!」
軽く手を振り合ってから、私は急いで走り出す。今私が暮らしているのは、私の家ってわけじゃない。遅くなってもそこまで気にされないだろうけど、住ませて貰っている以上、定められた門限を破るわけにはいかないだろう。
だからこそ全力でその場から走り去った私は、完全に気付かなかった。
カロルさんの他に、もう一人、私の背中を見ていた人がいたことに。
* * * * *
由季の後姿が見えなくなるまで無言で見送っていたカロルは、華奢な背中が角を曲がったことを確認すると、門に手をかけ、微笑ましいとばかりの笑みを浮かべだ。
「……女らしくなったでしょう、由季ちゃん」
独り言と称するには聊か大きなその声に、言葉を返す者はいない。――が、しかし。
喧騒とは無縁の静かな住宅街を沈黙が支配する中で、さくり。不意に彼女の庭の奥から、一度だけ土を踏みしめる音がした。ともすれば聞き逃しかねない程の些細なそれを、それでも彼女ははっきりと認識したのだろう。……その相手が音を立てたのは無意識などでは決してなく、敢えて自分の存在を気付かせる為なのだということも。瞬時にそれらを察したカロルは、口元に浮かべていた笑みを一層深いものにした。
「貴方も出てくればよかったのに。久し振りでしょう?」
「……別に良い」
明確に相手が答えることを想定した問いかけに、今度はきちんと反応があった。愛想が良いとは世辞にも言い難いような、淡々と響いた一つの声音。短く返してきたそれは、カロルのものより随分低いが、同時に若さも滲ませている。感情の読めないテノールを耳にしたカロルは、微笑ましいとばかりに「そう……」と返し微笑んだ。……が、それも間もなく案じるようなものへと変わる。
「でも心配ね……まだ十六にもなってないのに……貴方も感じたでしょう?」
「……ああ」
今となっては足音一つも立てぬまま、短く肯定の意を示したその人物がカロルの隣へと並ぶ。憂いを含んだ声音と同様、心配げな眼差しで由季が去った方向を眺めているカロルに倣うかのように、その相手……彼女よりも長身である少年は、やはり彼女と同様の灰色がかった薄青色の目で、少女の消えた方向を見た。
そんな少年を敢えて見つめることもせず、カロルは表情を引き締める。
「あの力が目覚めてしまったら……また、大変なことになるわ」
「……ああ」
彼は静かに同意しつつ、その眼差しを細くした。
「……そうだろうな」
様々な感情を内包しているかのように複雑に響いた返答に、カロルはそっと門から離れ、ようやく少年に向き直る。瞳と、髪と、肌の色。カロルと全く同じ色をしたそれらを携えていながらも、与える印象が全く異なる少年は、カロルの視線を受けて尚、未だに少女が去った方へと何も言わずにただただ視線を向けている。無に近い、しかし何らかの想いが確かに滲む表情を浮かべた少年に、カロルは再び酷く優しげに微笑した。
「ちゃんと守ってあげるのよ、月」
彼女の浮かべた表情も、言葉も、それを紡いだ声にすら、聞く以前から答えを確信しきっている。そんなカロルの発言に、彼は前髪を掻き上げた。
感情の読めない瞳は、決してカロルに向けられるようなことはない。食い入るように見据えているのは相変わらず一点のみだ。あたかもそれが自然なことだとでも言わんばかりに、カロルの方もそれを咎めることはなく。
「……ああ」
緩く吹き抜けた冷ややかな風が、肩よりも長い彼の髪を靡かせる。
「――言われなくても、」
紡ぐと同時、細められた双眸には、確かな意思が宿っており、一旦言葉を区切った彼は、そっと薄い色の目を閉じた。目蓋を縁取る長い睫毛が、荒れを知らない白い肌へと影を落とす。そうして流れた沈黙はどれ程続いたことだろう。カロルも、そして少年――月も。決して動くことをしない中、先に瞳を薄く開き、口を開いたのは彼の方。
「……由季」
静かに紡がれた少女の名前を呼ぶ声は、再び吹いた夜風に乗って消えていく。
彼女は……白井由季は、まだ知らない。
自らが持って生まれた運命も、望む相手がいることも――その相手の正体も。
彼女が何も知らぬまま、歯車は静かに廻り出す。
鏡よ鏡。
果たして、彼女がその運命を知るのは、何時?