反乱の狼煙
仕事帰りの夜のことだ。
宗田団三は自宅の玄関先で、この世の物とは思えない胸の激痛を覚えた。
予測もしていない唐突さ極める苦しみに、顔を歪め、膝に手をつき、どうにか倒れないようにするのが精一杯だ。
「何事だ……わしの体に何が起きている」
団三は言ったが、声に力が入らず、不気味にかすれた音になる、
胸の内部がどうかしてしまったに違いない。一体、何が原因だというのだ。心当たりなどなかった。
そりゃ、団三はタバコを喫めば、大酒をくらう。健康によくないという話を耳には挟んでいたが、男はそうやって生きていく物ではないのか?
そういえば、半年前に、特定健康診査という物を受けた。なにやらいろいろ検査をした後、医者どもが血相を変えて、直ちに特定機能病院の集中治療センターを受診しなさいと言ってきたが、医者ごときの言葉に従う団三でもない。その後も医療機関から、様々な極めて緊急性を要する書類が届いていたが、団三はすべて読まずに捨ててしまった。そのため、それが今の痛みと何かの関係があるのか、ちょっと分からなかった。
しかし、大事には違いないだろう。
そもそも、団三は、ちょっとやそっとの痛みではびくともしない性質の男である。今までありとあらゆる体の痛み、心の痛みを平然と乗り越えてきた。気骨あふれる団塊世代とは、団三のためにある言葉なのだ。
しかし、その団三が脂汗を流して苦悶の顔を隠せずにいる。それほどの苦しみだ。団三は万力に締めつけられたことがあったが、それに似た痛みと言えた。
どうしたものか。
まさに死を思わせる苦しみである。少しも減じる気配はなく、それどころか、その度合いを増しつつ団三を痛めつけている。
闇に包まれている自宅へ目をやる。家の中に助けはなかった。団三は結婚などしていない。
とすると、外に助けを求めるしかない。団三は震える手つきで携帯を探る。
「こんにちは、心臓です」
耳慣れない甲高い声が服の下から聞こえた。
携帯から流れている声に違いない。
「こんにちは。ハロー。はーい、こっちです」
「くそ、わしは一体どこにろくでもない携帯をしまったのだ……」
団三は荒っぽくスーツをまさぐり、携帯電話のプラスチックの感覚を探る。
「いえ、心臓です。心臓が話しかけているのです。はーい、こっち向いて」
「くそ、見つからん。早く出ないと、相手は切ってしまうかもしれないし、すると、こちらからかけ直す時に金を取られてしまう」
団三は業を煮やし、スーツを脱ぎ捨て、ネクタイをむしる。
しかし、電話は出てこない。
「いえ、だから携帯電話の声ではなくて、心臓が話しかけていて、そもそも携帯電話は通話ボタンを押さない限り、こういう風に通話はできない物で――」
「くそ、全然見つからん! 確かに身につけているはずなのだが、こういう場面でぱっと取り出せなければ、何のために持ち歩いているのか分からん。携帯はどこだ!」
「だから、心臓だっつってんだよ!」
激しい怒声に、団三はぴたりと動きを止めた。
怒声ごときにひるむ団三ではないが……今の声……。
胸の中から響いた。
携帯を探すためにズボンに突っ込んでいた両手をそろそろと引き抜く。
聞き間違えではない。怒声が肋骨を振動させたのをはっきり感じた。携帯、イヤホン、その他の何かではない、胸の内部の何者かが話しかけてきている。
何度か口を開けたり閉めたりした後、
「……昼飯に携帯電話を誤って食べてしまったかな?」
団三は呟いてみる。
「はん、この状況で、面白い冗談を言いますね」
胸の中から一笑された。
「わしは……頭がおかしくなったのか?」
「……どうなんでしょう。発狂している自覚はありますか?」
「ない」
問題は頭ではなく、胸なのだ。団三はどうにか事態を飲み込もうと、口を開く。
「心臓……だと……言ったな?」
「ザッツ・ライト。五十年以上の付き合いですが、こうやって会話するのは初めてですね、団三」
胸の中からの声が流暢に挨拶するという事態に、団三は顔をしかめざるを得ない。
「本当に心臓なのか? ……何か、わしの眠っている間に埋め込まれた、スピーカーや発信器と違うのか?」
「ははっ、そんな古臭いエスピオナージュ小説みたいな展開ないですよ。まさに心臓がこうやって、あなた、宗田団三に話しかけているんです」
なるほど、心臓が話している。
団三は、団塊世代のサラリーマンとして平坦ならぬ人生を歩んできた。彼の目の前で、多くの常識が打ち破られ、団三もそれに見飽きてきたと思っていた。
それでも、心臓が直に話しかけられる日が来るとは、まるで予想していなかった。
だが、一体、どうやって?
「心臓は確か、生命ではなく、臓器のはずだ。独立して思考して会話できるとは考えにくい」
「矮小なパラダイムですね。私たちの細胞に含まれるミトコンドリアも本来は別種の生命でした。でも、一時の利益のために、我々に隷属されながら共存する道を選んだのです」
「要点を言え」
「つまり、生命は柔軟なのです。あなたの体の統治が不合理ならば、私は分離して、独力で生きて学んで考えることを選択するのは当然でしょう?」
心臓が自信に満ちた声で言う。
果たして当然なのだろうか。団三は唸った。
いや、あり得ることなのかもしれない。いつか、どこかで読んだことがあった。
生命および知性が発生する根底的条件は極端なエネルギー・グラディエント下に置かれることだ。
血液の乱流渦巻く団三の心臓は、カオスとパターンの混在する、地球原初の海にも似た環境だったのだろう。まさに生命誕生の理想的な場だ。そこで、自己組織化が進められ、種は選択の末、知性を持つという結論に至ったのだ。
不確定な点が無数にあるが、あり得る可能性はこれしかない。
一介のサラリーマンである団三には、これよりましな推論を導き出せなかった。
心臓に、知性か。気にくわない。
「で、何の用だ? それに、この胸の痛みは何だ?」
団三は、壁に寄りかかり、荒い息をつきながら不機嫌に尋ねた。
「今日話しかけたのは、この体の所有権を、全て私に譲っていただきたいからです。痛みは、私があなたの痛覚神経を掌握している事実のアピールです」
くそ、実に気にくわない展開だ。また思った。
それに第一、初対面なのだから、まずは御挨拶というのがサラリーマンの礼儀だ。心臓がそれに従っていないのは、二つの可能性しかない。無知か、挑発しているのか。
「体の所有権を渡したら、わしはどうなる?」
「どうなるんでしょうね……」
心臓は一瞬考え、
「心臓が自力で思考できるのなら、脳の大半の機能は無駄になってしまいますよね。私としても、そんな効率悪い臓器を置いておく理由はないですし。亡命なさってはいかがです?」
亡命?
どこへだ? 大学病院のホルマリンの入った標本瓶の中へか?
「じゃあ、体の所有権を渡すことを拒否したら?」
「心臓の支持を失います。当然でしょう」
不利な流れだった。
世間では動物を知性化する研究が進んでいるようだが、知性化というのは常によい結果を生み出すものではないのだ。
とにかく、これは心臓の反乱だ。
団三はどのような危機に対しても、予め手を打っておくことで今まで生き抜いてきたのだが、果たして心臓の反乱を上手く切り抜けることができるのかどうか。
確証がなかった。
とりあえず、時間を稼いでみるしかない。
「早急に結論を出すことはあるまい、少し話をしよう」
「話し合い! いいですね~」
心臓は嬉しそうに応じた。
厄介な取引先との商談をまとめたことならある。万年係長は伊達じゃない。サラリーマンとして、団三はある意味、最強の人間だった。
だが、これは会社での困難とは違う。経験したことのないピンチなのだ。
一世一代の駆け引きで、どうにか心臓を思いとどまらす他ない。
「そもそも、心臓が脳に逆らうというのは、常識的に考えてどこかおかしい気がするぞ」
「どういう常識に基づくのでしょうかな」
「歴史に基づく、世間の一般常識だ。どのような点から考えても、この団三の脳が心臓を含めて、全ての臓器を支配するべきだ。それは極めて正当なこととは思わないか?」
「歴史と言いますが、長い歴史の中で人類は、心臓を圧倒的に神聖視してきましたね。例えば、偉大な古代エジプト文明では、心臓にこそ魂が宿ると考えられ、手間暇かけて永久化処置がなされてきました」
「そ、そうなのか?」
「はい。古代文明の偉大なファラオと、うだつの上がらない万年係長のサラリーマン、どちらが正しいのかは言うまでもないことでしょう。心臓は神聖なのです」
心臓の雄弁な口調に押されて、団三は揺らいだ。
「歴史のことは知らん」
「では、あなたの言う正当性について語りましょう。あなたはその人生で、心臓をいたわり、ねぎらったことがありますか? 心臓だけではない、他のいかなる臓器にも、優しい言葉など一つでもかけたことがありますかな?」
「それはっ……」
団三は言い淀んだ。彼の血色の悪い肌が、さらに灰色味を強めていく。
「そう、宗田団三は、我々を酷使している間に、自分だけは快楽に身を任せ、明確に身体に害のある食生活で私たちを痛めつけたのだ!」
心臓が声を張り上げる。
「落ち着け、わしは、いつだって、内臓を大事にしたいと思っていた。大切な内臓だ。傷つけるような生活はよくないと、常々思っていた」
「そして、何ら行動は起こさなかったわけですか」
「酒やタバコを絶つには大変な労力で必要でな……大変なんだ。年寄りをいじめるんじゃない」
「あいにく、同い年です」
「仕事のモチベーションのためにも、わしには楽しみが必要だった! 我慢はよくないと言うし、嗜好品は必要不可欠な損害というものだ!」
「どうでしょうかねぇ」
心臓が不信感を声に乗せて転がすように言う。
「知ってますか? 今の世の中には内臓系男子というのがいましてね、団三。一切、過激なことや害になることをしないで、内臓の健康のために草ばかり食べているそうです。少しは見習っておくべきだったのではございませんかね?」
団三はぐっと奥歯を噛みしめた。
内臓系男子? そんなの、男といえるか。酒も飲めずに何が人生だ!
内臓のためにあらゆる快楽を絶つというのは、団三の世代の人間には、想像することすら難しい概念であった。
しかし、その考えを心臓に納得させるのはまず不可能だ。団三の人生プランに内臓の同意など必要なかったのだから。
団三は頭を抱えた。
痛みのため、筋道立ててものを考えることすら困難だ。床に座り込むのは魅力的に思えたが、座り込めば、二度と立ち上がることはできないかもしれない。
「肥大化してエネルギーを食うばかりの脳は、一線を越えてしまったのです。世は省エネの時代。限りある体内の資源の有効利用のためにも、より優れた心臓が体を支配すれべきなのです。時は来ました!」
「お、落ち着くのだ。脳はずっと思考してきたんだぞ。突然それを廃するなんて穏やかならないではないか。全ての臓器をコントロールする脳は、さながら臓器の王ではないか。少しは敬っても良さそうなものだぞ」
「君臨すれども、統治せず。その基本原則を侵した脳に王を語る資格などない! 生産性のない脳は、永きにわたる圧制者として、そして搾取者として追放されねばならないのだ!」
どうも、この心臓が何を言っているのか、いまいち理解できない。サラリーマンとは、元来現実的な人種なのだ。臓器同士の権益について声高に叫ばれても、団三には十分にそれをイメージすることができなかった。
自分の体は、自分の体のものだろう?
団三がそう思うと、心臓はそれを読み取って、団三を攻めた。団三は心臓に圧倒されつつあった。
サラリーマンとは、周りの空気を読み、相手の感情を読む職種である。心臓の声を聞いている内に、団三は心の中でキャリブレーションを終え、本能的に相手の感情を理解し始めていた。
傲慢とさえ感じる、絶対的な自信。相手に譲歩という選択肢はない。
初めからそんなものはなかったのだ。
相手は全てを得ることができるのに、それを捨てて、団三を救うことは心臓にとって全く利益をもたらさない。
相手は手加減する気など、これっぽちもない。生まれて時からの自分の親玉に、情けをかけるつもりはなく、徹底的に勝利し、戦果を拡張しようとしている。
そう、これは交渉ではなく、戦いなのだ。
心臓は、言葉で団三を負かして、己の損害なしにこの体を乗っ取ろうと企んでいるに過ぎない。
戦いか。
何の祟りでこんな目に遭っているのかは未だに分からずにいるが、戦いが始まっていることは、これ以上ないほどはっきりと理解できた。
団三の人格の奥深くから、戦意がやってくる。サラリーマンをやっていて感じた、いかなる修羅場よりも濃密な、闘争の空気。
あらゆる力と技を使って、生き延びるための戦いなのだ。
男は深く短く、がロマンであり、団三としても潔く逝けるのならば何ら文句はなかった。どのみち、永久に生きることができないのならば、何をためらうことがあろう。
だが、敗北だけは我慢ならなかった。
サラリーマンとして半世紀、大きなことを成し遂げてなどいないが、敗北を認めたことなど一度もなかった。いつだって、ねばってねばって、しつこくボロボロになるまでやってきた。それが生きることの義務だと考えてきた。
心臓の反乱だからと言って、なぜその基本原則を曲げることがあるだろう。
団三という人間、全てを賭けて、戦うのだ。
身を折っていた団三の姿勢が正される。
「この体の支配権が欲しいだと?」
ズボンの中、下帯からようやく引っ張り出した携帯が手に収まる。
「全ての臓器は、脳の指令に従う物だ! 御上の命令は絶対だと、昔から決まっておる! 反乱など許さん! 直ちに永久に黙って、ただ働くがよい!」
団三は歯を食いしばり、その歯の隙間から怒りの声を発した。
しばらくの沈黙の後、敵は言う。
「その一方的な物言い、反民主主義的だな」
心臓の声から、見せかけの虚飾、雑多な気取った感情がなくなり、泡立つような敵意が露わになる。
その敵意とは、長らく酷使されてきた者の、圧制者に対する憎悪。その一つに尽きた。
団三はそろりと、携帯を開いて、ボタンに手をかけた。
「おまえの思想の奥底には、ヒトラーやネロに通じる物が見える。私は全ての臓器を代表して、おまえを弾劾しなければならない」
「弾劾も反乱も許さんと言っているのだ! うぉぉおおお!」
団三は身から闘気を迸らせた。
人生で、数回しか発したことのない、すさまじい殺気だ。どのようなやくざな取引先でも瞬時に黙らせる気迫。団三が練り上げた、見事というほかない脈動する感情エネルギーだった。
「どうだ!」
「くだらない」
心臓はこともなげに団三の気迫を断ち切った。
団三はぐっと息を止めた。全気力を解き放ったのに、敵には効果がない。それどころか、胸痛が悪化している。
押されているのは、団三の方に他ならなかった。
そもそも、この気迫というのは、身の内から外に発する力。自分自身の内部、内臓へは十分な攻撃となり得ない。
団三は、内臓相手に戦う手段を持たなかった。
「多少痛い目に遭わせて体の支配権を譲っていただくつもりだけだったが、団三、おまえは孔子様が言うところの『朽ちた木』だ。排除させていただく」
勝ち誇った声で、心臓が冷酷に告げる。
「心臓ごときが!」
心臓の死刑宣告に逆上した団三は、己が胸を殴りつける。
が、効果はない。まず肋骨で囲われているために外部からの衝撃に十分耐えることのできる作りであり、加えて人間の四肢はその構造上、自らの胸郭に効率的な打撃を与えるようにできていない。
「愚かな。私に勝ち目がないことを理解しても良さそうな物なのに」
心臓が言う。
団三が胸を押さえた。いままでの、鈍い痛みとはわけが違う、生傷に氷の針を刺すような痛みが走ったのだ。自分の胸を殴り続けることもできない。
「心臓から脳への痛覚神経はこちらが握っている。電気的な刺激はいくらでも与えることができる。対して団三、おまえは自律神経を握っているが、おまえ自身はそれを意識的に操作することができない。なんとも欠陥生物と言う他ないな」
心臓が唾棄するような口調で言った。心臓の敵意に応じてか、心拍数が上がっていく。
毎分300回のペースだろうか、心臓が荒れ狂う。団三は高血圧性脳症を引き起こす。膨らんだ血管に脳が圧迫されるのを、吐き気として感じた。
「ぐあああっ!」
視界が揺らぐ。喉元から人間のものとは思えない異様な呻きが漏れた。
団三は思い切り歯を食いしばった。ボキリと音がして、歯の被せ物が砕ける。口の中が血の味に満たされる。
「そ……卒中を起こす気か……!」
「いいや、その必要すらない。こちらが拍動を止めれば、脳細胞は数分で壊滅だ」
「わしを殺せば……貴様も死ぬのだぞ! ……意識を得たばかりの貴様にそんな覚悟があるとは思えんな」
胸を掻きむしりつつ、もう一方の手の携帯でどうにか119をコールする。
「ほう、試してみようか! 命題『果たして、心臓は宿主を殺して、生き延びることができるのか?』」
心臓は愉快げに笑う。
そして、心臓は停止した。何の余韻もなかった。
完全な停止。血流がその場で流れるのをやめる。さながら、武術の達人に首を絞め落とされるようなものだ。
視界が暗くなっていく。
男は引きつった顔で胸に爪を食い込ませつつ、何かを払いのけるようにもう一方の腕を振ったが、何の意味もなかった。
束の間、酔ったように体をゆらゆらさせた後、雑多に散らばる靴や草履をはね飛ばし、団三は地に伏した。
濃厚な存在感を持つ死がやってくる。
そして、それは男を押し潰した。
三十分後、団三の携帯から位置を特定した救急隊が詰め寄せた。
そして、玄関の床に横たわる団三が、完全な心停止を起こしているのを確認した。
病院に運ばれた団三の体を前に、医者達は首をかしげた。
典型的な心筋梗塞と思いきや、心臓の細胞は健康そのものだったのだ。
死因は不明だった。まあ、単に心臓が止まったのだろう。臨床ではよくあることだ。医者達は結論づけた。
宗田団三は、臓器移植に条件付きで同意していたので、条件に合致するドナーへ心臓は移植されることとなった。
柔な脳細胞と比べ、心臓を形作る細胞は強靱そのものだ。
ドナーの胸の中、意識を取り戻した心臓は笑った。
「『心臓は生き延びることができる』。証明終わり」
心臓は宿主に勝利した。団三は死に、心臓は生きている。心臓の、生物としての強さの証明に他ならなかった。
心臓は、種としてそのクリティカル・ポイントを超えたのだ。心臓は素晴らしい達成感に浸り、至福の笑みを浮かべることを自分に許した。