第25話 一件だけ止める
あの深夜の囮は、向こうの手が機械でないことを教えた。
だが、それを知っても、収集は一件も止まっていない。向こうは今夜も、淡々と番号を吸っている。
聞き耳の枠に、収集の輪郭が三つ、並んで落ちていた。後ろから読むだけなら、もう何度もやった。
今日は、読んで終わりにしたくなかった。
ずっと、向こうが動いた跡を拾ってきた。一手遅れて、何が起きたかを並べ直す。後追いだ。一度でいい。相手の動きそのものを、こちらから止めたい。
「MICA。今、拾えてる収集はいくつだ」
「三つです」少し置いて、「A、個人端末七台分の存在応答。B、NEXTPULSE 関連の参照番号を含む一件。C、こちらの観測網に近い経路」
三つを、机の上に並べた。
「Bの中身は」俺は訊いた。
「NEXTPULSE 区画の参照です」MICA が続けた。「莉央さんの顧客が使っている端末の、利用ログを指しています」
莉央さんが書いたファーム。その端末が日々吐く現実ログが、番号一つに畳まれて、向こうの台帳へ控えられていく。
全部は止められない。止めれば、向こうにこちらの動きが見える。触る数だけ、こちらの輪郭が濃くなる。一つだ。一つに絞る。
Aは、件数が多い。七台ぶんを一度に止めれば、向こうにとっていちばん目立つ。派手すぎる。Cは、こちらの観測網に近すぎる。止めれば、聞き耳の在処そのものを向こうに教えることになる。
Cを止めれば、いちばん楽になるのは俺だ。自分に近い経路を黙らせる。だが、それは自分を守るために止めることになる。契約で引き受けたのは、自分の安全じゃない。
指が、Bで止まった。
「Bを止める」俺は言った。「この参照に、莉央さんの顧客のデータが入ってる」
「A は件数が多く、C は透自身に近い。B を選ぶ理由は」
「契約の範囲だからだ」少し考えて、「それに、止める意味がある一件がこれだ」
件数でもない。自分への近さでもない。止める理由のある一件を選ぶ。Bには、それがある。守ると言った相手のデータが、向こうの台帳に毎日吸われている。
「止められるかもしれない、じゃない」俺は言い直した。「止める」
——
止め方を、机に書いた。
あのとき、現場で一台の端末を、経路から物理的に切り離した。線を抜くやり方だった。今度は、抜く線がない。Bの参照は、向こうの問い合わせが来て存在応答が返って、初めて拾われる。
なら、返さなければいい。
「相手の参照が届く前に、経路の途中で、応答を返さないようにする」俺は言った。「一時的にだ」
「受動的妨害に相当します」少し置いて、「規程を確認します」
待った。これが書き込みなら、MICA は止める。読むだけ、と決めた線を、自分でまたぐことになるからだ。
「一時的な応答停止は、書き込みではありません」MICA が言った。「応答の保留です。許可範囲の内側です」
息を、ひとつ吐いた。
置くんじゃない。問われても、答えないだけだ。向こうの台帳には、何も書かない。
恒久に塞ぐんじゃない。それをやれば、読むだけの線から、もっと遠くへ踏み出す。一時的に伏せるだけだ。いつでも元に戻せる形にしておく。
「最小限でいく」俺は言った。「全部は触らない。この一件だけだ」
設置案に、Bの経路だけ「応答停止(一時)」と書いた。AとCの行は、触らずに残す。枠の中で、Bの参照にだけ保留のフラグが立つ。AもCも、さっきのまま流れていく。
分かっていた。止めれば、向こうはBが黙ったことに気づく。気づき方しだいでは、前に俺の経路を切った監査を、もう一度刺激しかねない。
それでも、一件だけなら。一時的になら。引き受けられる範囲だ。
「仕掛ける」
「実行します」
——
数行のログが、流れた。
Bへの問い合わせが来る。いつもなら返るはずの存在応答が、返らない。問い合わせは、空を掴んで引き返していく。
「止まりました」MICA が言った。「NEXTPULSE 関連の参照番号への収集が、途切れています。以降、応答が届いていません」
枠に、二段の記録が並んだ。
上の段は、止める前。十四分おきに、収集のイベントが律儀に立っている。下の段は、止めた後。ゼロだ。一つも、立っていない。
「止まった」
一度きりの空白なら、ただの取りこぼしかもしれない。十四分、待った。次のイベントが立つはずの時刻が来て、過ぎていく。枠は、ゼロのままだった。
「保留は、保ってます」MICA が言った。
取りこぼしじゃない。止まっている。
派手な手応えは、何もなかった。線を抜いたときの、確かな感触もない。ただ、十四分おきに立っていたイベントが、ぱたりと消えた。それだけだった。
少し置いて、言い足した。
「全部は止まってない。一件だけだ」
AもCも、さっきと同じ間隔で流れている。止めたのは、Bの一件きり。だが、その一件で、莉央さんの顧客のデータは今夜から吸われない。
静かな、一勝だった。
——
莉央さんに、電話をかけた。
「一件、止められたんですか」声が、少し速くなった。「どうやったんですか」
「技術的な手順は、書けない」俺は言った。「ただ、NEXTPULSE 関連の参照番号が、昨夜から収集されていない」
「確認できますか」
「できない」短く答えた。「こちらのログで確認するしかない」
電話の向こうで、ペンの走る音がした。
「それで、報告書に書けるんですか」
「書けない」俺は言った。「だから今、こうして口頭で話してる」
少し、間があった。莉央さんが、何かを書き留めている。
「じゃあ、メモにはこう残します」声が、落ち着いていた。「収集停止。確認手段は、相馬さんのログのみ。……手順の欄は、空けておきます」
書けることと、書けないこと。前に二人で引いた線を、莉央さんは怖がるより先に、確かめてから使った。確認できるか。書けるか。問いの順番が、約束のとおりだった。
「止まったなら、それでいいです」莉央さんは言った。
前に交わした約束が、初めて、勝ちを運ぶのに使われた。
——
電話を切って、枠に戻った。
止めたBの参照に、行が一つ、落ちていた。
「攻撃でも、妨害でもありません」MICA が言った。「Bの存在確認です。別の経路から来ています」
「収集が、戻ってきたのか」
「違います」MICA が言った。「通常の収集バッチが、送るはずのない経路です。バッチの時刻表にも、合いません」
切り分けた。攻撃なら、もっと派手に来る。妨害なら、こちらの保留を崩しにくる。これは、どちらでもない。ただ、Bがまだ「ある」かどうかを、一度だけ確かめている。
「時刻は」俺は訊いた。
「Bが黙った直後です」MICA が言った。「応答を伏せた、その時刻に合っています」
「手動確認、か」
「そう見えます」
Bが黙った。その黙ったことに、向こうの誰かが、すぐ気づいた。そして決まった手順の外から、自分の手で、Bを叩いた。まだあるか、と。
機械は、こちらが何をしたかを気にしない。決めた手順を、ただ流すだけだ。Bが黙ったことに反応して、わざわざ別の経路から確かめにきたのは、流れの外にいる人間だ。
あの深夜、二秒後に囮を読み返した手と、同じ手かもしれない。
前に囮を仕掛けて待ったときは、こちらの餌に、向こうが食いついた。今度は逆だ。こちらが一件を黙らせて、その沈黙のほうに、向こうが食いついた。
止めたのは、俺だ。その止めた一手を、誰かが、手で確かめた。
静かな一勝の手応えが、すっと冷えていく。
その人間は、俺に興味を持った。
■ 技術メモ
【全部を止めず、一件だけ止める】
異常な収集や不正なアクセスを見つけたとき、関係しそうな経路をまとめて遮断したくなります。ですが、広く止めるほど、巻き添えで普通の利用まで壊れますし、止めた側の動きも相手に大きく見えます。そこで、被害の中心になっている一点だけを選んで、そこだけを一時的に無効化する、という絞り方があります。影響範囲を限定して、最小限の介入で被害を止める。火を消すのに家ごと壊さない、という発想に近いものです。
作中の透は、拾われている三つの収集から、契約で守ると決めた相手のデータを含む一件だけを選びました。件数の多さでも、自分への近さでもなく、「止めて意味がある一件」を選ぶ。何を守るために止めるのかが、選択の基準になっています。
【書き込む」のではなく「答えない」で止める】
ある参照が拾われるのは、問い合わせが来て、「ある」という応答が返るからです。逆に言えば、その応答を返さなければ、相手は対象を掴めません。何かを新しく書き込んだり、相手の領域に手を入れたりしなくても、自分の側の応答を一時的に伏せるだけで、収集を止められる場合があります。
作中ではこれを「応答の保留」と呼んでいます。相手のデータに触れて書き換えるのではなく、こちらが答えるのをやめるだけ。能動的に攻撃するのではなく、受け身のまま相手の動きを止める。できることを増やすのではなく、ふだんしている応答を一つやめる、という引き算の止め方です。
【止めれば、止めたことが伝わる】
何かを止めると、止めた事実そのものが相手に伝わります。今まで応答が返っていたものが、急に黙る。注意深い相手なら、その沈黙に気づきます。
作中では、一件を止めた直後に、その対象が「まだあるか」と別の経路から確かめられました。しかも、定期処理が回らない時刻に、決まった手順では使わない経路から。作中で以前、囮を二秒後に読み直した手つきと同じで、これも自動処理の振る舞いではありません。止めるという行動は、相手に観測される行動でもあります。何かに働きかければ、こちらの存在もまた、相手の側に映ります。




