第33話 ささやく水
泉のそばで、時間だけが少しゆるやかに流れているように感じられて、外の森とは切り離された場所にいるのだと、肌の奥でわかる。
「……」
ルティは、しゃがみ込んだまま、まるで何かと向き合うように水面を見つめている。
ゆらゆらと揺れる光は、ただの反射ではなく、どこか“応えている”ようにも見えて、その違いを言葉にはできなくても、ルティの中ではちゃんと区別されている。
「……」
スプーンを、そっと水へと近づける。
ちゃぷん、と触れた瞬間に広がる波紋は、先ほどよりもわずかに大きく、そして遅れて、内側から押し返すような揺れが返ってくる。
「……?」
ルティは、小さく首をかしげながらも、その違いを“変だ”とは思わない。
むしろ。
「……」
“返してくれた”。
そんな感覚に近い。
もう一度、今度は少しだけ楽しむように、同じ動きを繰り返す。
ちゃぷん。
水は、また応える。
「……!」
目が、きらりと光る。
楽しい、という感情が、迷いなくそのまま表に出る。
「……」
そのとき。
水の奥で、光がふっと寄り集まり、一瞬だけ形を持つ。
丸く、小さく、確かに“そこにいる”と感じられる輪郭。
すぐにほどけて、元の揺らぎに戻る。
「……?」
ルティは、瞬きをひとつして、それを追いかけるように水面をのぞき込む。
見間違いだったのかどうかを確かめるほどの思考はなく、ただ。
「……ひかり」
嬉しそうに、そう呼ぶ。
名前を与えることで、それはもう“知らないもの”ではなくなる。
「……」
ザーラは、その一部始終を少し離れた場所から見ていて、今の“形”をはっきりと認識していた。
眉が、わずかに寄る。
警戒。
だが同時に、それがこちらに害をなすものではないという直感も、同じだけ強く働く。
「……」
理屈ではない。
経験でもない。
それでも、“これは違う”と判断している自分がいる。
「……」
ルティを見る。
怖がっていない。
それどころか、心から楽しんでいる。
「……」
その無防備さに、危うさを感じるはずなのに。
同時に。
その無防備さが、この場所と噛み合っているようにも見える。
「……」
小さく、息を吐く。
現実的に考えれば、未知の現象からは距離を取るべきで、特に今の状況では余計な要素を増やすべきではない。
それでも。
「……」
ここで無理に引き離すことが、“間違い”である気がしてならない。
ゆっくりと歩み寄り、ルティの隣に腰を下ろす。
「……何してるの」
「……みず」
あまりにもそのままの答えに、思わずわずかに口元がゆるむ。
「……そうね」
隣に座ると、空気の感触が変わる。
外から見ているのとは違う、“内側”の静けさ。
「……」
ルティは、指先を水に入れて、ちゃぷんと揺らす。
広がった波紋が、ザーラの方へ届く。
その瞬間。
指先に、ほんのわずかに、あたたかさが触れる。
「……?」
すぐに消える。
だが。
確かにあった。
「……」
水面を見つめる。
何も変わっていないように見える。
それでも。
“何かがいる”。
そして、それは敵ではない。
「……」
ルティが、スプーンを差し出してくる。
「……?」
「……どうぞ」
たどたどしいながらも、共有しようとする意思がはっきりと伝わる。
「……」
ザーラは、一瞬だけ目を見開き、それから静かに受け取る。
水に触れる。
ちゃぷん。
波紋は広がるが、その返りは弱い。
同じ動きなのに。
違う。
「……」
スプーンを見る。
ルティを見る。
そして、水面へ。
「……」
この場所は、誰にでも同じように応えるわけではない。
「……」
言葉にはしない。
まだ、できない。
けれど、確信に近づいている。
「……」
ルティは満足そうにうなずくと、今度は水をすくおうとする。
スプーンで。
しかし、水はすぐにこぼれ落ちてしまう。
「……!」
少し驚く。
もう一度。
やっぱり、だめ。
「……」
考える。
眉を寄せて。
それから。
両手で、水をすくう。
ぴちゃ、と水が手の中に留まる。
「……!」
成功したことが嬉しくて、ぱっと顔が明るくなる。
すぐにこぼれてしまうのに。
それでも、楽しい。
「……」
ザーラは、その様子を見ながら、ほんの短い時間だけ、すべてを忘れそうになる。
追われていることも。
選ばなければならないことも。
「……」
ただ、この瞬間が続けばいいと。
思ってしまう。
その、直後。
遠くで、鳥たちが一斉に飛び立つ音が響く。
ばさっ、と空気を裂く羽音。
「……」
ザーラの表情が、瞬時に現実へ引き戻される。
同じだ。
さっきの気配と。
いや。
もっと近い。
「……」
ルティはまだ、水を見ている。
「……」
ザーラは、立ち上がる。
「……ルティ」
「……?」
「……こっちに来て」
声は低く、余計な感情を削ぎ落としている。
「……」
ルティは、すぐに立ち上がり、水から離れる。
でも。
一瞬だけ。
振り返る。
泉。
光。
ゆらゆらと揺れる、その奥。
今度は、はっきりと。
小さな光が、形を保ったまま揺れている。
まるで。
見送るように。
「……」
ルティは、迷いなく小さく手を振る。
「……ばいばい」
その仕草は、別れを理解しているというより、“また会う”ことを疑っていないものだった。
「……」
ザーラは、それを見て。
何も言わない。
だが。
確かに感じている。
ここは敵ではない。
むしろ。
味方に近い。
だからこそ。
「……」
軽々しく、晒していい場所ではない。
二人は泉から少し離れ、直接見えない位置へと移動する。
隠れるための場所。
息を潜めるための場所。
「……」
空気が、再び変わる。
やさしさは残っている。
だが、その奥に。
確かに、緊張が混ざり込んでいる。




